英語と書評 de 海馬之玄関

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明治時代の政治家の英語力?

2005年12月02日 14時17分28秒 | 英語教育の話題


主題では「大風呂敷」を広げましたが、そう大したことを述べるわけではありません。日本人の英語でのコミュニケーション能力は明治維新から現在までどう変わってきたのだろうか? と、ある英文記事を読んでいるときにふとそんな浮世離れした疑問が浮かんだのです。そんでもって、漠然と「明治維新以来の日本人の語学力の変遷」とかよりも、「明治時代」「政治家」「英語力」と限定した方が書くほうも読むほうもイメージしやすいかな、と。

その浮世離れした疑問を私に抱かせた記事はこれです。

After all, by pushing the constitution to its limits in sending navy refuelling ships and escorts to the Indian Ocean during the Afghan war in 2001 and keeping them there, and by putting peacekeepers in southern Iraq, Mr Koizumi has gone out of his way to show support for America. With peacekeeping missions in Cambodia and East Timor, Japan has also helped cut America's burden in the region. Hence the praise this week. But should America's commitment to Japan ever waver, a more independent stance to fall back on wouldn't hurt.("Can I be your friend?":The Economist, Nov 17th 2005)


Reading 教材としてこのパラグラフを見た場合、固有名詞を中心にもし知らない単語があったとしても辞書さえちゃんと引けば最初の三つのセンテンス(After all・・・to show support for America. With peacekeeping missions ・・・in the region. Hence the praise this week. )はそう問題にはならないと思います。問題は最後のセンテンスですよね。大風呂敷の浮世離れした話をする前に手短に解説しておきます(尚、訳はこの記事の最後にまとめました)。

But should America's commitment to Japan ever waver, a more independent stance to fall back on wouldn't hurt.



ポイント(1) Ifの省略にともなう倒置
Should America's commitment to Japan ever waver,
=If America's commitment to Japan should ever waver,

これは仮定法の条件節でifが省略されると、
If+S+V → (If)+V+S
になるケースです。よって、この節の意味は、「万が一、アメリカが日本へのコミットメントを揺るがせるとすれば」くらいの所でしょうか。


ポイント(2) "A wouldn't hurt B."の構文
a more independent stance to fall back on wouldn't hurt.
には"A wouldn't hurt B."という構文が含まれています。この構文の意味は、直訳調と意訳調で考えると次の通りです。

直訳調「AをしたとしてもBが傷つくことはない」:意訳調「Bさん、Aをやったからといって損は(害は)ないですよ」=「Bさん、Aをやってみなさいよ」

例えば、研究社『英和中辞典』に載っている例文を引用すれば、Another glass won't hurt you.(もう1杯ぐらい飲んでも差し障りはないでしょう)=もう1杯飲みなさいよ♪

もう一つ。私のアメリカ人の同僚がこの構文で思い浮かべるのは彼の母堂との会話でよく出てきた次の文章らしいです。

Peter, take your medicine. It wouldn't hurt you.(ピーター、薬を飲みなさい。飲んだからといって死ぬわけじゃないんだから/この世が終わりになるんじゃないんだから/何も大変なことがおこるわけじゃないんだから)

つまり、この仮定法の帰結節の形と意味は、省略されているBを書き加えると次のようになると思います。

A[a more independent stance to fall back on]
+wouldn't+hurt(+B[Japan]).
=「(アメリカから)より独立性の高いスタンスに依拠したとしても、それは日本にとって悪い話ではないのではないでしょうか」

この構文自体は辞書にも載っているくらいですから、そうとんでもなく高い難易度の表現ではないです。しかし、TOEICの持ち点にかかわらず、政治・経済を語っている文脈でこの構文が使われると戸惑う方も少なくないのではないでしょうか。


さて、浮世離れした話に入ります。もちろん、双方とも外交関係にコミットするレヴェルとスペックの政治家に限定して考えるのですが、私は英語力自体は、明治時代の平均的な政治家と現在の政治家を比べれば現在の方が遥かに高いと思います。これは、「話し」「聞く」だけでなく「読み」「書き」も含めた英語力全般について言えることだと思います。もちろん、大した根拠があるわけではありませんがそう思います。

これに対して、明治の高等教育を受けた第一期の世代(要は、お雇い外国人というネーティブスピーカーに英語やドイツ語で直接知識を伝授された世代)の抜群の語学力の伝説や、語学と哲学に中心を置いた「旧制高校」の教育の神話を持ち出して、明治時代というか戦前の語学教育の素晴らしさを熱く語られる方もおられるかもしれません。しかし、私はそれらは伝説や神話にすぎないと思っています。

百歩譲っても「英語学者」や「ドイツ語学者」の語学力については、戦前の方が優れていたと言えるかもしれませんが、社会科学を含む他の分野の研究者やビジネスマンや政治家の語学力については、お雇い外国人の授業も旧制高校の影響もそう過大に評価できないのではないでしょうか。

そして、鷗外や荷風や二葉亭四迷、露伴や芥川、あるいは、津田梅子先生や新島襄先生を引き合いにだして戦前の語学教育の優秀さに思いを馳せる方もおられるかもしれませんが、英語のネーティブスピーカーと看做すべき梅子先生は別格としても、これらの例はいつの時代にも語学の上手はいるという単純な事例にすぎないと思っています。

ここまで断言しておいて「もちろん、大した根拠があるわけでありませんが」ではブログの世間が許してくれないでしょう。よって、そう私が確信している根拠を幾つか述べておきます。

<旧制高校の名物教授の英語力>
山形県のある有名な英語教授を祖父に持たれている私の親しい方から伺った話ですが、その英語の達者上手であられた先生は、終戦直後、アメリカの進駐軍が山形に来た際に県庁から「通訳」を依頼されたということです。ところが彼の英語は進駐軍に全く通じず、また、筆談もシドロモドロで数日で御役ご免になられたとのこと。

彼は英米文学だけでなく英米の時事問題や英米流の経済学にも造詣が深い方であり県庁もかなり期待して三顧の礼をもって「通訳」をお願いしたということですが、全く期待はずれだったらしいのです。そして、その替わりを務めたのが昔横浜で貿易実務に従事していた方だったとか。これ自体は、「読み」「書き」中心の戦前の(というかここ15年くらい前までの)日本の英語教育の駄目さ加減を象徴する例のようですが、ポイントは「筆談」もコミュニケーションのスピードについて行けなかったという所でしょうか。

要は、「進駐軍が駐屯する場所はどこか」とか「進駐軍の命令は(日本側の)誰にどのように伝えればよいか」、あるいは、「進駐軍の物資の横流し先はどこで/レートはいくらか」とか「どこに行けば美味しい酒が飲めるか」「アメリカの家族への贈り物は何がいいか/それはどこで入手できるか」等々、決まりきったパターンの情報伝達をノイズ少なく素早く処理する能力と、英米文学や英米の時事問題を深く正確に理解するための語学力は全く別物ということでしょう。テニスの世界チャンピオンが卓球では中学生以下というのとこれは同じです。

要は、能力が試される種目が違う。蛇足ながらコメントしておくと、現在の日本で求められる英語力は後者(そう前者の「進駐軍の通訳」ではなく)を基盤にした、広くビジネスを英語で遂行できるコミュニケーション能力だと私は考えています。

<戦前の翻訳>
これは英語だけではありませんが、数名の名人上手の作品を除けば、戦前の翻訳本は、「それだけを日本語のテクストとして読んで理解できない」、そんな代物が少なくありません。私は学生時代の専攻がらカントの著作を何点か読みましたが、戦前の/戦前の教育を受けた先生方の翻訳本はほんとど途中で投げ捨てました♪



さて、この記事の結論行きます。私は、英語力自体は明治時代の平均的な政治家と現在の政治家を比べれば現在の方が遥かに高いと思います。しかし、英語でのコミュニケーション能力に限ればひょっとしたら明治時代の平均的な政治家の方が現在の政治家よりも上ではないだろうかと考えています。

そして、冒頭で取り上げた"But should America's commitment to Japan ever waver, a more independent stance to fall back on wouldn't hurt."についても、現在の政治家の中にはこのセンテンスの意味がとれない方も少なくないけれど、明治時代の政治家はこのセンテンスの意味なら「感覚的にせよ正しく理解」したのではないかと思われてならないのです。少なくとも、彼等は「誰が傷つくのか/誰にとって損な話ではないのか」を取り違えることはなかったのではないか、と。

なぜならば、「誰が傷つくのか」というポイントを確認するためにこそ明治時代の政治家はコミュニケーションをしていたと想像するからです。つまり、「論理的に考える」こと、あるいは、「国益意識というか/自分は誰の利益を代表して交渉しているのか」という意識が現在の政治家の話す英語にはやや希薄なのに対して、明治時代の伊藤博文にせよ桂太郎、陸奥宗光や小村寿太郎の主張に私は明確にそれを感じるからです。

私はアメリカ人やカナダ人の同僚と仕事をしてますが、当然、英語力では彼等に太刀打ちできません。その点では、「通訳」を御役ご免になった山形の先生と同じです。しかし、英語でのコミュニケーションにおいては(自分で思っているだけかもしれませんが)彼等と結構互角にわたりあえています。つまり、それが英語を通したものにせよコミュニケーションも人間と人間の間のコミュニケーションである限り、論理的で立場意識が明確に確立している方が優れているに違いないと思うのです。これが、日々、英語のネーティブスピーカーとつたない英語でコミュニケーションしている私の持論です。そして、この持論からは大学ラクビーや神宮の野球の話ではなく「明治の勝」じゃないのかな、そう夢想するのです。

羊頭狗肉ではないにしても、間違いなく竜頭蛇尾でとりとめもない話でしたが、皆さんはどう思われますか?


<引用パラグラフの試訳>
結局、2001年のアフガン戦争の際に海上自衛隊の燃料補給艦船と護衛艦をインド洋に送り、現在にいたるまでその派遣を継続していること。あるいは、イラク南部に平和維持部隊の派遣を決断しこれまたその駐留を継続することにより、小泉首相は憲法の解釈をその限界まで突き詰めた。そして、これによって小泉首相はアメリカを支援する姿勢を示したのである。カンボジアと東チモールにおける平和維持活動によってもまた日本はアメリカの負担を減らすことに寄与した。今週の賞賛はこれらの賜物だっただろう。しかし、もしアメリカが日本の擁護を約束する(現在の)日本との関係のあり方を見直すようであれば、日本がその外交の指針をアメリカからの独立性の高いものに差し替えたとしても何も差し障りはないだろう。



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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
面白いです! (とどん)
2005-12-07 22:33:46
こんにちは。初めてお邪魔します。

とても興味深い題材で、一気読みしてしまいました。



私のつたない英語力で判断するのは気が引けるのですが、英語を話すことができる政治家は確かに英語力はあると思うのですが、自分を表現し、自分の意見(もしくは日本としての考え方)を効果的に相手に伝える能力に欠けているのではないかと思う時があります。



仕事でも海外留学・TOEIC高得点で英語が流暢な人に何人も会いましたが、技術的に『流暢』でもコミュニケーション(=自分を表現する)能力は精彩に欠ける人がほとんどでした。自分も含めてそうなのですが、日本人は「どう話すか」「何を話すか」ということをもっと考えて話すべきだと思います。それは日本語でも英語でも同じことだと自分は考えています。
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