◆序-教育基本法改正の目的
教育基本法改正もカウントダウンに入った今、教基法改正反対論者の主張を幾つか俎上に乗せ、同法改正の目的と反対派の理路を整理しておきたいと思います。反対派の主張とはすなわち次のようなもの。
「教育基本法は教育の憲法であり、教基法の改悪は教基法を他の教育関連諸法規の運用を取り仕切る地位から普通の行政法規の一つに貶めるものであり許されない」「教育基本法の「改正」は(次に来る憲法「改正」と相まって)、国の言うことに従順な国民を作ることを通して戦争ができる国につながる」。
「教育基本法が改悪されれば、子供達と教師が紡ぎだし編み上げてきた豊かな教育は消滅し競争と管理が支配する学校を顕現するだろう。そこでは、子供達も教師も今よりも遥かに消耗し、他方、学力の低下と格差も進行する。そうなれば、イジメや自殺、不登校や子供の犯罪等々、学校や子供を巡る事件が今よりも一層多くなるだろう」、と。
教基法改正を「改悪」と断じて憚らない反対論者の態度は(つまり、「改正」を支持する論者や国民は「無知蒙昧」であるか「厚顔無恥」な輩と断ずる態度は)、正に、ファシズムそのものであり国民の多数派からは顰蹙と嘲笑を浴びていることは言うまでもないでしょう。
しかし、「改正教基法は憲法違反」等々、同法改正後も彼等がそのトンデモ妄言を炸裂させ、我が国の教育改革への抵抗を継続することは残念ながら十分予想されます。ならば、旧教基法の改正を巡る彼等の主張の破綻を整理しておくこと、他方、我々が教基法の改正をなぜ求めたかを確認しておくことは今後の追撃戦を遂行する上で無意味ではないと考えました。而して、教基法改正の目的はなんだったか。私に言わせれば、それは唯一無二。蓋し、
教育基本法改正の目的は日教組の解体であった
無法地帯と化している現在の学校現場への上意下達の秩序のを導入。反日イデオロギーを信奉し政治運動の片手間に学校現場に屯する日教組・全教の教師、ならびに、教える能力も意志もない駄目教師をそこから退場せしめること。
もって、日本の文化と伝統と歴史に自己のアイデンティティーとプライドを重ねられる国民を育成し(あるいは、そのような国民が多数を占める社会に住んでいる定住外国人としてのアイデンティティーとプライドを外国人子女に与え)社会統合のパフォーマンスを向上させること。他方、日本の国際競争力を維持向上せしめる労働力商品を育成し、かつ、社会の秩序維持コストを逓減せしめうる学校現場を再構築すること。これらを目的とする教育行政の基盤となる<教育行政の法的な枠組=器>を打ち立てることだったと思います。
◆教育基本法の効力
旭川学テ判決を始め数多の判例が認めている如く、教基法は国会が制定した「法律」の一つであり、元来、他の「法律」に対する優位性はない。確かに、教育の理念を書き記したその条規は他の教育関連諸法の解釈に際して踏まえられるべきですが、逆に「特別法は一般法を破る」の原則からいえば、ある特殊な案件に関しては(その案件を処理すべく制定された)より具体的な「法律」が基本法に優先するのです。
ならば、「教基法の改正は憲法違反」とか「教基法は他の教育諸法規の憲法でありその改正には憲法の改正に準ずる慎重な手続きが必要」等々の一部の改正反対派の主張は法律論ではない。
更に、旧教基法第11条は他の法律の内容が「この法律=教育基本法」に反する場合にはその当該の他の法令の効果を失わせる効力などはない。実際、同じ形式的効力を持つ法規の間で内容が矛盾するケースは(「内容の衝突による法の欠缺」と言いますが)民法でも行政法でも幾らでもある。そして、そのような場合には上で述べた「特別法は一般法を破る」の原則に則り、「より具体的法=その他の法令」が優先適用されるのです。
これに対して、改正反対論者からは「もしそうなら基本法の存在意義はないではないか」という質問が出かねない。しかし、基本法の存在意義は確かにある;蓋し、多くの関連法規に共通の解釈ガイドラインを提供する機能が残る。例えば、民法の総則編も物権編や債権編と法的な効力に優劣はないけれどもその存在意義はあるではないですか:また、商法があるのだから「商事の紛争に関しては(私法の一般法たる)民法は不要」とは言えないでしょう。
◆国家の教育への関与は不当な支配か
憲法は国家権力を縛るルールですが(権力拘束規範)、逆に言えば、それは権力を正当化するためのルールでもあり(権力正当化根拠)、ならば、憲法に従った国家権力の運用と行使に国民を従わせる根拠でもある(国民命令規範)。
日本では「立憲主義」なるものを持ち出して最前者の権力拘束規範としての憲法という理解だけが人口に膾炙している節がありますが、国家権力も権力である限りそれは「公的な権威をもって国民の行為を規制」する想像の共同体です。そして、権力行使の範囲と手続きが「近代憲法の不可欠な部分である基本的人権規定」の内容である限り、憲法が権力正当化根拠であり(各人権の範囲と射程を画する)国民命令規範でもあることは法概念論-法学方法論からは自明なことなのです。
尚、ある権力行使が憲法に合致するか否かについて疑義があれば裁判所が最終的にその白黒を判断する。而して、合憲・違憲の白黒がつくまでは国会が制定した法律や行政が発行した政令・通達、地方自治体の条例等々の諸法規、あるいは、行政権の行使と運用が、一応、正当に定められた法規に従う限りは合憲と推定される(合憲性の推定)。これが三権分立と議会制民主主義を採用する社会の政治のあり方でしょう。
ならば、改正教基法が学校現場への拘束を強め、ある意味、国民の行動を拘束する国民命令規範的な色彩をより濃くするからといって、「国家の教育への関与は不当な支配」とは憲法論的には一概には言えない。多様な行政領域の中で「教育行政」だけを特別扱いする根拠は憲法論的にも現行憲法の解釈からも見出せないからです。
畢竟、今次の教基法改正のプロセスで明らかになったのは、議会制民主主義を通して国民の圧倒的多数は、日教組・全教による学校現場の支配よりも(法と秩序を確立しようとする)国家による支配の方を支持したということだった、私はそう総括しています。
◆教育基本法改正の目的と具体的教育行政の内容
教基法と具体的な教育手法には一対一の対応関係はない。教基法は、(イ)教育行政による社会統合の促進と国際競争力の維持向上を具現するための、(ロ)教育行政の運用の指揮系統と枠組みを規制するだけのものであり、よって、どのような「教え方」「子供の扱い方」「子供の本性」等々を現実の教育行政の運用に盛り込むかという(それに関する学説も分かれ対照実験も困難な)教育理論や教育路線の優劣などは教基法の射程外にある。
簡単に言えば、改正教基法でも教基法改正反対論者の多くがその実現を主張している「旧教基法の理念に沿った教育内容の推進」も不可能ではない。もっとも、その理念なるものと整合的な教育内容の推進が、教師と子供の性善説に立った無法地帯たる学校現場でなければ実現できないようなものだとすれば、彼等の求める教育施策と改正教基法は不倶戴天の関係にあるのでしょうけれども。
而して、具体的な教育観や教育手法まで、「条理」なるものを媒介にして、教基法に密輸しよう(旧教基法には盛り込まれていた)とする現在の教育法学の通説は、奥平康弘(元東京大学)・内野正幸(筑波大学)・西原博史(早稲田大学)等々のリベラル派も含め(共産党系を除く)ほとんどの憲法学者と判例が否定しています。
再度記しますが、結局、教基法改正の目的は、旧10条を援用して学校現場の指揮命令系統を無視して憚ることのなかった日教組・全教等の解釈根拠を消滅させることであった。逆に言えば、改正反対派の反対の目的もまた彼等の既得権益の防御ではなかったのでしょうか(傍証として、日教組が容認した民主党案は愛国心を盛り込んだけれども旧10条の改正だけは否定していたことが挙げられると思います)。
◆改正教育基本法の目的と具体的教育行政の内容
画像を添付したチラシ。ある教基法改正反対派のチラシには、「変えてはだめ!! どの子も大切にする教基法」「国の政策に合わせて子どもをつくりかえる教育はゴメンです」。あるいは、「どの子も天まで伸びるんだよ」と書かれていました(よく見えないと思いますが、これは「都高教」のチラシです。ビラのセンスとしては代々木風(共産党風)ですが「都高教」は一応、日教組系。ちなみに、東京では、都教組=全教系=共産党系:都高教と東京教組=日教組系=民主党系)。
チラシに教えられるまでもなく、「どの子も天まで伸びる」かどうかは知らないけれど「天まで伸びようとしてする努力は貴い」。また、教育において「どの子も大切」にすべきことは当然のことです(尚、「子供達」を、日教組・全教は「子どもたち」と書きます。「供」が従者の意味で、学校の主人公である「子供」には不適切だからだそうです。「勝手に日本語変えるな」ですよね)。
けれど、これが旧教基法では可能で改正教基法では不可能とは言えない。なにより、一人一人の子供達に「この国の伝統と歴史を受け継ぐ一員としてのプライドを持たせ、国防を担おうという気概を育み、国際競争力の維持向上と社会の安寧秩序の維持に貢献しようという気持ちを育むこと。而して、社会で独立自存、自立していける能力を身につけさせる」ことこそ「どの子も大切にする」ことではないでしょうか。もし、改正反対論者がこれは「どの子も大切にする」ことではないというのなら、その主張は国家権力どころか国家自体を敵視するようなかなり特殊な思想からの議論と私は思います。
教基法改正の目的を総括する場合、すなわち、(一般的に)法改正の是非を論じる場合には、その文言だけではなく、むしろ、改正される法規が果たしていた社会的機能をも考えなければならないでしょう。 例えば、
「教育においては子供達は一人一人大切にされなければならない」
という法律があったとして、その文言の面からはこの法律を批判する人は極めて少ないのではないでしょうか。しかし、この(架空の)法律を根拠にして半世紀以上にも渡って、
「国や地方自治体は学校の指導内容に容喙してはならない、また、校長は職員会議の議決に従うべきである。なぜならば、(1)学校の主人公は子供である。つまり、教育は子供達一人一人の健全な発達のためにあり、つまり、教育の内容を決める権限は本質的に子供達に発する。(2)もちろん、子供達に教育の具体的内容を定める知識も能力も現実的にはないのだから、子供達の最も身近にいる教育の専門家の大人たる教師が子供達の代理としてその本質的な権限を行使するべきなのだから」
などと述べる教師の労組が存在し、組織率が年々低下してきたとはいえ現在でもその労組が全国の教師の20%を組織しているとすれば(更に、これとほぼ同じ主張を行う共産党系の別の労組と合わせて全国の教師の30%を組織しているとすれば、その法解釈がいかに荒唐無稽でも)この法律は政治のリアリズムからは改正されるべきだ、そう多くの国民は考えるでしょう。そして、旧教育基本法とは正にこのような法律であった。そう私は考えるのです。
・[再掲]コラム:「左翼」て何なの-教職員組合を例にとって
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/40427fd974fca7cde4ddaf33a42ced46