英語と書評 de 海馬之玄関

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<再論>応報刑思想の逆襲(3)

2012年11月28日 20時19分40秒 | 日々感じたこととか


◆刑法と刑罰の存在理由としての社会秩序維持

犯罪抑止効果の乏しい刑罰は無意味なのか。そもそも、応報刑思想は具体にはどのような犯罪観と刑罰観と親しいのでしょうか。畢竟、刑法と刑罰の目的は特別予防と一般予防です。これは前提とせざるを得ない。而して、繰り返しになりますけれど、一般予防機能とは端的に言えば「刑罰の見せしめ効果」のことであり、究極的には法の権威を維持し法の尊厳を保つことです。

蓋し、一般予防とは、(甲)刑罰の見せしめ効果によって「誰もが持っている犯罪者になる可能性からより多くの人々を遠ざける」のみならず、(乙)法と秩序を侮辱する犯罪の挑戦から刑法を包摂する法体系全体の権威と尊厳を守ること。すなわち、「一般予防」という言葉は狭義の(甲)の意味と、(甲)(乙)を併せた広義の二義を持っているのです。畢竟、戦後民主主義イデオロギーを信奉する人権派は(甲)の狭義の意味でしか「一般予防」を理解していないのだと思います。

而して、後者の(乙)を、藤木英雄さんは「犯罪が空洞化させた法秩序の権威の刑罰による回復」と表現しておられるのですが、いずれにせよ、そのような権威と尊厳を具備する法体系のみが市民を犯罪から守る機能を果たしうる。逆に言えば、一般の人々が刑事法体系と刑事司法、更には、犯罪報道に沈殿結晶する、その社会毎の犯罪観と刑罰観に対して「こんな犯罪者の処遇オカシイよね」という不信感を恒常的に抱いているとするならば、その法体系の効力は(法の実効性と妥当性の両面で)危機に瀕していると言うべきでしょう。

すなわち、ある刑事法体系は<市民>のこのような法感情や法意識をその制度の運用実際に恒常的に昇華させ結晶させ続けるのでなければ、その刑事司法は<市民>の支持を早晩失い、よって、社会をアノミー状態に陥らせ、而して、社会のすべてのメンバーを犯罪の被害者か加害者にしてしまう危険性を常に孕んでいる。私はそのように考えるのです。

再々になりますけれど、刑法と刑罰は、加害者に復讐する権利を被害者から奪うと同時に、公権力が被害者に代わって復讐する制度でもある。ゆえに、①公権力が犯罪者に復讐しないのならば、そして、②犯罪に対する刑罰の厳しさの度合に市民の多くが納得していないようであれば、加害者に復讐する被害者の権利が復活するのは時間の問題でしょう。而して、それは仇討ちを封じた近代社会の熔解、すなわち、社会のアノミー化に他なりません。





古典学派の刑法思想は啓蒙期まではおおよそ応報刑主義的でした。それは、犯罪者に対して道義的な責任を取らせ、犯罪に見合った刑罰を甘受させることを求める思想だった。この応報刑思想は、<復讐する主体は国家である>ことを、復讐の権利と権限を国家に召し上げられた被害者に納得させつつ、社会の秩序を守ることを刑法の究極必須の目的と解する思想です。

而して、この目的こそ現在の日本がその達成を渇望しているものではないでしょうか。ならば、本稿の結論の先取りになりますが、応報刑思想の原点に還るべき時代に現下の日本の刑事司法と社会は来ているの、鴨。と、そう私は考えています。

このような応報刑思想に立ち戻るならば、「厳罰化」は目先の犯罪抑止効果とは別の観点からも推進されるべきものとして理解される。もちろん、触法少年や虞犯少年にせよ触法精神障害者にせよ、彼等に対する特別予防の充実は焦眉の急でしょう。このことは間違いない。しかし、応報刑思想を基盤とする「厳罰化」(否、刑事法体系の常識的な運用、要は、「正常化」)は「犯罪の原因たる社会の責任の究明」なるものや「治療・教導に関する人員・設備の充実達成」の後に初めて着手すればよいというような低い優先順位のものではないこともまた間違いないと思います。ならば、前節の末尾の「宿題」への解答は次のようになる。と、そう私は考えます。

蓋し、犯罪の抑止効果を「厳罰化」の根拠と考える人権派の論理は間違いではないけれど、現実に厳罰化によって犯罪が減少したかどうかは(例えば、飲酒運転の厳罰化によって飲酒運転事故は激減しましたが、他方、その裏面として飲酒運転によるひき逃げ件数は微増に転じたというような事象は)厳罰化の妥当性判断の一斑でしかなく、広義の一般予防機能を巡って法の権威と尊厳について一般の人々が懐く意識の度合いがメンテナンスされているかどうか、このことがこのイシューの中核的な問題なのだ、と。

上で述べた主張を踏まえ次節では、応報刑思想が含む、言葉の正確な意味での<人道主義>、すなわち、応報刑思想が被害者も加害者も等しく人間としてその人格を尊重する思想であること。そして、応報刑思想は、犯罪者が自己の道徳性を回復し、刑罰によって罪を償い、よって、彼や彼女を社会の平等なる正式メンバーとして再度迎え入れることを可能にする思想でもあることを一瞥したいと思います。






◆刑罰を受ける権利

犯罪者がその罪を償う<権利>を大東亜戦争後のこの社会は看過軽視してきたのではないでしょうか。少年や精神障害者による犯罪報道に接するたびに私はそう感じます。また、それらの事件に対する人権派のコメントを目にするとき、私はそのヒューマンで優しい言葉の裏側に、ある種の傲慢さと知的怠惰を感じないでもありません。

ことほど左様に、戦後民主主義のイデオロギーに染まった人権派のコメントには、それがいかに人権の用語と立憲主義の文法で飾られていようとも、例えば、

刑罰が免除/減刑されるのだから加害者側には文句はないだろうよ。
で、被害者遺族の憤り? 死刑を求める厳罰化の世論? 少年を実名報道しろだぁ? 
性犯罪の累犯者の情報はデータベース化して誰もが利用可能になるようにして欲しい?
そいでもって、街頭カメラを増設して欲しいんですけどーぉ、だぁとー? 
あんたら「プライバシーの権利」って知ってる?
とにかく、そんなのは感情論。問題にする必要全くなし!
そんなんはね、自分達の主張が国家権力を肥大化させてやね、
とどのつまり、常時権力に市民が監視される管理社会を産み出す主張だってこと。
だから、そんなんは市民の切実な声じゃなくて愚民の感情論にすぎないつーの!


というような上から目線の寒々とした底意を私は感じてしまうのです。これに対して、干支も一回りする12年前、今でもそれを最初に目にしたときに受けた新鮮な衝撃をくっきり覚えている新聞投書がある。本節のテーマ「刑罰を受ける権利」ということを反芻する際にはいつも読み返すもの。長野県の当時55歳の女性NDさんの投書。NDさんの息子さんは20歳のころから人格障害と診断され現在に至っている。家庭内暴力を幼児期から見て育ったのが障害の一因とのことらしい。引用箇所の前にそう書いてありました。以下、投書の引用。


▼「裁かれる権利 与えてほしい」

精神病は通常の人のストレスの延長上にある病でもあり、だれもがなる可能性のあるものです。国も、ハンセン病政策を真に反省するのなら、「精神病者、即隔離」という考えが、どれほど大きな偏見で、医療的にも誤りか分かるはずです。精神病者とて、自ら犯した罪は分かるのです。私の知る限りの精神障害者と家族は、罪を犯したら通常者と同じく刑事責任を問い、裁判を受けさせてほしいと思っています。裁判を受けさせないのは、保護ではなく、裁かれる権利さえも奪っていると思えます。裁判によって、なぜその病になったかのか、病が犯罪にどうつながったのか、あるいは無関係だったのかを究明し、世の人々に伝えてほしいです。それが精神病を予防する道となり、精神障害者の犯罪の減少、予防へとつながると思います。


(朝日新聞・2001年6月20日朝刊・東京本社版、「声」欄より要約紹介)





カントは「人間を主体・目的としてのみ処遇し、道具・手段として扱ってはならない」と語っていますが、現行憲法の基本理念の一つ「個人の尊厳」は、正に、このカントの地平から基礎づけられるべきもの、鴨。そう私は考えます。而して、この社会思想の地平からは、精神障害者や少年を<責任無能力者>と看做すアプリオリな認識は、本質的に人間を馬鹿にしたコトナカレ主義的で官僚的な「思考停止-知的怠惰」の帰結ではないかとも。

例えば、精神障害者や少年の犯罪に対して実名報道を控える慣行は(松井茂記さんが『少年事件の実名報道は許されないのか~少年法と表現の自由~』(日本評論社・2000年11月)で的確に、その「一律の表現の自由の制約」であるがゆえの違憲性を指摘されていることは置いておくとしても)、終戦後の混乱や高度経済成長にともない家族形態と地域コミュニティーが揺らいでいた不安定な時期には、<自分で自分を充分には守れない者>を世間の不当な偏見から守護し、かつ、彼等の社会復帰と自立を容易にする、一つの妥当かもしれない<加害者と社会を和解させる刑事司法のサブシステム>だったの、鴨。

しかし、それが牢固な慣習となりルーティンとなりタブーとなり形骸化の弊害と腐臭を放っている現在、実名報道忌避の慣行は、触法精神障害者や犯罪少年・触法少年から、「精神障害者」や「少年」という記号論的な差異だけを根拠に彼等からこの社会の正規のメンバーとして社会に参加・貢献する機会をも奪う、<人格を暴力的かつ事務的に否定する制度>に成り果ててはいないでしょうか。

而して、罪を犯した自分自身を認識でき、かつ、罪の償いの意味を了解できる者には裁判を通して刑罰を受けさせること。罪も罰も認識し了解できない者には、教育と治療によりその対社会的の危険性を逓減せしめること。刑法と刑罰の特別予防と広義の一般予防の効果を踏まえるならば、このシンプルな原則を愚直に実行すべきではないでしょうか。そして、繰り返しになりますが、刑法と刑罰を基礎づけ正当化する論理としての応報刑思想をもう一度見直すべき時期にこの社会は来ているの、鴨。この投書を読み返すたびにそう私は感じるのです。



而して、人権派がしばしば主張する主張、「少年犯罪・精神障害者による犯罪、通り魔事件やDV、幼児・高齢者虐待の多発に対して厳罰化だけで立ち向かえるわけではない」「家庭や学校、地域の取り組みの強化、犯罪を引き起こす社会の歪みを是正することが大切だ」という主張は、この「刑罰を受ける」権利の観点と地平からは否定的に解されざるを得ないのです。

蓋し、そのような主張は、一面で刑事司法に過大な要求を押しつけつつ、そして、その要求を達成できないことを理由に、(彼等が看過している広義の一般予防機能という)刑事司法の間違いなく枢要な役割をネグレクトするもの、鴨。喩えれば、それは国家権力を全能のものと勝手に想定しておいて、現実には全能であるはずもない権力の非力を声高に非難する類の、朝日新聞的の主張とパラレルのもの、鴨です。

確かに、「厳罰化だけで犯罪現象に立ち向かえるわけではない」という認識は正しいでしょう。なにより、「厳罰化では犯罪は減らない」のかもしれません(前述の如く、飲酒運転罰則の強化により飲酒運転は激減しましたが、所謂「自然犯」では諸外国の例を見ても死刑制度の存置を始め厳罰化によって犯罪が減るとは必ずしも言えませんから)。

けれども、法と秩序への信頼が揺らぎつつあるこの社会の現状を鑑みれば、「国家社会がそのメンバーの行動の規範を改めて明確に示すこと」でもある厳罰化は、正に、この日本社会が渇望している施策ではないでしょうか。そして、もし、この認識が満更間違いではないとするならば、その評価の裏面には「社会の大方のメンバーが納得する重さの罰を受けることで罪を償う、刑罰を受ける権利」の価値に対するポジティブな評価もまたこの社会に遍在しているの、鴨。私はそう期待しています。

このような応報刑思想からの犯罪観と刑罰観に対して、戦後民主主義を信奉する「犯罪者性善説」に立つ論者からは幾つか批判がなされている。次節以下、彼等の批判を紹介しつつ、些か、応報刑思想からの<逆襲>を記しておくことにします。







<続く>


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