
天皇を政治利用して恥じることのない民主党。就中、小澤一郎幹事長の「天皇は内閣の命令に従っていればいいのだ」とばかりの不遜な言動を踏まえて、民主党政権下における天皇制のあり方、すなわち、グローバル化する時代の天皇の意味について考えてみたいと思いました。思索の補助線は、神戸女学院大学の内田樹さんが8年半前にご自身のブログに書かれたテクスト。小泉純一郎元首相の内閣総理大臣として最初の靖国神社<前倒し参拝>を題材にして天皇制の機能と意義についてコメントされたもの(尚、天皇の政治性は憲法論的にどう理解されるべきかについては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです)。
・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/b699366d45939d40fa0ff24617efecc4
・天皇制と国民主権は矛盾するか(上)~(下)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11136660418.html
・国家神道は政教分離原則に言う<宗教>ではない
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11637953341.html
・首相の靖国神社参拝を巡る憲法解釈論と憲法基礎論(1)~(5)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144005619.html
今年、2009年の<8・30>総選挙における自民党の地滑り的敗北以来、否、昨年の<9・15>リーマンブラザーズの破綻に端を発する世界金融危機以来、小泉構造改革は、最早、この国では過去のものになった感がある。それどころか、現下、資本主義、よって、資本主義の拡大深化としてのグローバル化自体も過去の遺物と捉える風潮が我が国の論壇ではまま見られなくもない。その点では8年半前の記事を補助線に使うこと自体、下世話に言えば「出し忘れの証文」や「気の抜けたビール」とさえ受け取られる向きもあるかもしれません。
けれど、欧米では資本主義の終焉などの議論は極めて例外的なものにすぎず、歴史的に見れば<9・15>世界金融危機は資本主義の拡大深化の一里塚にすぎず、(あたかも、1929年の世界恐慌を契機に、例えば、ケインズ政策が本格的に導入され、また、労働関連と独占禁止関連の諸法規が整備され、結局、第二次世界大戦後は以前にもまして資本主義がその力強い歩みを開始し、終に1989年-1991年に至り社会主義をこの地球上から放逐したように)世界金融危機を契機に、経済活動における公正と効率の均衡点が新しい地点に据え直された上で、資本主義とグローバル化はその拡大深化の速度を今までにもまして加速することは必然であろうと思います。蓋し、それは資源と所得の配分において資本主義が完全だからではなく、資本主義に優る他の制度が見当たらないからですけれども。
このような経済人類史的な認識に立つとき、グローバル化に対する「主権国家-民族国家」の、おそらく、唯一の対抗措置としての構造改革は過去のものどころか未来のものである。私は、小泉構造改革はまずまずの成功であったと現在でも評価していますが、もし、小泉構造改革が失敗したとすれば、それは改革の過剰ではなく改革の不足が本質的な原因であり、また、構造改革と地方再生の同時実現に対する配慮が足りなかったことが政策面での原因であったと私は考えています。ならば、小泉政権よりも先に、元来、政治と経済と社会制度の三面における構造改革を志向してきた民主党が今年政権与党の地位についたことも必ずしも歴史の偶然ではないの、鴨。
■グローバル化する時代の天皇制の意義
グローバル化の昂進著しい現在、天皇制はいかなる機能を果たすべきなのか。蓋し、私はそのようなグローバル化する時代において天皇制は二重の意味で捩れていくのではないかと考えています。
すなわち、①グローバル化の昂進と構造改革の推進の中で、諸個人が分断され格差が拡大するにともない、この国の社会統合軸としての天皇の機能は今よりも遥かに重要性を増す側面と、他方、グローバル化と構造改革とは思想的に疎遠なものとしての天皇制の社会における違和感が増大する側面の捩れであり、
また、②55年体制的な、すなわち、「政財官+労組」という<戦後の権門体制>に憑依した過去のしがらみを断ち斬るために、経済社会活動において公正と効率の新しい均衡点を具現するためには、自民党政治に比べ一層強力な政治の指導力が求められる時代としてグローバル化する時代を捉えるならば、天皇の権威もまたその強力な政治権力の指揮下におかれるべき側面と、他方、政治権力がそのような強い指導力を発揮できるためには、その権力行使を正当化する天皇の権威もまた現在よりも強大にならざるを得ず、畢竟、そのためには時の政治権力を超越する存在としての天皇制のあり方が一方では模索されるであろうこととの間の捩れです。
◎グローバル化にともなう天皇制の機能と意義の二重の捩れ
①A:多民族化と格差拡大に対抗する社会統合軸としての天皇制の重要性増大
①B:多民族化と粒状化にともなう天皇制の<神通力>の低下
②A:政治権力の強大化にともなう天皇制の政治権力への従属化
②B:政治権力を正当化するものとしての天皇制の重要性の増大
敷衍します。グローバル化の中では天皇制を自己の内在的価値と意識する人口比は必然的に低下するのでしょうから、天皇制が帯びている社会統合の基軸としての機能は漸次弱まっていく。他方、構造改革がもたらす社会の粒状化(格差拡大と諸個人の分断)、及び、「日本市民たる外国人」や「非日本的な日本人」の増大によって不可避的に不安定化が進むであろうこの国の社会統合のためには、逆に、天皇制の重要性は現在よりも一層高まるとも言える。
後者の捩れは「顧客を装った<桜>と分かっている店員の言動に促されて商品を買おうと思う顧客は少ないだろう」こととパラレル。政治に一層の指導力が求められる状況下では時の政権は天皇制を自らの政策正当化のために存分に使用することを希求するだろうけれど、天皇制が時の政権の政策正当化の機能を存分に果たすためには、天皇は、<桜>、すなわち、政権与党のマリオネットであってはならないということです。
では、グローバル化の拡大深化の中での天皇制を巡る二重の捩れはどう解決されるべきか。内田さんはこのことを平明明晰に指摘しておられる。8年半の時空を越えて、否、8年半の時空を隔てているがゆえに、逆に、内田さんのテクストは問題の本質を照射している。「小泉改革失敗」論や資本主義の終焉論という現下の表層的な議論の先に(支那のGDP成長やアメリカの衰退を想起すれば誰しも思い半ばに過ぎることでしょうが、8年半前に比べても)一層のグローバル化の昂進が確実な現在、ならば、より本格的な構造改革の断行が求められている現在、このテクストは本質的に現在のこの社会が抱えている危機の所在と、その危機を乗り越えるためのアセットとしての天皇制の意義を提示しているのかもしれない。そう思い、少し長いですが以下引用します。
小泉首相の刻下の政治的課題は次のようなものである。「構造改革による経済的体力の回復・国際社会での政治的威信の回復」。構造改革とは「市場原理・自然淘汰」の導入である。マーケットが必要を認めない人間や組織は淘汰される。「全国民の市場価値に基づく差別化」である。「一億総中流」時代が終わり、「価値のある人間」と「ない人間」がきれいなグラデーションで並び、新たな階級分化が始まることになる。
構造改革は、あらわに「国民の差異化」「国民の分裂」を志向している。その一方では、対米関係、対アジア関係をはじめ日本が国際社会の中でどのようにクレバーなパフォーマンスをするか、ということが切迫した課題となっている。
外交において適切かつ大胆にふるまうためには、政権担当者に対する国民の信認が必要である。すなわち国民の一体感と国論の統一が必要である。しかるに、構造改革による国民の差別化・分断化は避けがたい。ここに深刻な矛盾がある。
ほんらい政治過程には二つのファクターがある。「合意形成・利害調整」と「理念統合」である。戦後日本では一貫して「合意形成・利害調整システム」だけが「リアルポリティーク」と呼ばれてきた。その「竹下型政治手法」に限界が来て、今日の危機的状況がある。ということは、これまでないがしろにされてきた第二のファクター「国家的理念による国民の統合」が前景化することになる。
さて、日本の政治プロセスにおいては、「合意形成・利害調整システム」と「理念統合システム」は伝統的に別の政治単位が分担してきた。ご存じのように、それは「アマテラス」と「スサノオ」から、「卑弥呼」と「弟君」を経て、「藤原氏」と「朝廷」、「歴代幕府」と「朝廷」、「代議制民主主義」と「天皇制」というかたちで、連綿と受け継がれている。
合意形成と利害調整のシステムが破綻し、理念先導型で危機を乗り切る、ということになると、これは敗戦以来56年ぶりに「アマテラス」的政治単位の出番である。小泉首相は直観的に、戦後半世紀にして「天皇制」を効果的に政治利用する機会が来たことを察知したのである。
天皇のために殉じた軍人を祀る靖国神社に参拝するというパフォーマンスのねらいは政治的には一つしかない。 それは天皇への忠誠と崇敬を示すということである。小泉純一郎自身がどのような天皇観をもっているかは知らないけれど、「存外策士」であるこの政治家が、「天皇カード」の使いどきということを考えていることはまちがいない。「天皇カード」は130年前の明治維新では効果的に使われたが、その次は大失敗した。小泉首相はおそらく明治維新のときの「天皇カード」の使い方を念頭にして、「現実には分断され差別化されている人々が、それにもかかわらず公共的利害を共有しているという幻想を抱く」ようにするにはどうしたらよいのか、ということを考えているはずである。
私はこのような政治的発想そのものは間違っているとは思わない。「天皇カード」が政治的に有意なファクターであるかぎり、誰かがどこかで使う気になるのは止めることはできないと思う。 ただこれは非常に危険なカードであり、使い方を間違えると大変なことになる。
いまの政権担当者たちが考えているのは、
(1)日本はあらゆる水準で(政治的・経済的・文化的・人種的)国民の分断化に
向かっており、それは構造改革でさらに加速される
(2)国家として国際社会で生き延びるためには、国民的統一が喫緊である
(3)国民的統合という幻想を効果的に担いうる政治的機能を日本は経験的に一つ
持っている。ということである。
しかし、そのもう少し「先」までできたら想像力を働かせて欲しいと思う。国民の分断化は若い世代の知性とモラル低下と、多民族化の進行のために予想以上にはやく進行している。
構造改革の進行はいずれ若い世代から大量の失業者を生み出すだろう。そのとき、アジアからの移民(それも高学歴の)が中間管理職や流通の末端を押さえ、日本の低学歴・低職能の若者が、その下で未熟練労働に従事するようになる。(だってバカなんだもん)つまり、社会の最上層に「日本人」、なかほどに「アジア移民」、最下層に「日本人」という「サンドイッチ型」の階級構成になることが予測されるのである。遠い先のことではない。
ここに当然「移民問題」というものが発生する。若いバカ日本人の未熟練労働者や失業者が新しい暴力的なナショナリズムの培地となり、天皇制イデオロギーの信奉者として登場してくる可能性は非常に高い。というか、ほとんど確実であると私は思っている。 だから、問題はいかにしてそのような事態を阻止するか、である。
狂信的ナショナリズムに基づくテロリズムこそは、私たちがどんな代価を払っても回避しなければならないものである。それこそがほんとうは構造改革より国際社会での威信回復よりも「急務」なのである。そのへんの先のことまで、ぜひ考慮にいれて小泉首相には「熟慮」して頂きたかったと思う。(以上、引用終了)
<続く>