英語と書評 de 海馬之玄関

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言語運用能力と国語教育の射程

2009年06月09日 16時19分38秒 | 言葉はおもしろいかも


最近、将棋の坂田三吉翁(増名人・増王将)の伝記を読み返しました。坂田翁は将棋の駒に書かれた文字も<文字>としては識別はできなかったらしい(模様としては認識していたらしいけれど)。書ける(だから、描ける?)「文字」は「一」「二」「三」と「馬」の四文字だけだったとか。「馬」が入っているのは将棋の「角」が敵陣に入ったときに成る「馬」が好きだったからとか。流石、「明日は東京に出て行くからにゃー♫♬」の唄に歌われた坂田翁は逸話にこと欠きません。而して、他方、坂田翁の講話や座談はウィットに富み人気があったらしい。

要は、坂田翁は読み書きの教育は受けていなかったけれど、国語を運用する能力に関しては恐らく平均以上だったのではないか。つまり、「実際にやらせてみれば判定できる」類の国語能力に坂田翁は秀でていた。ならば、日教組・全教が漸次劣化せしめ、2002年に実施された学習指導要領によって完成したゆとり教育路線が止めを刺した日本の教育、就中、国語教育はどのようにすれば再構築できるのか。坂田翁の逸話にはそのヒントが隠されているのかもしれません。而して、国語教育はどこへ行く。クヲバデス、国語教育。


■国語教育とは何か
「言語を運用する能力」の中には(もちろん、オバマ大統領の演説のように天性の才能の多寡が左右する高見は別にして、平均的・一般的に)例えばプレゼンテーションスキルのように、実践的訓練と理論的な指導のいずれかを欠けばその開発が極めて困難な、ある特殊な能力・技能の領域があると思います。実際、大体のアメリカ人は(スペイン語しか話せないラテン系の市民や永住権者もアメリカ合衆国には少なからず存在しているにせよ)、英語を話せるにせよ、ビジネスやコミュニティーアクティビティーで活躍するために不可欠なプレゼンテーションスキルやパブリックスピーキングスキル、はたまた、文章作成スキルは、大学や大学院で改めて科目として履修し、それらの単位履修を通して身につけています。

英語のネーティブスピーカーとして英語が話せるからと言って、誰もが英語を運用できるわけでは必ずしもないのです。そして、この経緯は英語を母語としない日本人が外国語としての英語を学ぶ場合に意外と見過ごされているポイント。要するに、N国人(アメリカ人や日本人や支那人・・・)がN国語(英語や日本語や北京語・・・)を話せることとその自分にとっての母語であるN国語を上手に運用できることは別のことではないかということ。そして、これは逆に言えば、プレゼンテーションや文章作成が「訓練:理論と実践」によって能力開発され得たとしても、その言語を話す、あるいは、その言語で考える、一般的な言語能力を開発できるわけでは必ずしもないことの裏面でもあろう。そう私は思っています。

「成功する秘訣は成功することだ」とはビジネスの箴言ですが、ある言語を通して考えることのできる能力はその言語を通して考えることで、漢字の書き取りは漢字を書き取ることで開発するしかない。では、坂田翁はどうやって話す能力、否、国語で考える能力を開発したのか? それに私は興味があるのですが、それは、少なくとも国語教育によって開発されたのではないことだけは確実。坂田三吉恐るべし。囲碁・将棋侮り難し。

・衛星放送型通信教育☆サテライトの思想的可能性

 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11181538604.html


■国語教育の限界
考える能力/話す能力と国語教育で開発される言語運用能力の違いは何か。またそれらの関係をどのように理解すればよいのか? フッサールの「意識とは常に何ものかに対する意識である」という主張を前提にした場合、私は、意識そのものとしての言語を開発することと意識を構成する部品としての言語に関する知識との差異にこの問題は収斂すると思っています。意識とは常に何ものかに対する意識である。すなわち、意識とは言語である。語彙が言語のルール(統語ルール:文法&語法)に従って編み上げられたものが意識に他ならない、と。意識が言語でなければ「何ものか」を特定しようもないのですから。

尚、フッサールの意識の理解はフロイトの無意識理解と矛盾するものではないです。否、フッサールとフロイトの主張は相補的でさえある。フッサールは意識を支える所の、言語化できない何ものかの存在を否定してはおらず、ただ、意識を意識として自分が認知するためにはその自己の意識内容は言語の形態をとらねばならないということだけを主張したのであり、他方、フロイトは意識が無意識の海に浮かぶ氷山の一角であるとしても、漸次、無意識の領域にあるsomethingが言語化されるからこそ、対話やカウンセリングによって(意識の回路を通すことによって)精神分析学者や精神科医は患者・相談者の無意識に迫りうると考えた。そう私は理解しています。

ゆえに、言語の運用能力(技術としてのプレゼンテーションやライティングではない、一般的な「考えること」や「話すこと」としての言語を運用する能力)を開発することは言語としての意識を開発することに他ならず、それは今時の言葉で言えば「人間力」を磨くこと。すなわち、礼儀作法の徹底や教育勅語の体得、日本の歴史と伝統の継承といったものにむしろそれは親和性があるのだと思います。

而して、ならば、日本を歪め日本人を劣化させてきた旧教育基本法が改正されて2年半が経過したとはいえ、その改正教育基本法によっても、おそらく、人間力を開発する営みは国語教育の目的の射程外にあることでしょう。①人間力の育成は大変高度な教育でありそれを行うことが技術的に難しいというだけではなく、②そのような人間力の開発は「どのような人間」として成長するかという「理想=あらまほしかる自分や自分の子女の将来像」と極めて密接に関連しているからです。蓋し、どのような「理想」を追求するかは各家庭に任せられるべきであり、国家、ましていわんや、日教組・全教や朝日新聞・NHKが関与するべき事柄では断じてないと考えるからです。

ならば、公教育としての国語教育はメタ言語レベルの知識(国語に関する知識)、および、技術としての言語運用能力開発に限定されるべきである。而して、公教育では坂田三吉を養成することも森鴎外を育成することも、演説の名手・オバマ大統領や連邦議会演壇のマイスター・シュレーダー前ドイツ首相の育成などは目標にすべきではない。そう私は考えます。畢竟、繰り返しになりますが、人間力の育成は各家庭がその価値観と教育力、ならびに、その子供の才能と意志に従いなされるべき事柄だからです。

いずれにせよ、塾・予備校という民間の教育現場が、「分数ができない大学生」どころではなく、三桁の足し算ができない高校生やアルファベットを知らない浪人生を、すなわち、公教育からの<脱走兵>や<遺棄兵>を日々受け入れている現実を直接知っている者としては、他方、一学年の3割の生徒が中退し、かつ、(結果的には、室積光『都立水商』の如く)その元女子生徒の過半が所謂「水商売」や風俗産業に入っている都立高校が存在したことを直接知っている者としては、上で述べたような人間力開発を公教育の目標に据えたとしても、それを「機会均等なる公教育」の形態において全国津々浦々で実行することは到底不可能であると断言します。而して、臨時教育審議会以来の教育改革の流れの中で、「生きる力」の開発を掲げていた「ゆとり教育路線」とはこのような人間力の開発を目的とした無謀な教育施策だったのかもしれません。





■補論的資料-ある知人の感想
ここまでの記事を親しい知人の何人かに読んでもらったところ、ある知人から感想をいただきました。関西のある女子大でフランス思想を講じておられる知人。最後に、いただいたその感想を紹介することで本稿を補完させたいと思います。尚、本稿を巡る私の基本的な考えについては記事末尾にURLを記した拙稿をご一読いただければ嬉しいです。以上、引用開始。

さて、国語教育についてのご提言ですが、言語運用能力のうちでもっとも大切なものは「言葉を相手に届かせる能力」であろうかと私は思っております。自分の言いたいことをクリアカットな語法できっちり語りきる、ということを言語運用に際して重視する方がおおいですが、私はどれほどきっちり語っても、それが相手に届かなければ意味がない、と考えております。

言語運用についてローマン・ヤコブソンは「fonction phatique」という概念を提言しております。(もとは人類学の用語で、言い出しっぺはマリノフスキーです)「交話機能」という訳語が当てられておりますが、これは「あるメッセージを語っているときに、そのメッセージが相手に届いているかどうかを確認するためのメッセージ」のことです。

電話の会話での「もしもし」というのがそうです。
「もしもし」自体はメッセージとしては無内容のように聞こえますが、これは「私のメッセージはあなたに届いていますか?」という「コンタクトの確認」のメッセージです。恋人同士の会話などの場合は、ほとんど交話機能「だけ」で会話が構成されていることがあります。

「いい天気ですね」
「ほんと、いいお天気」
「あ、あの雲、何かに似てる」
「ほんとに、何かに似てるわ」
「いい天気ですね」
「ほんとにいいお天気」

これは小津安二郎の『お早よう』のラストシーンの佐田啓二と久我美子の駅頭での会話ですが、ふたりの間に余人の入り込む余地のないほどに深い愛と信頼が成り立っていることをこれほどみごとに言語化した映像を私は他に知りません。だって、相手のメッセージが自分に届いていることをもっとも確実に相手に知らせる方法は、「同じことばを繰り返すこと」ですから。(『未知との遭遇』のキーボードによる call&response もそうでしたね)これを適切に発話の中に織り込んで語れる人と、それができない人では、同じ時間に同じエネルギーを使って同じメッセージを語っていても、コストパフォーマンスがまったく違います。

語ることの本来の意味は有意な情報の受け渡しなのか、それとも「情報の受け渡しの回路を立ち上げること」それ自体なのか。これについてレヴィ=ストロースは『構造人類学』の中できっぱりと「コミュニケーションの目的はコミュニケーションすることである」という洞見を語っております。

国語教育でほんとうに必要なことは、コミュニケーションのための「作法」の習得だと僕は思います。そして、それはたぶん「ことばはそれ自体が贈り物である」という人類学的な根本をみんなが確認するところから始めるべきだろうと思うのです。

ではでは(以上、引用終了)


・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)



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