◆クリスティー作品の魅力の源泉-予備的考究
では、クリスティー作品の魅力の源泉は何か? クリスティー財団の理事長でアガサ・クリスティーの娘ロザリンドの息子である1943年生まれのマシュー・プリチャード氏は、『スタイルズ荘の怪事件:The Mysterious Affair at Styles』(1920)と『牧師館の殺人:The Murder at the Vicarage』(1930)の日本語版に寄せた文章の中でこう述べておられる。
ちなみに、「ロザリンド」は、日本のアニメのキャラクターのことではなく、アガサ・クリスティー DBEが愛した母国、英国の至宝であり、彼女自身も少女時代その諸作品に魅了されたことを誇らしく書き記している、シェークスピアの『お気に召すまま:As You Like It』のヒロインの名前ですよ。為念。
『スタイルズ荘』はアガサ・クリスティーにとってもデビュー作です。・・・この作品のどこにアガサ・クリスティーを終生にわたって人気作家の地位にとどまらせることになった魅力があるのでしょうか? 第一に、おそらく彼女自身は意識していなかったでしょうが、わたしたちが生きている社会とはまったく異なる社会を描いたこと。『スタイルズ荘』の舞台は古いイギリスの田舎屋敷で、大家族、多種多様な友人、親戚、時として意外な一面を見せる人々が登場します。ほとんどの人が定職についていないようですが、なんらかの定収入があります。人々はテニスを楽しみ、使用人がおおぜいいて、庭師は遺言状の連署人にもなり・・・それでも、最終的には、すんなり納得できるところに落ち着くので、そこに描かれた社会が過去のものという気はしません。
(『スタイルズ荘の怪事件』ハヤカワ文庫版・2003年・矢沢聖子訳, p.6)
アガサ・クリスティーのミス・マープルものは--『牧師館の殺人』のような初期の作品はとくに--もはや存在しないイギリスの田園風景を描いています。もちろん1920年代から30年代においては当たり前の光景だったのですが。当時は、裕福でなくても普通に誰もが使用人を雇えていました。ガーデニングや編み物が生活の一部でした。どこの村にも教区の牧師や村医者がいて、世間は地元のゴシップに満ちていました。
私の幼少期である1950年代もそうでしたように、人々は地元であればどこへでも歩いていきました。私の祖母は両方とも、【ミス・マープルが住んでいる】セント・メアリ・ミードよりも小さな村に住んでいました。どちらの祖母も使用人を使っていたし、ゴシップ好きで、買い物に行くのに三マイルほど歩いていたと思います。いったいどれだけのイギリス人たちが、この官僚的で人口が爆発した時代に、『牧師館の殺人』で初登場したミス・マープルやヘイドック医師を羨んだことでしょう。
(『牧師館の殺人』ハヤカワ文庫版・2011年・羽田詩津子訳, pp.6-7)
ロザリンドの息子のこれらの言葉を反芻するとき、蓋し、クリスティー作品の魅力の源泉は、(少なくとも、作者とは時代も社会も言葉も異なる日本の<読者>にとっての魅力の源泉は、)その諸テクストに内在する、(甲)普遍性、(乙)異質性の、(甲)(乙)の両義性ではないのか。加之、些か結論を先取りして記せば、更に、(丙)本質性もまたその魅力の源泉として数えることができる、鴨。と、そう私には思われます。
すなわち、
(甲)普遍性:
クリスティー作品は、21世紀の現在の世界を覆う資本主義的な生態学的社会構造(自然を媒介とする人と人が取り結ぶ社会的な諸関係性の総体)、および、同じく21世紀の世界のデ・ファクトスタンダードと言うべき英米流の社会規範を、その作品世界の背景としており、著述されてから作品によっては一世紀の後にそれらを手にする異国の<読者>にも理解可能な普遍性を帯びていること。
(乙)異質性:
クリスティーの作品世界は、しかし、日本とは大きく異なる英国の社会と世間を舞台に据えていること。実際、例えば、コモンローとエクイティー(更には、教会法と商慣習法)が「裁判規範-行為規範」としてその社会を覆っている判例法の国、英国。人々が(米語とも違い、原則、語末の「r」が発声されない!)様々な地域方言と階級方言に彩られた英語で覆われている英国の社会。更には、社会主義にしても「マルクス-レーニン主義」の影響が濃厚なドイツ・フランス・イタリア・日本とは違い、一世紀を超える社会民主主義の蓄積が息づく、また、少なくない変容を受けてきたとはいえ、古き良き階級制度が厳然と息づいている国、英国。
畢竟、「人間が知らないことを知ること、意味不明だった<テクスト>を理解することに楽しさを覚える存在」であるとするならば、その作品世界に内在する異質性もまたクリスティー作品の魅力の源泉の一斑でないはずはない。
例えば、西欧文明において、一般的な作品理解それ自体を目的とした、体系的な解釈の技術たる解釈学が成立するのは、ホメロス作品が<完成>した時代から2世紀~4世紀を経た紀元前6世紀から4世紀頃のこととされています。必要は発明の母。蓋し、ホメロスの作品が<読者>にとって(古代ギリシアのその子孫達にとっても)疎遠かつ不透明な存在になってしまったことが<技術としての解釈学>を成立させた、と。
而して、この経緯は、おそらく、伝孔子編纂の『春秋』に対して、『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』の春秋三伝が成立した経緯ともパラレルでしょうか。あるいは、原始仏教の経典に「寓意的解釈:allegorical interpretation」が施されて、東アジア特有の「浄土系教典」が編み上げられた経緯とも一脈通じる、鴨。ならば、逆に、クリスティー作品は、(甲)特別な解釈の技術や解釈を巡る秘術を身につけなくとも、21世紀の日本の読者にも一応理解可能なことが、他方、(乙)異国情緒に満ちている点がその魅力の中核と言えるの、鴨。しかし、この魅力の説明もまた、20世紀の米英やカナダの作品すべてについて言えることでしょうけれども。
◆クリスティー作品に内在する二律背反:普遍性と異質性
蓋し、女子供の行動の、・・・。失礼ね! と、もとい、人間の行動の基本原理の一つは、「火遊びはしたいが火傷するのは嫌」という心性ではないでしょうか。
何を言いたいのか。蓋し、もし、この認識が満更間違いではないとすれば、これまた繰り返しになりますが、普遍性と異質性という一見相矛盾する二つの性質の双方をそのテクスト内部で統合し、かつ、融合しているクリスティー作品が、現在の日本でも、益々、多くの<読者>を獲得している現実は、寧ろ、当然のことだろうということです。ここで、以下、(甲)普遍性と(乙)異質性につき敷衍しておきます。
・普遍性の諸相
クリスティーの作品世界の背景は、<資本主義>の世界であり世間である。而して、その経緯は現在の日本でもかわりません。蓋し、「主義」の2文字がついているから紛らわしいのでしょうが、「資本主義」とは「制度」の側面と「その制度を容認する理路・心性・主張」の二面性があります。そして、(イ)制度がすべてそうであるように、それは規範と状態の重層的な構造であり、かつ、(ロ)言語や家族という自生的な制度がすべてそうであるように、交換を巡る制度たる資本主義の制度もまた時代によってその内容が変遷するもの。
而して、現在の資本主義の制度とは、例えば、(a)所有権の制限、(b)契約の自由の制限、(c)過失責任の制限、および、(d)所得の再配分の導入、(e)ケインズ的な財政と金融における国家権力の政策の導入、(f)種々の国際的な制約という<修正>または<変容>を経た後のもの。と、高校の政治経済の復習的なコメントになりましたが、要は、・・・。
要は、これらの与件を<現実>として踏まえるとき、サッチャーもレーガンも、フリードマンもハイエクもある意味立派な「社会主義者-なんらかの資本主義の修正を前提とした社会思想・経済政策の唱道者」であると言わざるを得ないということです。
すなわち、『火曜クラブ:The Tuesday Night Club』(1932), 『書斎の死体:The Body in the Library』(1942), 『スリーピング・マダー:Sleeping Murder』(1976, 1943)に登場する、熱烈な保守党員であるバントリー大佐も、他方、『予告殺人:A Murder is Announced』(1950)で最後に一番美味しい結果を享受する、作家の玉子のエドマンド青年のような労働党支持者も、結局はその両者の社会的や政治的の主張の違いは程度の差にすぎないということ。
蓋し、例えば、家屋の賃借人にほとんど無制限の厳格責任を認めていた19世紀末までの英国のコモンロー。あるいは、労組の活動どころか労組の存在自体を容認しただけの連邦法・州法を連邦憲法違反と断じた、加之、買い占めによる生活必需品の価格引き上げや、「談合」などではない、鉄道等の公共交通機関の料金の(その地域のサーヴィスを独占する)鉄道会社による裁量的決定を制限する州法をも連邦憲法違反と断じた19世紀末から20世紀初頭のアメリカ連邦最高裁の判決群を紐解くとき、私はそう断ぜざるを得ないのです。
ならば、蛇足になりますけれど、(マルクス主義という意味での社会主義が、1989年-1991年に見事に崩壊して以降、現下の「現役の社会思想」と看做し得る)保守主義とリベラリズムの双方にとって、グローバル化の昂進著しい眼前の現実の政治状況に拮抗し得る生産的で真面目な政策論争とは、「資本主義」、白黒はっきり言えば「資本主義=社会主義」という与件の中で、例えば、国家権力の権限を羊羹に喩えさせていただければ、その1本の羊羹のどの辺りに包丁を入れるか、そして、その根拠は如何という議論に収斂する。と、そう私は考えます。閑話休題。
<続く>