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鳩山首相と国母選手☆友愛ならぬ自愛と軍服から見る両者の幼児性

2010年02月15日 16時46分17秒 | 日々感じたこととか


この「三題話」ならぬ「二題話」的なオムニバス記事は、ブログ友のアリス姫の記事の<転載>というべきものです。ただ、Yahooブログの「転載」ではなくKABUの霊界通信機能で<転載>したもの。アリス姫の元記事は、「ルールとは何か」「ルールを人はなぜ守らなければならないのか」という法哲学の核心的イシューについて思索した素敵な記事です。是非、「転載元記事」(↓)のご一読をお薦めいたします。


・アリス姫の元記事:鳩山首相と国母選手
 http://blogs.yahoo.co.jp/kira_alicetear/23900378.html


アリス姫の記事のポイントは、

・「万歳の仕方が変」と自民党議員に鳩山首相が言われた
・「御免ね」とか「お恥ずかしい」とか「次から気をつけるね」答えていれば、寧ろ、麻生総理の漢字読み間違いを指摘したくだらない質問同様、件の質問をした自民党議員の方が顰蹙を買う程度の問題だった

ところが、

・鳩山首相は、わざわざ「公式な所作に関する決まりがない」と言い訳じみたことを(答弁予定)言おうとするから問題が大きくなった。

他方、服装や鼻ピアス、そして、謝罪会見での口調や態度が顰蹙を買って、日本スキー連盟レベルでは、バンクーバーオリンピック現地からの「強制送還」が決まるまでに至った国母選手に関しても、

・服装や態度という「書かれていないルール」を逸脱した

つまり、

・鳩山首相と国母選手は、「公式な所作に関する決まりがない=公式ルールが明記されていない」ということを理由に、世の顰蹙を買う行為も許されると考えているのではないか
・それは「ルール=社会規範」というものの無知・無理解であろう


という指摘です。蓋し、私もそう思います。
   
畢竟、慣習法や判例法が法源として認められている英米法や古代・中世の法制度でなくとも、つまり、制定法優位の大陸法、しかも、現在の大陸法においても、白黒はっきり言えば、法にせよ道徳にせよ大部分の「社会規範」は基本的に書かれていないのです。

また、「法規範」をなぜ我々が守らなければいけないか/実際に大部分守っているのかと言えば、それは、我々が法規範を「守られるべきルール」だと思っているからであり、そして、実際に、おおよそ実際にそのルールが守られているからです(尚、法哲学では前者の法規範の性質のことを「法の妥当性」あるいはそのルールに関して「国民の法的確信が存在している」と言い、そして、後者の法規範が備えているべき性質のことを「法の実効性」と言います)。

ことほど左様に、慣習・判例・法典というルールの存在形態においても、妥当性と実効性というルールの効力に関しても、法規範でさえ(まして、社会規範のほとんどを占める道徳規範においておや)その大部分は「書かれておらず」「公式な所作に関する決まりがなく」「公式ルールが明記されていない」のです。ならば、「書かれておらず」「公式な所作に関する決まりがなく」「公式ルールが明記されていない」ことを理由に、国民の間に法的確信が存在する、つまり、妥当性を持ち、多くの場合そのルールにこれまた多くの国民が従っている、つまり、実効性のある「社会規範=ルール」に従わないでもよいとする態度は、文明社会のものではない、否、大人の態度ではない。

蓋し、「書かれておらず」「公式な所作に関する決まりがなく」「公式ルールが明記されていない」けれども、それらのルールが社会秩序の維持と紛争の解決に機能することこそ「法規範-社会規範」の値打ちでさえある。この経緯が理解できない者がある国を指導している、あるいは、国を代表して国民からの声援を享受するなどは到底不可能であろう。と、そう言えると私は考えています。

以下、この記事を<霊界転載>している時に「混線」してきた、そして、私的には本編記事と関連すると感じた情報。本編記事やアリス姫の記事と論理的に直接の関係はありませんが、どうせこのエントリーはオムニバス記事なので、「スクラップブック」よろしく転記しておきます。










◎鳩山首相の幼児性の正体

「父上は、大王には向いておられなかった」
「父上は、ただこの国を愛しておられただけだったのに」

「お前の父親は、いつも正しいことをした」

しかし国を愛するだけでは、この世は廻らない。その証拠に、大王に担ぎ上げられた豊日は、心労に体を蝕まれて死んでいく。覚悟もないまま頂点に立った者の、無惨な最期だ。

神を祀り、民を統べ、豊かな大地を言祝ぐこと。実体のない国というもののすべてを、実体のない一身で見、聞き、嗅ぎ、触り、感じること。本来交わることのことのない天地の脈動と人臣の情欲を双手に繫ぎとめること。揺るがぬ御霊を手に入れること。その代償として、人としての個を永久に失うこと。

それが、大王になるということだ。

あの男には重すぎた。内の諍いにも、外の争いにも、耐えるだけの力がなかった。

--俺は、あんな男にはなりたくない。

国の行く末一つ定められず、小さな子と紛争の火種だけ残して無責任に逝く男。大王としても父親としても、何一つ務めを遂げられない、あんな中途半端な男にはなりたくない。

★註:豊日=用明天皇

【出典:藤ノ木陵『天駆ける皇子』講談社・2010年1月, pp.190-191】
    


蓋し、自己認識と他者からの評価の落差を認識できない者を「無能」と呼ぶ。
而して、無能な善人は最悪の指導者である。そう私は考えます。









◎国母選手の四面楚歌の原因

[制服の頂点・軍服]
制服界の横綱、制服界の首領。・・・・・と言えば、やはり軍服。
軍隊というものには、必ず制服が存在します。もしも軍隊が私服だったら、風紀は乱れるわ戦場で敵か味方かもわからなくなるわで、大混乱となることでしょう。

「必要不可欠な制服」であること。そこがまず、私達の心をグッと捉える。あってもなくてもいいような制服もこの世にたくさん存在する中で、軍服の必然性は制服ファンにとってたまらない魅力です。

多くの人は、軍服姿の軍人さんの姿を見ると、なぜか「格好いい」と思ってしまいます。私もその一人であり、リチャード・ギアの「愛と青春の旅立ち」、トム・クルーズの「トップ・ガン」等、軍服系映画(戦争映画ではないところがミソ。軍服系映画というのは、軍服を着た格好いい男子を鑑賞するために存在する映画)を見に行っては、「かっこえーのー」と思っていたものです。

ではなぜ、軍服は格好いいのか。となった時、やはり最も大きな理由として挙げられるのが、「拘束度の高さ」でしょう。これは、制服の形態として拘束度が高い、という意味ではありません。もちろん、軍服としてルーズパンツを採用している軍隊などないわけで、軍服の形自体も、それなりに拘束的ではあります。

が、問題となってくるのは、その制服を着た時にもたらされる精神の拘束度、です。制服を着た人というのは、基本的には本人の自由意志で行動することはできません。軍規にのっとり、国家の意志のもと、戦闘なり訓練なりをしなくてはならない。

制服を着用した人というのは、程度の差こそあれ、皆そういうものです。学校の制服を着たら、その学校の校則に従わなければならないし、会社の制服を着たら、社則に従わなければならない。制服母体(制服を制定した組織)が定めた規則にのっとった行動が、制服着用者には強制されます。そして数ある制服の中でも、最も拘束度合が高いのが、軍服なのです。

やりたい放題やり、しゃべりたい放題しゃべるよりも、意志をグッと抑えるところに美徳を感じる日本人。軍人さんに対しても、軍服に象徴される規律によって自由を押さえ付けられている部分に、私達はクラッシックな格好良さを感じてしまうのです。

【出典:酒井順子『ど制服』朝日新聞・1999年5月, pp.137-140】
   


反日教育評論家の尾木直樹氏の国母選手問題に関するコメントが産経新聞(2010年2月14日)に掲載されていました。尾木氏曰く「服装の乱れを空港で目撃された初期の段階で、周囲の誰かが注意すればよいだけで、選手団の入村式への出席を自粛させたり、開会式の参加を取りやめさせる対応は全体主義的で、明らかに大げさ」である、と。

蓋し、年齢に関係なく国を代表してオリンピックという戦場に出かけている者は、一人前の<大人>であり「周囲の誰かが注意すればよい」等の<お子様>に対する対応の如き、周りに責任転嫁する主張は不適切であるだけでなく国母選手を見下した意見ではないでしょうか。また、ルールに従うこと、就中、書かれる必要もないほど当然のものとして妥当性も実効性も備えたルールに従うこと、そして、そのルールに従えなかった者になんらかの<サンクション=制裁>が課せられることは、「全体主義」とは無関係で、それはどの社会でも当然のことでしょう。

ならば、その二度の謝罪会見での対応を通して、「問題発覚-世論の激怒」の後も、国母選手が鳩山氏と同様、「書かれていないルール」も<ルール>でありそれに従うことが文明国の大人の態度であることを理解していないことが露呈したと言わざるを得ない以上。国母選手は即刻本国に強制送還させるべきだった。その点、強制送還を決めた日本スキー連盟の判断は正しく、橋本聖子団長の温情は日本スポーツ界の未熟さを世界に印象づけた国辱ものの判断だったのではなかったか。と、そう私は考えています。



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1 コメント

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規範と好み (春日の老人)
2010-03-03 13:58:21
慣習法、法規範、判例法など、いろんな言葉を使って「それ」に従わない者達を断罪されていますが、そういう論理は、“法治主義”と本質的に相容れないのではないでしょうか。
ハナやミミにピアスすることやバンザイの作法は、わたしは“好み”の問題で(つまりは見た目が悪い問題)、“社会一般の通念”で断罪することはできないと思います。
住みやすい社会というのはそういった数%の“好み”をそれとして許容する社会であると私は信じているのですが、いけませんでしょうかね。
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