◆捕鯨反対論は優しい顔をした傲慢な文化帝国主義
動物愛護の立場から捕鯨反対「鯨もイルカも食べないで!!日本人の古い主張(=主権国家をある意味絶対視する主張)はもう肯定できません」というブログ記事を読みました。
主権国家の独立性が変容しつつあるのは事実。しかし、他国民の食文化に容喙しようとすることは文化帝国主義であり、それは、日本がその変更に身を挺して戦い、その敗戦と引き換えに幕を引いた西欧中心主義を蘇らせようとする主張ではないでしょうか。而して、食料資源である鯨の持続可能な利用を目的とするIWCの規約からも国際法一般の解釈指標からも、そうような「文化帝国主義」は容認されないことは明らかだと私は思います。
ことほど左様に、私も「鯨を食べて欲しくない」という日本人が稀にいることは知っていますし、それは個人の自由だと思います。けれども、他人に「食べるな」という権利は誰にもない。まして、他国から容喙される筋合いは国際法上も全くないのです。
また、欧米やカルト的な捕鯨反対論は(「われわれは鯨を食べること自体に反対はしていない」としながら、他方、どう合理的に考えても誰も捕鯨などできるはずもないハードルを掲げる笑っちゃうくらい姑息なグリンピースも含め、「鯨を食料資源として認識する」こと自体に反対しており)一切の捕鯨を禁止しようとする。それに対して、捕鯨推進派は、それこそ年間ミンククジラ1頭から76万頭(←見直し中とはいえIWCが公表しているミンククジラの現存総個体数)まで無限に段階差のある選択肢の中で合理的な対策を出そうとしているのです。
このことを見ただけでも、反対派が「文化帝国主義」であり「捕鯨反対原理主義」であることは明らかだと思います。而して、文化帝国主義を振りかざす原理主義との間での理性的討議などは(政治的にはともかく)論理的には無駄な作業だと言える。
また、ある捕鯨反対派は、日本は「世界の声を無視して捕獲している」と述べ、他方、グリンピースは捕鯨反対-日本批判の理由として「(鯨の聖域)南極水域で捕鯨しているのは日本だけです」ということを挙げている。馬鹿かです。それなら、歌舞伎があるのは日本だけだから、日本は歌舞伎をやめなあかんのか(笑)
畢竟、「世界の声」なるものがどうあれ、他国がどうあれ、ある国民が「何をその毎日の食卓に乗せるか」は他から指図される事柄ではない。而して、日本はきちんと国際捕鯨取締条約(ICRW)第8条に則って調査捕鯨も、IWC管轄外のイルカ・ツチクジラ等の沿岸捕鯨も行っているのです。
蓋し、動物愛護からの反捕鯨の主張は、その優しい言葉遣いとは裏腹に(捕鯨賛成派をも拘束するような)何の根拠もなく「他国民の文化」「他者の嗜好・習慣」を批判するものであり、それは、「文化帝国主義」に他ならない。これが私の指摘のαでありωです。
◆日本の「調査捕鯨」は偽装された商業捕鯨か?
例えば、ある意味、文化帝国主義-ヨーロッパ中心主義の総本山であるEUでは、EU委員会が11月20日付けのニュースリリースで、日本の調査捕鯨に関して懸念を表明しました。EUの旦那方曰く、
欧州委員会は、2008年4月中旬まで南太平洋で行う捕鯨活動を通じて、ミンククジラ、ナガスクジラ、ザトウクジラ合わせて最大1,000頭を捕獲するという日本の計画に深い懸念を抱いている。欧州委員会は、死に至るような手段を用いずとも、クジラに関する科学的情報は得られること、またクジラを殺さずとも、その管理に必要なデータは十分確保できることを強調したい。
日本の調査捕鯨は、クジラの保全・保護に向けた国際的な取り組みを害するものであり、国際捕鯨委員会(International Whaling Commission = IWC)は、これらを根拠として日本に致死的な調査捕鯨の停止を求める決議を何度も採択している。
ナガスクジラとザトウクジラがそれぞれ、国際自然保護連合(World Conservation Union = IUCN)のレッドリスト上で「絶滅危惧種(endangered)」および「危急種(vulnerable)」に分類されているだけに、日本の決断は特に憂慮すべきである。ゆえに、日本の捕鯨計画が南洋におけるこれらの種の長期的な生育能力を失わせるという重大なリスクをはらんでいる。
欧州委員会は、日本にこの捕鯨計画を再考し、中止するよう求める。欧州委員会は、いかなる名目で行われるものであっても、捕鯨活動については、国際社会が問題の包括的な解決を見出すことが緊急の課題であると考え、IWC加盟国には捕鯨モラトリアムの文言と精神の完全遵守を促したい。(以上、引用終了)
ほとんど、馬鹿か、ものの声明です。最大のポイントは「欧州委員会は、いかなる名目で行われるものであっても、捕鯨活動については、国際社会が問題の包括的な解決を見出すことが緊急の課題であると考え、IWC加盟国には捕鯨モラトリアムの文言と精神の完全遵守を促したい」でしょう。何度も書きましたが、IWCもモラトリアムも「商業捕鯨の再開」をその精神としても文言としても否定するものではなく、むしろ、持続可能な鯨資源の利用をはかるためのモラトリアムだからです。つまり、欧州委員会は、モラトリアムの精神を「反捕鯨」と理解しているとしか思えないのですが、それこそ、文化帝国主義的の心性であり、流石、ヨーロッパ中心主義の本場は言うことが単刀直入で分かりやすいと言うべきでしょう。
[出典] 尚、駐日欧州委員会代表部の「仮訳」(非公式文書扱い)も出されています。
http://europa.eu/rapid/pressReleasesAction.do?reference=IP/07/1736&format=HTML&aged=0&language=EN&guiLanguage=en
http://jpn.cec.eu.int/home/news_jp_newsobj2534.php
畢竟、「私は鯨をたべない/私は他人に鯨を食べて欲しくない」と言うのと、「君は鯨を食べるな」と言うことに要する根拠は全く異なる。日本は、その「調査捕鯨」を「商業捕鯨再開」の前段階としてやっているのであって、これはIWCの規約からも国際法一般の理解からも正当なものなのです。本来、IWCは商業捕鯨を持続可能にするための国際機関なのですから。
ある捕鯨反対派の方は「一体何の権利あって日本は鯨を殺しまくるのか?」とブログに書いておられた。それに答えるのは簡単です。それは国際捕鯨取締条約(ICRW)第8条。それは、国際捕鯨委員会の設立規約です、と。
要は、日本においてさえIWCは「捕鯨禁止」と「海賊的と脱法的な捕鯨を監視」するための機関と勘違いしている方が少なくない。これが欧米のブログや記事になればほぼ100%と言ってよいくらいです。だから、「日本の調査捕鯨」は「科学的調査」の名の下に鯨肉を確保しようとする商業捕鯨に他ならないとかいうトンデモナイ謬論が世界でも日本でも語られている。日本は「ずるしてる」、と。「調査、といいつつ、なんかその、調査、という言葉と、実際やっていることが、なんとなくウソっぽく感じる」、と。
再度書きますが、「調査捕鯨」は商業捕鯨の再開のための調査として、IWCのモラトリアム規定に則って行なわれているもので、別に、鯨種の生物学的調査だけを目的にしたものではない。それは、商業捕鯨の再開に向け、個体数の統計的推測や鯨の食生活、個体群の数や規模、個体群を構成する鯨の年齢構成等を調査するためのものであり、「嘘っぽい」ということはない。実際それらを調査しているのですから。普通の商業捕鯨には不必要なほど多くの調査員と設備を抱えているわけですから。
そして、調査後の鯨の肉等を販売することは、IWC商業捕鯨禁止規則(モラトリアム条項)に盛り込まれている正当なもの。むしろ、調査捕鯨の名目で捕鯨の継続を認めなければ、捕鯨国が1986年時点でIWCから集団脱退することを恐れた反捕鯨国側も含めほぼ全会一致でこれは入れられた条項なのです。
要は、調査捕鯨で得られた鯨肉の販売などは「調査捕鯨」制度自体に組込まれている事柄であり、かつ、商業捕鯨再開を期する日本が少なりとはいえモラトリアム期間中も鯨肉を確保して、鯨を食べる文化を維持しようとするのは当然のことなのです。畢竟、捕鯨にともなう調査をきちんと行っている以上、調査捕鯨に「調査」以外の目的や効果が付随するからと言って誰からも批判される筋合いはないということです。
蓋し、「調査捕鯨」を「ずるい」とか「嘘っぽい」と論じる内外の論者の心性には、「鯨は食べるべきではなく、百歩譲って「調査捕鯨」を認めるとしても、「調査捕鯨」には「調査」以外の目的、ましてや、調査捕鯨で得た鯨肉を販売するとか食べるなどが含まれるべきではない」という思い込みが巣食っているのではないでしょうか。しかし、上述の如く、そのような「調査捕鯨」の限定的理解は国際捕鯨取締条約からも正当化されないものであり、かつ、おそらくそれは文化帝国主義的に根ざす心性であろうと私は思います。
而して、ことここに至ったについては、1986年のモラトリアム制定の際に、「1990年までに鯨の数の増減を見てどのような形で商業捕鯨を再開するかを決める」という取決めも同時になされたのですが、1990年どころかその後17年を経た今でも「商業捕鯨のあり方」についての議論はIWCではなされていないことが大きい。
この状況に対して日本は早期にIWCの脱退もしくは別組織の立ち上げを選択すべきだったのにそれをしなかった。反捕鯨国の国際法違反を世界にアピールしてこなかったことが大きいと思います。正に、この鯨を巡る構図は、所謂「従軍慰安婦」なるものや「南京」とその構図は怖いほど同じなのです。
◆捕鯨反対論の反対の論拠を検討する
捕鯨反対論者も「テロリスト」規定や「文化帝国主義」呼ばわりがかなり堪えていると見えて、ここ数年、特に日本では(笑)次のような主張を行っています。尚、「日本では」と特に書いたのは、同じ団体や個人が欧米のメディアでは、あいかわらず文化帝国主義丸出しの主張や「日本の調査捕鯨は偽装した商業捕鯨だ」という国際法的には荒唐無稽な主張を繰り返しているからです。
1)鯨は鯨種や個体群によってはいまだに絶滅が危惧されている
2)モラトリアム以降、日本では最早鯨食の文化はほとんどなくなっている
3)日本の鯨食文化などは全体としてみれば元々特殊で例外的なものにすぎない
4)鯨は海の食物連鎖の最上位にいるのだから、その個体数の変動は海の生態系に想像もできない影響を与える
5)鯨は海の食物連鎖の最上位にいるのだから、鯨には高濃度の汚染物質が蓄積されている
これらを以下、検討してみましょう。
1)と4)は論理的には正しいと思います。けれど、日本が統計学的にも確固たる数字を出して「鯨資源の回復」を主張しているのに対して、IWC科学委員会等の反捕鯨論者の出す主張は「危惧」にすぎません。そして、「増えている/減っている」というデータと「不明」というデータがある場合には、「増減」の主張が否定されるまでは、その「増減」は「不明」によって否定されることはない。而して、日本がその調査に基づき「鯨資源が回復している」と判断して商業捕鯨を再開することは合理的なのです。まして、日本は総個体数や個体群中の個体数が「増えている」とはいえない鯨の捕鯨までは要求していないのですから。
畢竟、グリンピースの如き、すべての商業捕鯨の再開の禁止、ならびに、すべての個体群が識別されその個体群の個体数がつまびらかになっていない鯨種-個体群の捕鯨はやめるべきだなどは、神ならぬ身の人間に完全を要求するものであり、彼等が動物愛護-環境の保護の観点から勝手に設定したハードルに商業捕鯨を目指す日本が拘束される筋合いは全くない。要は、グリンピースの要求はIWC(=現在でも建前上は、持続可能な商業捕鯨の維持確立のための国際機関)が具現する国際法とは無縁の環境保護論者の願望にすぎず、その願望は(商業捕鯨再開反対-「調査捕鯨」反対の理由は)、商業捕鯨再開と鯨を食料資源と看做す日本人には何の説得力もない戯言にすぎない。
いずれにせよ、もう世界的に知れ渡っていることですが、グリンピース、シーシェパード、アムネスティー等はテロリスト集団です。それはまた利権集団かつカルト集団でもある。前二者が日本の捕鯨船に攻撃をしている事実。また、アムネスティーが立川の自衛隊官舎ビラ配り事件の被告を「良心の囚人」と認定(?)した事実がそれの動かぬ証拠です。而して、前二者の捕鯨船への行動は「海賊行為」以外の何ものでもないのだから、日本側は正当防衛として彼等の妨害用ボートを撃沈すべきなのです。尚、そのような事態が生じたとしてもそれは日本の責任ではないことは事前に世界に向けて宣言しておくべきだと思います。閑話休題。
もし今後、IWCがグリンピースの掲げるような「商業捕鯨を実質的に不可能」にする要件を捕鯨再開の条件とするならば、それはIWCの設立趣意に反することであり、商業捕鯨の再開を期す日本はIWCにとどまる意味は全くなくなるだけのことなのです。ならば、グリンピース等の「鯨資源の増減は不明」という主張を振りかざす捕鯨反対論者は日本の捕鯨船団を批判・追跡妨害する暇があったら調査にこそお金と時間を投入すべきなのだと思います。
2)に関しては、もちろん、鯨をあまり食べたことのない日本人がモラトリアム以降増えていることは事実です。だからこそ、日本はモラトリアムの撤廃もしくはIWCからの脱退を急ぐべきであり、モラトリアムの効果として鯨を食べた経験があまりない日本人の増加を根拠に、モラトリアムの維持や調査捕鯨の廃止を訴えるなど、「鯨を食べるべきではない」という文化帝国主義が馬脚を現わしたとんでもない主張であろうと私は思います。
反捕鯨論の論者の中にはまた、「今は鯨を食った事のない日本人の方が多いのではないでしょか?」と述べる人もいる。これこそ、心理学でいる「記憶の改竄」(文化帝国主義からの記憶の改竄)でしょう。実際、2007年の現在、学校給食に限定しても、モラトリアムが発行した1986ー1987年までに小学生だった世代、要するに、1978-1979年生まれまでは鯨を食べた経験はある。つまり、少なく算定しても日本の人口の70%は「鯨食の経験者」なのですから。
傑作なのは3)です。これは、文化をある主権国家や民族に均一に分布するものと捉える、文化人類学がその全貌を現した1950-1960年以前の文化理解と断言できるから。
畢竟、どんな小さくとも鯨食の文化が日本に存在した/存在しているのは事実であり、また、現在、28歳以上のほとんどすべての日本人にとって「鯨の竜田揚げ」が給食を思い出す際のかなり重要度の高い記憶のアイテム、また、九州・四国・紀伊・東北太平洋側・北海道出身の現在、40歳以上の多くの日本人にとって「雑巾のように大きな鯨のステーキ」は一家団欒の思い出のツールであることも事実なのです。
この事実を看過して、「日本の鯨食文化などは全体としてみれば元々特殊で例外的なものにすぎない」と述べる論者は、ある文化圏がその実多様でまだら模様でしかないこと、つまり、特殊な行動パターンの集積でしかないことを理解していないだけでなく、個々の特殊な行動パターンもそれを含む文化(=日本文化)にとって不可避の要素であることも理解していない。蓋し、動物愛護という優しい仮面を被りながらも彼等の感性こそヨーロッパ中心主義の醜悪な傲慢である。そう言えるのではないでしょうか。
5)は事実認識の問題。確かに、多くのイルカや鯨の部位に厚生労働省が定める基準以上の有害物質が含まれているのならば、問題の鯨種を食べるべきではないと思います。だから、グリンピース等の環境テロリスト団体が鋭意その調査を行うことは褒められこそすれ、批判されるべき行動ではない。
けれども、グリンピース等が盛んに宣伝する水銀の含有量が許容値の数十倍のイルカや鯨の肉が見つかったという事実は、「再現性」に乏しく、極論すれば、汚染をいい募る側がサンプルもしくはデータを改竄したと考えるのが一番自然とまで疑われているものなのです。
実際、南氷洋や西太平洋での捕鯨から毎年1000頭規模で収集される数値からは(もちろん、小売店での抜き打ち検査の調査からも)許容値の10分の一以下の汚染物質しか確認されていない。これを見るに、鯨はむしろ、他の魚(←鯨は哺乳類やちゅーねん!)よりも安全。
畢竟、統計的にも意味不明なデータをセンセーショナルに報じるグリンピースは、水銀検査での工作が事実でも濡れ衣でも、最早、日本社会での信頼を失っているということでしょう。而して、日本側はグリンピースやシーシェパード、アムネスティー等のカルト的テロリスト集団に対しては、刑法・軽犯罪法・公安条例から税法等々あらゆる法規を厳格適用してその組織を壊滅すべきなのだと思います。
◆資料:
鯨と捕鯨に関する情報については下記URLをご参照ください。
・日本捕鯨協会
http://www.whaling.jp/
・鯨ポータルサイト
http://www.e-kujira.or.jp/link/kujira_link.html
・捕鯨ライブラリー
http://luna.pos.to/whale/jpn.html
・日本鯨類研究所
http://www.icrwhale.org/
・グリンピースの主張
http://www.greenpeace.or.jp/campaign/oceans/factsheet/index_html
また、私達の捕鯨に関する基本的な考え方については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。
・鯨と日本の再生
・海外報道紹介☆日本はなぜ捕鯨を継続しなければならないのか?
・菜食主義と反捕鯨論と戦後民主主義は優雅で傲慢な欺瞞である
・海外報道紹介☆捕鯨反対論は文化帝国主義である
・海外報道紹介☆文化帝国主義としての捕鯨反対論
(2007年12月11日:yahoo版にアップロード)