ブログ冒頭の⤴️画像:記事内容と関係なさそうな「食べ物やお料理さん系」が少なくないことの理由はなんだろう?
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◆イデオロギーとしての英会話
『イデオロギーとしての英会話』とかいう本が20年くらい前、結構売れていたと思います(★)。確か、京都は寺町今出川にあった書肆で求めその書店の近所の<ほんやら洞>という喫茶店(?)で、たまたま一緒になったサークルの後輩に(まだ読んでもいないくせに)薀蓄を垂れた覚えがあります。KABU先生曰く、
★註:イデオロギーとしての英会話
ダグラス・ラミス『イデオロギーとしての英会話』(晶文社・1976年10月)
KABU:
「イデオロギーとしての英会話」ちゅうのはな、英語勉強して世界中の情報にアクセスしたろうとか、世界中の人と話したろとかな、そんなえーことばかりやないちゅうことなんや。
英語は道具や思うて、皆、勉強しとるんやろけどな。もっともっと性能のえー道具にしよう思うて熱心に勉強して声色までアメリカ人と同じようになったらえーな、そう思うて英会話学校とかにもよーけ通うとるんやろけどな。そやけどな、こっちは英語を道具や思うとってもな、実はな、英語自体に組込まれとる<英語圏のものの考え方>や<アングロサクソンの価値観や世界観>がな知らず知らずのうちに勉強しとるもんに伝染してきてやな、結局、英語に組込まれとるイデオロギーに自分の考え方や思考パターンが支配されるようになるちゅう、まあそんなことなんや。そやからな、「敵性言語」やちゅうて国民に英語を勉強させへんかった戦時中の外国語政策もな、まんざら理由のないこっちゃないねん。
英語は怖いでー。英語は米帝国主義の尖兵やねんでー。英語はブルジョア側が送り込んだトロイの木馬や、気つけなあかん、油断しとったら寝首かかれへんともかぎらへんでー、ちゅうこっちゃな。
AHIRU:
なーるほど。先輩が英語苦手なんは、わざと英語勉強してはらへんからなんやね。
KABU:
まあ(・・・)、そうゆこっちゃ。英語なんかもともとヨーロッパの田舎者の言葉や。そんなんやったらこっちの脳味噌まで田舎くそうなるがな。田舎もんの英語とか軟弱もんのフランス語とか、漢の倭の那の金印が出土した九州出身者のワシが何が悲しゅうてやらないけんねん。やっぱ、学問や思想ちゅうたらドイツやろ。志のあるもんはドイツ語やらなあかんねん。
AHIRU:
明確やーわ。ごっー論理的やね。うちもその本買わなあかんかなー、思うとったんですは。でも、本の内容わかったさかいもう買わんでよーなった。そや、お礼にここのコーヒー奢りますね。
KABU:
本の内容は大体、まあ、今言った通りや(冷汗!)。コ、コーヒーご、ご馳走さん。やっぱ、AHIRUは見どころのある後輩や。
この見どころのある後輩は、現在、関西のある大学で哲学を教えておられる。そして、彼女の専攻がドイツ哲学なのは言うまでもありません。私の方はといえば、学生時代に英語をサボっていた罰が当ったのか、英語教育に携わるようになってしまい、現在は公私共に英語で苦労している毎日です。トホホ、です。
私が英語よりもドイツ語に力を入れたのは全く福岡県出身者らしい俗物的な理由(★)からです。それは、端的に言えば目立ちたいから、議論に勝ちたいから、です。簡単な話ですよ。英語はどれだけ勉強しても自分よりできる方は廻りにどれくらいでもいる。他方、ドイツ語は5~6年、少し真面目に勉強すれば、自分よりできる方は極々限られてくる、そういうこと。
もっとも、これはドイツ語が英語より日本人にとって習得が容易ということではありません。それは何よりコンペティターの数の違いでしょうし、また、たいがいのドイツ語学習者はドイツ語に取り掛かる前に中学・高校とまがりなりにも(ドイツ語と近しい)英語を勉強した経験があるから言えることだと思います。それにつけても、鶏口となるも牛后となるなかれ、です。
★註:福岡県民論
私は福岡県出身者が大嫌いです。栄光ある「九州男児」の形容句を名乗れるのは鹿児島と熊本出身者に限定されるべきだと思っています。福岡県民は、一言で言えば、権威主義の権化:体制側でも反体制側でもいいから目立つ方やメジャーな方につきたがる。私自身その典型でしてそんな自分が嫌いで嫌いでたまらない(笑)。親が会津とか盛岡で産んでくれればどんだけよかったかと思う。もう亡くなられましたが同郷の廣松渉さん:マルクスの研究で日本では有名な哲学者の廣松さんなんかも(本人は「自分は長州人でもある」と飲み会とかではおっしゃってましたが←実は、産院が山口県だっただけ!)、この福岡県民の「メジャーな方につく権威主義」の性癖が爆裂したキャラクターだったと思います。尚、私がソフトバンクホークスの熱烈なフアンであり、大牟田市の大蛇山祭りと博多ドンタクに毎年熱い思いを馳せていることは言うまでもありません。
◆イデオロギーとしての英語
話は変わりますが、(少なくとも私が齧った社会科学や哲学の領域では)議論に勝つためには英語以外のヨーロッパ語ができることが有効です。英語だけしか知らないのと英語と他のヨーロッパ語を一つでもできるのとでは、一つの情報を理解し分析し、そこからテーマと問題点を抽出することに関して決定的な差が生じると思います。この差は、議論に勝つ上で効果覿面。
例えば、分析哲学を英語文献だけで学ぶのと、ドイツ語文献、例えば、カール・ポパーにせよウィトゲンシュタインにせよカルナップにせよ(★)、若かりし頃の彼等のドイツ語の著作も読むのとでは、変な喩えですが「100メートル競争でゴール寄り20メートルくらいの地点からスタートする」くらい有利です。それに、分析哲学の歴史を楽しむ上でも(思想のストーリーを楽しむためにも)、TVの「水戸黄門」を印籠の出る直前の場面から見始めるのと、没落した正直者の庄屋さん一族(?)が悪代官に苦しめられている場面から見始めるくらいの差があります。閑話休題。
目立ちたい! 議論に勝ちたい! これが私のドイツ語学習の動機でした。
悪いかよ! フン! サモシイ、だ? そんなん他人に言われんかて解っとるがな、です。
★註:カール・ポパー、ウィトゲンシュタイン、カルナップ
現在の分析哲学に影響を与えたドイツ語圏出身の哲学者。ウィトゲンシュタインの影響下にシュリック、カルナップ等の所謂ウィーン学団が成立し、ナチスドイツの政権獲得後(1933年)、ウィーン学団のメンバーの多くは英米に亡命しました。カール・ポパーは、当初からウィーン学団≒論理実証主義とは一線を画していましたが、逆に言えば、ポパー哲学は片やウィトゲンシュタイン、片やマルクス主義に親しいフランクフルト学派(アドルノ、ハーバマス等)との対決と対話の中で構築されたと私は思っています。
ウィトゲンシュタイン(1889-1951) オーストリア→ケンブリッジ大学
カルナップ(1891-1970) ドイツ→シカゴ大学
ポパー(1902-1994) オーストリア→ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス
現在、私が<イデオロギーとしての英会話>や<イデオロギーとしての英語>と言う場合、20年前に考えていたことよりも、もう少し現実的なことを連想します。そりゃ-そうですよ。20年経てば人間変わります。
現在の私にとってのイデオロギーとしての英語とは、英語教育のマーケットサイズであり、他の言語に比べた場合の英語の情報伝達/交通のコストの低さであり、逆に言えば、同じコストを掛けた場合の情報伝達/交通のパフォーマンスの優位性であり、交換価値/使用価値の高い情報に占める英語の割合であり、英語を学ぶことの他の言語を学ぶことに比べた場合の平均生涯賃金の差であり、そして、英語ができる度合いと権力や権限を獲得できる確率との相関関係、等々になります。
あるいは、これらの現実具体的な英語と他の言語との差異に定礎された(企業と国家の競争力や個人の人生への)英語の影響力全体を私は<イデオロギーとしての英語>という言葉で連想します。このような具体的な英語の影響力への知識や認識が付随して始めて、20年前に<ほんやら洞>で講釈を垂れた、上の文学青年的な、英米社会の価値観や世界観が住む森としてのナイーブな<イデオロギーとしての英語>の側面も、大人が真面目に議論するに値する課題になると思います。
◆解体する英語
いずれにせよ、英語がこの20年間で一段と大きな影響力を持つに至ったことだけは間違いない。しかし、おごる平家は久しからず、です。バベルの塔もヤハウェの怒りに触れて崩壊したではないですか。ならば、いつまでも英語の天下が続くわけでもないのではないでしょうか。所詮、一つの言語には一つの価値観・世界観しか盛り込めない。なぜならば、価値観も世界観もそれが体系をなすからです。何を私は言いたいのか?
ここで仮に英語が地球上で話される唯一の自然言語(Natural Language)になったとしましよう、私はその時には、すでにその<英語>はかって英語と呼ばれていた言語に似ているが、かっての英語とは最早別の幾つかの言語に分裂しつつあるだろうと考えています。
日本語母語話者の私にとってあんまり愉快ではないこの未来の設定でも、かって英語と呼ばれていた言語に似ているが互いに異なる複数の言語に<英語>は分裂し始めているに違いない。なぜならば、異なる文化や価値観を持つ人々がこの惑星上に存在する以上、彼等はその価値や文化を盛り込むのに使い勝手のよい独自の言葉を形成していくだろうからです。
共通語なる<日本語>がこの数十年にわたって毎日TVやラジオや新聞を通して暴力的に押しつけられているのに、九州弁も関西弁もまだまだ元気ではないですか。あるいは、渋谷や秋葉原で女子高生やアキバ系の人々が話す言語は最早普通の日本語母語話者には理解不可能になっているではないですか。これらを考えれば、私は上の想定に全持ち点を賭けますね。まあ、賭けの勝敗は置いておくとしても、<イデオロギーを解体するものとしての英語>という契機がこの文脈からたち顕れるのではないでしょうか。私にはそう感じられます。
◆イデオロギーを解体するものとしての英語
英語を通して、英語が話されている社会や文化をよりよく知ることができるということ。あるいは、アメリカやイギリスから輸入されたアイデアの意味がよりよく理解できるということ、これが<イデオロギーを解体するものとしての英語>という言葉でもう一つ私が表現したいことです。
解体する英語のところで述べた英語を考える契機:英語が話されている社会が実は、階級や階層や教育水準によって、あるいは、エスニカルなバックグラウンドによって分裂している社会であること、少なくとも、分裂していく契機が組み込まれた社会であることを英語を通して知ることの意義を、こんどは逆に英語に焦点をあてて敷衍すれば、現実に話されている英語は多様な言語の総称であること、英語はそれを話す人々の文化の多様性によって日々、英語とは似ているが英語ではない別の言葉に変化しつつあること、これらのことを英語を通して知ることができると思います。
英語が現在の世界を支配しているイデオロギーの反映であると同時に、そのイデオロギーが常に解体しつつあることの反映でもある。欧米流の「民主主義」や「平和」や「自由」や「人権」や「国家」という言葉が、あたかも一つの意味しか持たないかのように戦後民主主義という思想(かなりその思想的根拠はあやしい思想)を信奉する論者によって取り扱われている現在の我が国の状況を鑑みれば、解体する英語を通してイデオロギーを解体するものとしての英語という側面を日本人と日本市民が知る意義は小さくはないと思います。
英語のイデオロギー性を知ると同時に英語と英語に憑依しているイデオロギーが変化していることを知ることは、<単一の英語>や<英語に組込まれている価値観や世界観が支配する一様な社会>という幻想の解体に通じるでしょう。もちろん、英語圏の社会を支配する価値観や世界観を、それらの価値観や世界観というイデオロギーの色のついた分析道具(=英語)で、解明することの限界は自明です。この事情は、英語に限ったことではなく、北京語によって中国や台湾を、日本語によって日本社会を分析しようとする際に必ずつきまとってくるジレンマでしょう。誰もこのジレンマからは自由ではない。
ある社会に特有なイデオロギーを反映しているであろうその社会の言語でもってその当該の社会にビルトインされたイデオロギー性を批判すること(あー面倒くさい!)がそもそも可能なのか。分析道具としての言語のこの限界性は本質的なものかもしれない。つまり、このジレンマは、人間の意識を構成する言語そのもので人間の意識を分析せざるを得ない認識論の構図立てに起因しているのかもしれません。では、どないすんねんや? どげんすっと?
フッサール先生曰く、「意識とはすべて、何ものかに対する意識である」=対象世界は言語によって構成されている。ウィトゲンシュタイン先生、言いて曰く、「世界は言語であり、人間は言語と世界の一致を語れるとしても、世界を探求した結果が真理であると語る権利を神様から与えられてはいない。ゆえに、人間は、What we cannot speak about we must pass over in silence. それについて語ることができない物事については沈黙しなければならない」、と。
私は、「イデオロギーとしての英語」「イデオロギーを解体するものとしての英語」については、まだ多くの語りうることが残されていると思っています。機会があればその幾つかは紹介いたしますが、とりあえず、語りうる根拠は<言語=英語>自体ではなく<英語を使って行われる行為の社会的な意味>に着目することから得られるのではないかな、そして英語とは別の言語と日本語との<三角測量>によって<英語を使って行われる行為の社会的な意味>は間主観性を獲得しうるのではないかと漠然と考えています。これまた機会があれば敷衍いたします。
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ネットの状態が悪くてアクセスしにくく、ようやく来てみたら背景が変わっていてびっくり! さわやかな印象でいいですね。
九州男児には個人的にうんちくを述べたくなるのですが、あまりに個人的なのでやめておきます。アクセク数も多いそうなので。
構造主義やらのところはまだよく読みこなせません。もう少しお時間をいただきたいと思います。(難しくて面白そうです)
◆イデオロギーを解体するものとしての英語のところは興味深いです。ハリウッド映画の英語はわからなくても、世界共通語として英語は私でも道具として少しは使えそうでもあります。
またそれがグローバリゼーションの時代(アメリカ文化の世界化とほとんど同義とすると、です)においてエスニックな文化を喚起させるものへとつながる契機になるやもしれないですね。うーん、いいような、よくないような……
また、これを読んで『名前と人間』田中克彦(岩波新書)を思わず出していました。仕事上で勉強の必要があり、一応目を通した(ようです。マークしてありました)のですが、詳細は忘れました。
なんだかへんなところで終わってしまいますが、今日はここまでにします。