哲学の説得力は地域限定的なものでしょうか? あるいは、哲学には食品の賞味期限のようなものがあるのでしょうか? これらの問いは哲学の歴史の中で繰り返し問われてきたと思います;「哲学は進歩するか」あるいは「ある思想はその唱道者と離れて(その唱道者が死去たとしても、)成長発展するものだろうか」という定番の問いの一種であろうということです。
哲学は地域限定的か? 哲学には賞味期限があるのか? この記事では、「世界観や世界像の拘束力は歴史的・文化的に特殊なある社会の中でのみ通用し機能するものかどうか」ということを検討してみたいと思います。
哲学は地域限定的か? 哲学には賞味期限があるのか? これらはしかし、ある意味、容易に解答できる問いです。正解は「否」。その心は? 「その心」の説明を兼ねていささか面倒でも「哲学」という言葉の意味について幾つかの辞書を引用して整理しておきます。
[広辞苑第2版]哲学(philosophy)
(pilosophia(ギリシア)は愛智の意。西周は賢哲の希求という意を表すため希哲学と訳し、やがて哲学という訳語が用いられるに至った)世界・人間の究極の根本原理を追及する学問。古代ギリシアでは学問一般を意味し、のち諸科学の分化・独立によって世界・人生の根本原理を取り扱うものとなり、単なる体験の表現ではなく、あくまで合理的認識として学問的性格をもつ。
[広辞苑第5版]哲学(philosophy)
①(pilosophia(ギリシア)は愛智の意。西周は賢哲を希求する意味の周茂叔の文に基づき希哲学と訳し、それが哲学という訳語に定着した)古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立によって、新カント派・論理実証主義・現象学などの諸科学の基礎づけを目ざす学問、生の哲学・実存主義など世界・人生の根本原理を追求する学問となる。認識論・倫理学・存在論などを部門として含む。
②俗に、経験などから築き上げた人生観・世界観。また、全体を貫く基本的な考え方。
[旺文社国語辞典]哲学
①世界・人生・事物の究極のあり方や根本原理を理性によってきわめようとする学問 ②自分自身の経験から得た人生観や世界観。
[岩波国語辞典]哲学
人生・世界、事物の根源的あり方・原理を、理性によって求めようとする学問。また、経験からつくりあげた人生観。
◆哲学は地域限定的ではなく賞味期限もない
『広辞苑第5版』は「経験などから築き上げた人生観・世界観。また、全体を貫く基本的な考え方」という、英語でも日常会話で使われる”philosophy”の語義を収録したのはいいとしても、学問というか知の体系としての「哲学」の語義に関しては、何か百科事典風の説明になってしまっていてかえって分かりづらいと思います。実際、「新カント派・論理実証主義・現象学」「生の哲学・実存主義」「認識論・倫理学・存在論」などと並べられても、それが各々何を指しているのか知らない広辞苑ユーザーにとっては「ありがた迷惑」というものでしょう。
よってここでは、「自分自身の経験から得た人生観や世界観/経験からつくりあげた人生観」という日常的な語義を度外視させていただけるならば、一応、「哲学」の辞書的定義は『広辞苑第2版』に従って「世界・人間の究極の根本原理を追及する学問/単なる体験の表現ではなく、あくまで合理的認識として学問的性格をもつもの」と捉えておこうと思います。要は、
(A)個々の自然や社会や文化ではなく全体を対象とする
(B)その場限りではない普遍的で体系的な認識を
(C)個人が体験したことの文学的や朝日新聞の社説のような表現ではなく公共的かつ理性的に表現するものが「哲学」である、と
ならば、この定義からして(あくまでも「辞書的定義」ではありますが;哲学は普遍性を持つものだからして)、「哲学は地域限定的か/哲学には賞味期限があるのか」の問いの答えは、当然、「否」にならなければならないでしょう。これが「正解は否」の「その心」というわけです。
実際、<道具としての哲学>として哲学を割り切った場合(それは、『広辞苑第5版』の記述「諸科学の基礎づけを目ざす学問」として哲学を捉えた場合と言えるでしょうが)、哲学は地域に限定されず唱道者から離れて発展していく、そして、いささかパラドキシカルですが、哲学には賞味期限もない。そう考えられると思います。
要は(哲学は「認識論・倫理学・存在論などを部門として含む」にしても)、この意味での哲学は、倫理学や存在論としては世界観や世界像が掲載されたカタログであり、あるいは、認識論と存在論を基盤に据えた個々の哲学体系としては思考のアイデアと論理展開パターンのメニューやテンプレート集にすぎないのであり;哲学ユーザーは(自然科学の基礎づけどころか)社会的な紛争や問題を解決するのに最適なアイテムをそのカタログやメニューやテンプレート集から適宜選択して使用すればよいということになるでしょう。
ならば、この意味の哲学は地域にも時間にも拘束されないし、ユーザーは必要に応じて使いやすく効能の望める哲学を使いたい時に使えばよい;喩えれば、地酒だろうがワールドワイドな銘柄のビールであろうが酔えればよいのです。そして、この意味の哲学が唱道者から離れて発展するとしても、ユーザーは別に最先端の哲学を使わなければならない義理も必要もないことになると思います。
大事なポイントなので敷衍します。例えば、現在の日本のフェミニズムが、女性の置かれている不条理な状況を説明するために(問題の社会的な問題性を発見するために)マルクス主義やフロイト流の哲学を使い、他方、ジェンダーフリーな社会を具現するための当座の戦術や政策の理論武装には(政策や施策の正当化のためには)近代個人主義=リベラリズムの社会哲学を援用するとしても、少なくとも、「哲学の使用に一貫性がない」という批判される筋合いはないということです。
この経緯は議論の川上川下の分業についても言えます。現に、人類の生産力の発展(あるいは、自然の収奪の激化)がいかに人間社会の生産関係や社会関係を変革してきたかについての見通しをつけるには(問題の社会的な問題性を発見するためには)マルクス主義的な唯物史観を使い、そして、ある地域のある歴史的に特殊な社会関係の分析のためには近代法体系や古典派経済理論の基盤たる個人主義的な世界観を援用する/構造主義やポスト構造主義と親しい文化人類学的なパラダイムを運用するなどということは、20世紀半ば以降、社会思想と社会政策の常套手段でさえあります。まして、自然科学の個々の領域が適宜(ある領域や局面では古典的な新カント派の認識論を用い、また別の領域や局面では生の哲学や現象学を用いるというように)、様々な哲学を適宜使い分けて研究を基礎づけていることは常識でしょう。
◆哲学は地域限定的であり賞味期限もある
しかし、自然科学の基礎づけの役割から哲学を解放して、社会的な存在としての人間を巡る知の体系の基盤という機能に限定して哲学を考える場合、哲学の有効性や効力や神通力は、やはり、地域と時間に規定される。そう私は考えています。
このことを考えるために幾つか補助線を引きます。例えば、哲学は言葉で行われるが、その言葉自体が文化と伝統と歴史の結晶である;ならば、言語を異にする欧米で作られた哲学が(言語的に見ても欧米と言っても広うござんすが♪)、欧米と異質な言語を話す日本社会で欧米で哲学が果たすのと同じ役割を担うことはありえない。
「哲学は地域限定的であり賞味期限もある」という主張に対して寄せられるであろう、このような提言には十分根拠があると思います。もっとも、これは言語の違いだけでなく、ある哲学者の思想を別の哲学者が完全に理解できるはずはないというのと大同小異の主張でもあるでしょうけれども。
更に、人間が感じ考え悩む上で言葉などがいかほどの機能を果たすと言うのか、という問題提起もある。人間を取り囲む森羅万象と人間の内面生活という人間にとっての世界のはたしていかほどを人間は言葉で表現することができるものか、という指摘です。蓋しこの指摘に関しては、言葉で語られるものなど人間が感じることができるものの中で、そう、東京ドームに針一本分もない;私が良く使う比喩では、「太平洋に風呂桶一杯分もない」と思います。
実際、アメリカの大学・大学院のコミュニケーション学科(Communication Studies)には、言語を使ったコミュニケーションを研究するスピーチコミュニケーション(Speech Communication)という専攻の他にマスコミュニケーションもあればシアターアーツもある。そして、隣接学科にはフィルムメーキングやアンソロポロジーの儀礼研究も控えている。蓋し、このような諸専攻の分立状況も言語の有限性という経緯を直截に示しているのではないでしょうか。また、ラファエロの絵画は音楽を奏でアマデウス・モーツアルトのメロディーを奏でるバイオリンの音は悲しいほど美しい;それらを観賞するのに言葉はかえって余剰である(要は、邪魔である)と;これは小林秀雄が(私は彼を全く評価しませんが、)つとに力説した所です。
けれども、「言葉で語られるものなど人間が感じることができるものの中で、太平洋に風呂桶一杯分もない」というような主張は、哲学の地域や期間による限定ではなく哲学自体の否定に至ると思います。少し横道に入っていますが、哲学の本性と限界を考える上で有意味なのでもう少し続けます。
私は、言葉は有限であるにせよ、それは、哲学を遂行する上では十分な性能を持っていると考えます。そして、日本語と英語やドイツ語との距離も哲学の大方の内容を理解する上ではそれほどの障害にはならないとも。逆に言えば、哲学とはそのような有限な人間の不完全な言葉の性能の範囲で「人生・世界、事物の根源的あり方・原理を、理性によって求めようとする学問」と言うべきなのかもしれません。要は、神の領域:人智を超えた世界の認識を哲学に期待するのは、そもそも、学としての哲学に対する過大なクレームというべきでしょう。
再度記します。哲学とは、世界観や世界像のカタログであり、思考のアイデアと論理展開パターンを収録したメニューやテンプレート集である:そして、(自然科学の基礎づけは置いておくとして)哲学は社会的な諸問題を社会が正に解決すべき問題として発見する場面とその問題解決の施策を正当化する場面で機能する、と。逆に言えば、それは社会的な問題解決の最初と最後に役立つ思考の道具に過ぎないのだと思います。
また、前節でも述べましたように、あるタイプの社会的な課題を解決する上での諸哲学の組み合わせ方のノウハウ自体も1つの経験的な知の体系であり哲学です。而して、哲学は「絶対に正しい」という類の知の体系ではなく、具体的な問題解決の拙劣さによってのみその優劣が判定される類の知の体系ということになります。
日本語と英語やドイツ語との距離も哲学の大方の内容の理解を妨げるほどの障害にはならない。そう私が考えるのは、その言語の障害がこれらのカタログやメニューやテンプレート、諸哲学の組み合わせ方のノウハウ情報の伝播を妨げるほどのものではないという私の哲学(私自分自身の経験から得た人生観や世界観)から来ています。さて、補助線も引き終えたと思いますので本節の結論を書きます。
哲学の機能は、「ゼロベースからの体系的思考によってする社会的な問題の発見とその問題の解決方法の評価を通しての社会的問題の解決」である。理論的な分野を一応切り離して哲学をこう再規定する場合;哲学がその解決を目指す問題が社会的な問題である限りは、それを解決しようとする哲学のパフォーマンスは、それが適用される社会の伝統や文化に規定された人間のものの考え方や、その特殊歴史的な社会にビルトインされ自生している世界観や世界像と協働し共鳴しない限り大した成果は期待できない。つまり、理論としての哲学は時間にも空間にも拘束されないかもしれないが、実践理論としての哲学は地域限定的であり賞味期限もある、と。
◆哲学と地ビール
このように哲学を表象するとき。つまり、(自然科学の基礎づけではなく)ある歴史的に特殊な社会を分析する哲学:人生の問題の社会的な問題性を明らかにする哲学:そして、その問題を解決する施策と政策を正当化する世界観と世界像を提示するものとして哲学を想起するとき、私は最近ではもう珍しくなくなった地ビールを連想します。
ビールやウィスキー、サッカーや野球も海外からルールや技術や戦術だけでなく文化も合わせて入ってきたものです。私は、ミスタープロ野球長嶋茂雄さんの先輩達、別所毅彦さんや青田昇さんが<ベースボール>を実にアメリカのスポーツとして語る講演を聴いたことがあります。彼等は、自分が舶来のスポーツに興じてきたと自慢げに語っていました。蓋し、私の世代にとって1995年に野茂英雄選手が渡米するまでの野球は純粋に日本の<古武道>であったが、沢村・スタルヒン・水原・三原・青田・別所の世代にとってそれは間違いなく舶来のスポーツだったのでしょう。
ことほどさように、ビールもウィスキーも野球もサッカーも、その発祥地の文化の結晶であり美意識の顕現であるけれど;それらは、伝播先の文化や美意識と協働し共鳴することに成功しなかったならば、それらは単なる舶来品売り場の商材にすぎないと思うのです。ましていわんや、諸哲学と諸社会科学の複合体たるデモクラシーにおいておや法治主義や立憲主義においておや、と。では特に、なぜ地ビールなのか? ウィスキーでもなくワインでもなく地ビールなのか? アサヒでもサッポロでもなく、なぜ地ビールなのか? その理由はおそらく次の6個です。
・ビールはもともと日本のものではないこと
・その発祥の地はエジプトであり、それを醸造する技術が発展してきたのはドイツやアイルランドであるとしても、ビールを醸造する技術は普遍性を持ち世界中に伝播したこと
・ビールの醸造には(ウィスキーやワインと比較して、少なくともその初期の段階では)世間一般の水準より高度な職人の技の蓄積は不要なこと
・ビールの製造・販売のビジネスには(ウィスキーやワインと比較して)資金・物流・販売チャネルにより大規模のインフラが必要なこと
・しかし、そのビールを喜んで受け入れる顧客が存在しなければ(どの商品でもそうだけれども)ビールビジネスは泡と消えること
・大量生産と全国展開をビジネスモデルとする大手ビールメーカーのブランドとは違い、地ビールは一人ひとりの顧客の「ビール」に関する美意識の共感を勝ち取りつつその販路を広げていること
哲学も地ビールも西欧起源のものではあるけれどその醸造技術は普遍性を持ち、西欧文明とは異質の社会に伝播することも可能でしょう。しかし、哲学も地ビールも、その伝播先の社会規範や文化規範(飲酒や宴の文化ならびに嗜好の美意識)と共鳴しない限り、それは、伝播先で生き残ることはない。
また、ビールに関しては最先端の技術を移転したから生き残れるというのでもないし、欧米で大きなシェアブランドのものをコピーしたからといって生き残れるわけでもないらしい。この経緯は哲学についても言えると私は思います。実際、80年代後半にあれだけ流行ったポスト構造主義はどこに行ってしまったのでしょうか(笑)。
畢竟、大手のビール会社との競争(それは、その地ビールブランドを求める個人や家庭にいかに大きな満足を与えるかの競争でしょうが、そのような競争)に勝ち残った地ビールは、伝播先の個人や家庭が孕む社会的な問題(?)を顕在化させつつその問題を解決したのではないでしょうか。かなり大げさですが、そのように私は思います。「あー、銀河高原ビールはやっぱ美味いわ! 日曜日の昼、フットサルの練習の後この一杯を飲むのを楽しみに毎日働いているんだよ」という具合に。
ならば、辞書的定義に戻りますが、「個人がとことん自分で考えることを楽しむこと」という哲学の本来の語義から言っても、社会的存在たる個人の人生の問題にコミットする哲学に地ビールと似た何かを感じることは満更おかしくはないと思うのです。我田引水かな(笑)。お粗末さまでした。