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魔女裁判としての放射線被曝危険論

2011年05月25日 09時49分39秒 | 雑記帳


福島第一原子力発電所の事故を巡って放射線被曝の危険性を指摘する声が巷に溢れているようです。中には、福島原発で水素爆発があった3月11日の直後、ご主人を東京に放置して自分の実家の九州に子供を連れて高飛びされた方もおられるとか。馬鹿げたことです。それ正に、中世ヨーロッパの<魔女裁判>の如き事態ではないでしょうか。

しかし、ヘーゲル曰く、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的」である。ならば、現下の日本で猖獗を極めている放射線被曝を巡る狂乱の背景にも、一概には馬鹿にできない、理性的かつ現実的、論理的かつ歴史的なsomethingが伏在しているの、鴨。

現下の日本の放射線被曝を巡る人々の言説や行動は<魔女裁判>に際して人々が示したそれらとパラレルではないか。と、そう私は考えます。要は、本来的に何の害もない、少なくとも、有限なる人間存在がその害無害を認識することはできないはずの<魔女>や<低量&中量の放射線被曝>を恐れてか、馬鹿げた出来事が社会的に再生産されているという点で両者はシャム双生児的類似性を帯びているということ。




ことほど左様に、年間の積算ベースで100ミリシーベルト(mSv)程度までの低量被曝、同じく100ミリシーベルト(mSv)から4000ミリシーベルト(mSv)程度までの言わば中量被曝に関しては、放射線被曝の危険性なるものは科学的になんら証明されたものではない。ましていわんや、疫学的や臨床的には低量&中量の放射線被曝の危険性を確証するデータなどは皆無と言っても間違いではありません。敷衍します。

低線量被曝の健康被害に関しては、被曝と健康障害との間に統計的に有意の相関関係は認められません。また、中線量の累年被曝に関しては、少量統計解析で有意の結論を導き出せる程の臨床データはない(偶さか事例を重回帰分析した結果でも、ウォッカの消費量や喫煙頻度、重金属摂取の度合や遺伝的因子と比べて強度の相関関係は見られない!)。

つまり、(もちろん、核兵器による短時間での被曝等は別論としても)余裕を見ても成人で年間積算ベース2500mSv以内の被曝に関して、放射線被爆の危険性などは砂上の楼閣、蜃気楼と言える。要は、国際放射線防護委員会(ICRP)が定める放射線被曝許容値等の国際的基準なるものは御伽噺の世界のこと。それは、推進派と反対派が共餐する国際原発利権集団の商売の種。ならば、現下、福島第一原発のお膝元でも最高で毎時20μSv(≒年間175mSv)程度の放射線被曝など気にすること自体が馬鹿らしいのです。まして、例えば、いずれも2011年5月23日に観測された、郡山市や福島市の毎時1.26μSvや1.41μSv、飯館村の2.98μSv(≒年間12.3 mSv~26 mSv)の放射線量などは、CoCo一番屋の5辛カレーに唐辛子を二粒加えるのよりも無害&無意味でしょう。


蓋し、<魔女>と同様、なんの科学的根拠もない現在の放射線被曝許容値など反故にして、日本は、少なくとも福島原発問題を解決するまでの数年間は、放射線被曝許容値なるものは年間積算ベースで2500mSv程度にすべきなのです。これで、福島の原発問題などは瞬時に<消滅>するでしょう。而して、この認識にはあるブログ友からこんなコメントを頂いた。

2500mSvは「マイクロシーベルト」の間違いではないですか? 
半数死亡率が3000から5000mSvのはずですので。
(もっとも、これは一時に浴びた場合)

ICRPのデータも、廣島・長崎の原爆くらいまでで、チェルノブイリのケースは反映されていないようなので、原爆と原発の放射線被爆障害の違いもまだ確立していないようですけれども。


このご指摘には端無くも国際的基準なるものとしての放射線被曝許容値が御伽噺の世界に属している経緯が露呈していると思います。畢竟、国際的基準なるものの(それは国際原発利権集団自体の作成にかかるものであり、)中立性が疑わしいだけではなく、繰り返しますが、例えば、「半数死亡率は3000mSvから5000mSv」という命題自体がなんら臨床的・疫学的に検証されたものではないからです。要は、ICRPの基準に従い放射線被曝の危険性を語るなどは『仮名手本忠臣蔵』を根拠に「元禄赤穂事件」の事件発生の因果関係を語るに等しいと思います。




科学的裏づけを欠落している、「放射能汚染-放射線被曝」への恐怖が福島原発事故の実体であると捉えるこの認識が満更間違いではないとするならば、

(イ)エネルギー安全保障のためのエネルギー源の分散化、(ロ)日本の経済規模拡大のペースに対応できる、かつ、技術的とコスト的な実現可能性の二つの軸を睨む場合、

(ハ)自民党政権によるこれまでの原発推進政策にはなんら間違いはなく、個別東京電力もおおむね常識的で良心的な原発建設と運営をしてきた。ならば、(ニ)民主党政権のシャビーな事故対応こそ今回の福島原発問題のαでありωである。


畢竟、福島原発事故は100%民主党政権の<人災>である。と、そう断言できると思います。而して、現実政治的には今すぐは難しいとしても、福島原発事故は禍転じて福となせる日本にとっての絶好の好機、鴨。なぜならば、原発推進派は、最早、神ならぬ身の有限なる人間存在が言えるはずもなかった、馬鹿げた<安全神話>など今後は維持する必要はなくなったのですから。蓋し、今、福島原発事故の衝撃を受けて欧州諸国が足踏みをしている間隙を縫って、日本はいよいよ原発を推進すべきなのです。

ならば、再々になりますが、放射線被曝許容値なるものを日本は可及的速やかに2500mSv程度に引き上げるべきではないでしょうか。もちろん、それは福島原発問題を押さえ込むまでの数年でもよく、その後は漸次250mSv、25mSv、2.5mSv等々と引き下げるのも、科学的には無意味にせよ現実政治的には有効でしょう。

畢竟、放射線被曝許容値の大幅な引き上げというモメンタムがあれば福島の復興も見えてくる。なにより、今後は原発を東京・横浜・京都・大阪等々のどこにでも作ることが可能になるのです。実際、東電の本社ビルや国会議事堂・経産省はその新原発の屋上か地下に作ればいい。そうすれば、そこで働く人々や訪問客は休憩時間に使用済核燃料プールをジャグジーに利用できる、鴨。また、使用済核燃料プールに屋形船を浮かべるのも粋、鴨。

尚、「放射線被曝許容値の大幅引き上げは、福島県民をモルモット扱いするものだ」とかいう、一見聞く人の心を打つ、けれども、(新カント派の「認識が対象を決定する」という箴言を持ち出すまでもなく、実は、どのような現象に関しても、例えば、東京の排気ガスの健康被害や、全国で転勤族の親子が抱えるストレスにせよ、それを観察する<外的視点>から見れば被観察者はモルモットにすぎないのですから)実は無内容な文学的表現はここに政治的にもその神通力を消失すると思います。




リーマンショックの際には、「これで資本主義も終わり」でもあるかの如く狂喜乱舞していたリベラル派が今回の福島原発事故でもまた「これで原発は終わり」と騒いでいる。けれど、リーマンショックの後、世界経済の連携が一層進み、要は、アメリカや日本の個別の景気動向は別にして、世界資本主義自体の相互依存関係の高度化が飛躍的に進みました。

而して、福島原発事故の後、幾つかの技術開発が行なわれた後、原発推進自体は日本でも世界でも一層進むでしょう。なぜなら、現下のグローバル化の昂進を想起するとき、世界のエネルギー需要が高まることはあってもその逆はなく、かつ、原子力以外にそのエネルギー需要拡大のペースに対応できる方途は見当たらないからです。

而して、私は、いよいよ、中世の<魔女裁判>と現在の<放射線被曝の危険性論>のidenticalnessを感じざるをえない。最早常識でしょうが、「中世の魔女裁判」なるものは、実は、「中世」のものではありません。また、それはカトリック教徒がプロテスタントを一方的に迫害したものではなく(プロテスタント側にどう贔屓目に見ても)双方が五分五分の加害者で被害者。要は、

◎魔女裁判
その端緒は13世紀後半に見られるものの、それが猖獗を極めたのは15世紀から17世紀という、中世末期から近世初期の出来事。畢竟、(概略、西暦450年から1450年に至る千年間の)中世と呼ばれる時代のヨーロッパは、人類史的には文明圏の辺境にありながら比較的平和で極めて安定した世界でした。而して、<魔女裁判>とは、当時、いよいよ勃興してきた資本主義の経済システムが生起せしめた、中世とは異質な生態学的社会構造(自然を媒介として人と人とが取り結ぶ社会的諸関係の総体)に対する嫌悪と恐怖の結果と見るべきなのです。自分が慣れ親しんだ生態学的社会構造の崩壊に起因するアノミーこそ<魔女裁判>の正体であろうと思います。



畢竟、現下の日本の社会で跳梁跋扈し猖獗を極めている<放射線被曝の危険性論>とは、戦後の日本を支配した核の<聖別化>が、最早、成り立たなくなりつつあること、このことを日本人が肌で感じてしまったことに起因するアノミー症状ではないでしょうか。要は、

(甲)福島原発事故を経ても、最早、人類は、就中、資源に乏しい日本は原発とあまり愉快ではない添い寝を続けるしかない。そんな<将来像的の自画像>を福島原発事故という<鏡>の中に日本人が見てしまった

(乙)権威あるものとされてきた、例えば、放射線被曝許容値なるものの根拠の薄っぺらさをもこの事故を通して日本人が薄々理解し始めた

(丙)原子力行政の枠組みの中で、放射能や放射線という<不浄>な領域は、東京電力なり原子力安全委員会、あるいは、ICRPなりの内外の、あたかも、中世のヨーロッパにおけるイスラーム商人やユダヤ商人の如き<非聖別化>された<集団>に丸投げしていれば、自分たちは利便と快適を享受できていた事態が根本的に揺らいでいる。このことを日本人が東日本大震災の揺れと同時に体感した   


敷衍すれば、これまでの平和で安定した、そして、自分自身はそれと一生無縁で生きられる、放射能や放射線と自分との関係が揺らいでいること。而して、放射能や放射線との関係をこれからは自己責任の原則に従い自分で態度決定するしかない、そんな不快で憂鬱な時代に自分が入り込んだこと。これらの認識が急性アノミーを引き起こし、日本人をして<魔女裁判>並の非合理さで放射線被曝の危険性なるものに恐怖を感じさせているのではないでしょうか。

けれども、その現存性から見るとき、当然ながら、<魔女>も魔女狩りを行なった側も普通の人間であり、共に、中世ヨーロッパの社会から資本主義の世界システムが離床する時代の息吹を呼吸していた同時代人に他なりません。ならば、エネルギー供給において原子力発電が当分の間不可欠であるとするならば、この<魔女裁判>も早晩終焉を迎える他ないだろう。と、そう私は考えています。





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1 コメント

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Unknown (Aki)
2014-07-19 01:15:36
ICRPのしきい値自体、科学的根拠なしだったのですが。健康に影響のあるかないかのグレーゾーンを含め、明らかに害のある値に踏み込み、さらにそこを越えて大丈夫と断言する根拠が全くないところを大丈夫としてしまうこともまた、シンプルに非論理的。

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