1年少し前に新宿で昔の同僚と飲んだときの話です。神田のある大学院留学予備校で私が教務部長兼主任のカウンセラーを務めていた頃の同僚。私より4~5歳年長も方ですが、日米で飲食店チェーンを経営管理する経験を10年程積んだ後に教育産業に飛び込んで来られ、英語教育の業界人としては後輩にあたります。彼は、現在、小中高生を主な対象とした<全人格的な能力開発プログラム>を提供しているコンテンツプロバイダーで取締役をされている。而して、大学院留学の現状、留学という教育メソッドの短所と長所、そして、今後の互いのビジネスプランについて3時間ほど歓談しました。楽しかった。冷えたビールや美味しい焼酎と同じく会話の内容がすーっと胃の腑に収まっりました。
大学院留学、特に、ビジネススクール(MBA)への留学は2002-2003年の頃からまたブームになりつつあるらしい(そして、2003-2004年から2004-2005年にかけてその傾向は確定した)。実際、MBA留学に必要な適性試験であるGMATの日本人受験者数は昨年2003-2004年度で8,000人を越えています。私やこの同僚が第一線で働いていたバブル期前後(1988年~1992年)のMBA留学の第1次ブームと呼ばれた頃はそれでもGMATの受験者は5,000人程度で、その後、失われた90年代を通じて3,000人にまで落ち込んでいたのですから「第2次ブーム」に偽りはないでしょう。MBA留学予備校もやっと長い冬が終わり再び春を迎えた感じなのでしょうか。
マスコミが「現在はMBA留学の第2次ブーム」と報じているのも満更間違いではない。しかし、その元同僚に聞くところでは、大学院留学予備校の経営はどこも苦しいらしい。比較的健闘している渋谷にあるP社も五反田のI社も水道橋にあるF社も第1次ブームの頃のような迫力はないという(あの頃は、例えば、社員10人程度の予備校が20億の売上を達成し、かつ、利益率60~70%は普通だったですからね)。長い冬が終わって春が来たはずなのにビジネス的には冬真っ盛り(泣笑)、てな感じなのでしょうか。
私は日頃から、儲からない会社は社会に貢献していないのであり、かつ、表面的に社員がどんなに忙しそうに振舞っていようとも本質的にそんな会社は暇なのだと考えています。ゆえに、MBAを中心とした大学院留学のブームが2006-2007年の学期以降も一層盛り上がろうともMBAを中心とした大学院留学予備校の社会的使命は最早終わったと考えるべきかもしれません。なぜか。
簡単な話です。大学院留学(国内社会人大学院を含む。)志望者が増えているのに予備校が儲からなくなっているということは、予備校で準備しなければ志望校群に合格しない/合格できないということが無くなってきているということです。この状況は二つの相を持つでしょう。米欧の著名大学院の合格者に占める日本人枠が減少し(第1次ブームの頃は、出身国別の留学生数では日本とサウジアラビアが第3位以下を大きく引き離して首位の座を競っていましたが、現在は、日本人の留学生数は中国やインドに抜かれ確実に第2グループに落ちています。)、上位校・著名校に合格することが普通のキャリアや能力しか持たない出願者にとっては至難の事態になっていること。これが第1の相です。
これ変じゃないですか? 普通、入試が難関になればなるだけ予備校は儲かりますよ。ではKABUは何が言いたいのか? 第1の相は換言すれば、予備校に通おうが通うまいが上位校・著名校に合格できなくなっているということです。どうですか? これなら入試が難関になっても予備校は儲からないでしょう。マクロ的に見て誰も合格しない(に等しいなら)予備校に通うような物好きな方はいなくなるに違いないからです。
米欧のMBAを中心とする大学院はその学生集団の中に高いレヴェルの多様性をリアライズしたいと考えています。そこで、自国民と留学生の比率、男女の比率、留学生の出身諸国の比率に敏感です。そして、日本人枠の相対的減少は、日本は最早米欧のMBA上位校・著名校からそう強い関心を引く存在ではなくなったということを意味しており、逆に、中国やインドがこれらの上位校・著名校から熱い視線を今受けているということだと思います。
大学院留学予備校で準備しなければ志望校群に合格できないわけではなくなってきた第2の相は、留学志望者の英語力のアップと合格するためのノウハウや情報が<市場>に拡散し常識化してしまったということだと私は考えています。そりゃー、そーですよ。第1次ブームの頃から通算したら(今年の5-6月に卒業した留学生を含め、)1988年~2005年に留学しMBAを取得した日本人はどんなに控えめに見ても8,000人はくだらないでしょう。ならばトップ5クラスの上位校・著名校にこだわらなければ、トップ10から30位クラスのMBAの合格(アドミッション)を勝ち取れる内容と水準を備えた出願書類の作成方法(エッセー、推薦文、ポートフォリオ等の作成方法)やインタビューへの対応方法などは、一部の予備校の企業秘密やその予備校の学院長の秘儀(♪)ではなくなってきただろうことは確実です。MBAを真剣に志望するような方の周りには、合格するためのノウハウを教えてくれる友人・知人が存在することが普通な状況になっているのです。ならば、数十万円から百万円を越える対価を払ってこのような<秘儀>を聞こうとする奇特な方が漸減するのも理の当然と言うものでしょう。
MBAを中心とする大学院留学志望者が増えるのに反比例して、米欧の大学院卒業者は日本社会の中でそう珍しい存在ではなくなってきている。ある意味、大学院留学経験者が保持する日本社会へのインパクトは過去との比較においては漸次減少してきていると思います。先日、新宿で飲んだ元同僚との間ではこの点も意見が一致しました。
KABU先生曰く、「留学後活躍している人は留学しなくとも活躍できたような人だよね」、「留学で人生一発逆転したように見えるケースも、キャリアチェンジが難しい(難かしった、)日本の労働力市場の特性に起因しているだけじゃないかな。つまり、キャリアをリセットする儀式として日本のビジネス社会では留学が有効だったに過ぎないってこと」、「留学先で獲得できる人脈を除けば、語学も含め留学してもビジネスを遂行する能力において人間そう大きく変わることはない。だから、留学をキャリアアップに結び付けられた人というのは<有能な人>ではなくて<賢い人>なんじゃない。例えば、留学でビジネススキームのヒントを掴めた人:留学後も能力開発を持続しなきゃ大変だと覚悟を決めれた人:逆に、専門的な仕事は、<俺が俺が>で自分で抱え込むんじゃなくて能力の高い他の人材に任せた方がいいという悟りを得たような人。そんな気がするんだな」、と。
この元同僚と同じく神田にあるある大学院留学予備校で机を並べていた同僚に、現在、主にMBA取得者を対象とした人材斡旋会社を経営しておられる方がいます。もうだいぶん前になりますが、その方が日経新聞(平成15年3月16日)に「実は、MBAは不足しているんですよ」とコメントを寄せられていました。新宿で旧交を温めた我々とこの方と同じ認識かどうかは解りませんが、彼のMBA供給不足論をKABU流に敷衍すれば、「日本の国際化の進行の中で英語でビジネスが遂行できる、あるいは、英語でビジネスが遂行できると考えて人事的に(仕事も・待遇も・責任の取り方も、つまり、良くも悪くも)処遇されても文句を言えない(?)ような人材しか労働力市場では流通が難くくなってきていることと、MBAホルダーの中でも本当に仕事のできる優秀な人材は恒常的に不足している」ということでしょうか。
ではなぜ<MBA>は不足しているのか? これも人口に膾炙していることですが、私は日本の再生は教育改革にかかっていると確信しています。しかも、MBA留学とかではない、小中高生と大学学部生レヴェルの教育の改革がクルーシャルだと思っています。実際、MBAやロースクール、更に、専攻を問わずサイエンスやエンジニアリングやヒューマニティーのPh.Dレヴェルでの留学指導に携わっていると、「留学より英語より日本語だろう。日本語よりも社会常識と礼儀を勉強して出直してらっしゃい」と言いたくなる留学志望者が少なくないと感じます。これは、現下の学部新卒の社員についてもそうです。このブログでも前に書いたことかもしれませんが、私は正直、現在、38歳から26歳(バブル期の中で高校を卒業した世代からバブル期に小学校に入学した世代)の日本人の少なからずは最早日本社会のお荷物(人材的な不良債権、)でしかないと思っています。
社会や会社や上司や先輩は自分が働きやすい環境(勉強しやすい/活動しやすい環境、)を提供するのが当然だ、とこれまた当然のように考えるお嬢様&お坊ちゃま意識の蔓延、而して、当事者意識の乏しさ、また、「努力することこそ人生の真善美である」という価値観の不在、そして、コミュニケーション能力の凄まじい拙劣さがこの無い方がよい世代の特徴だと私は分析しています。
彼等を現出させた日本の社会的と歴史的の要因は多岐に渡るでしょうが、しかし、私は、学校教育という目に見える教育プログラムの破綻や制度疲労に加えて、社会常識や礼儀や「自立した人間として世の一隅を照らす覚悟と価値観」を継承する日本社会の貴重なインフラでありメディアであった(言わば目に見えない教育プログラムであった)家庭と地域社会が破綻してきたことが間違いなくその原因の一つであろうと考えています。蓋し、教育改革は日本再生の鍵でしょう。そして、その教育改革は小中高レヴェルの教育改革と同時に家庭と地域社会の再構築を車の両輪としなければ現在の日本社会に蔓延している人的不良債権を再生し減らすこともできないのではないか。JR新宿中央東口近くの酒房で元同僚と旧交を温めながらこのようなことを考えました。
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出来る子を相手にするほうがよほど楽しいし、ラクですよね。馬鹿相手に商売しなければならないストレスどうにかしてほしい! といつも思ってしまいます。「この子の目線にあわせるやり方」をつかむのに時間がかかる!
自分のできることとできないことを区別すること、自分の限界を知ることのできる賢明さが必要なのでしょう。
そういう意味では「ゆとり教育」というか「個性化教育」も必要ですね。人それぞれであるという価値観と言っていいのかな?
しかしながらそれを育てるのは家庭や地域社会なのでしょう。学校はその地域社会の中に存在するもの、という位置づけになるのかな?
あと、リゾームって難しいですね。なんだか面白そうですけど。
ここは書き込みが沢山できていいですね。開かないと見えないし……
企業は人材をほしがっているのにいい人材がいない、一方学生は(不況だから)就職がないと思っている!甘いですよね! 安定した仕事なんてないのに!
あと、38歳から26歳という年齢の根拠がすごく気になってしまいます。なんとなく同じ感覚を抱いていたのですが、こうはっきり示されると気になります。文科省のカリキュラムとも関わるのかなあ。残念ながら私の手元に資料がなくてわからないのですが。ま、あまりきにしないでください。また説明にお時間をとらせると申し訳ないので。
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(だいたいわかりました。計算できました)
しかしバブルの頃はへんでしたね。
個性や自分で考える力(特に、新卒の場合には、問題を問題として発見・認識できる力)は大切ですよね。しかし、ゆとり教育や個性化教育なるもので、個性や自分で考える力が身に付くとは思いません。ものすごく簡単な例:東大に合格したいという子が、東大の過去問ばかりを教材にして合格するための力がつくとは思わない(はっきりいって、「私は東大の赤本だけで合格したよ」という剛の者は極めて少ないが確かに存在する。けれど、それは赤本以前に東大に合格してもおかしくない「学力」が授業や読書や親兄弟との議論を通じて身についていた子達ですよね)。
それにしても、「個性的であれ」と命じられて人間が個性的になると考えるという、一種のブラックユーモアがまだ朝日新聞とか日教組とか文部科学省とかではまかり通るこの国はなんなのでしょうかね? おそらく、彼等は<教育を放棄した教育利権関係者>なのではないか、そうとしか思えない。これが私のいまの気持ちです。やっぱ、日本の将来はまだだ暗いのかな