英語と書評 de 海馬之玄関

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政治主導の意味と限界

2010年09月07日 10時16分51秒 | 日々感じたこととか

 


「政治主導」をスローガンに掲げた民主党が政権を奪取したからでしょうか、それ以前の自民党政権下のこの社会を「政治不在の時代」と捉える見方が流布しているように思います。けれども、民主党政権の言う「政治主導」なるものは有権者・国民が本当にその手に<政治>を取り戻すことを可能にするのか。「政治主導」ということはそもそも可能なのか、あるいは、「政治主導」とはそもそもどのような事柄なのか。これらの点を以下考察します。

本稿は、「政治主導」なるものを国民主権と民主主義の観点から、些か、原理的・抽象的に描いた下記拙稿の解題です。順序は逆になりますが本稿で私の主張の帰結を確認した上でその根拠を論じたものとして前稿を再読いただければ分かりやすいかもしれません。

・三権分立と国民主権★民主党による「政治主導」は民主主義の帰結か、
 それとも、民主主義と憲法の破壊か?(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/97502a0919eb0972b5e5ecfacc6c3aae

 

◆「政治主導」の意味
菅直人副総理が口にした「現行の日本国憲法には「三権分立」という言葉は書いていない」という妄言については前稿で詳しく批判しましたが、では、そもそも「政治主導」とはどのような主張なのか。ある意味、本稿全体がこの問いへの回答作業なのですけれども、ここでは、「国家権力が取り組むべき行政サーヴィスの内容項目と優先順位、そして、工程計画は中央官庁の官僚が決めるのではなく、形式的にも実質的にも内閣を握り国会を牛耳る政権与党の政治家が決めるべきだ」という主張を取りあえずその意味と措定しておきます。

而して、私は前稿で概略こう書きました。

民主主義は、「利害・価値観の決定的対立が存在しない社会において、十分なる情報が与えられた中で自由なる議論を通して、今日の少数派が明日の多数派になる可能性が存在する場合においてのみその政治哲学的な価値を主張しうるイデオロギー」にすぎません。而して、そのような条件下でのみ国民の部分にすぎない政府与党が「全体:国家&国民」を<僭称>することを「限時法」的に許す体制が民主主義なのではないでしょうか。

ならば、「国民主権の原理を採用する議院内閣制においては、「一元的に政党が内閣の中で活動をする」こと、すなわち、議会で多数を占める与党が行政権行使についても「政治主導=与党主導」で政策を決定し、政策の実現も指導することが国民主権のあるべき姿だ」という主張に端的な民主党の唱える「政治主導」なるものは民主主義の破壊であると同時に現行憲法の破壊でもある。

なぜならば、「部分」にすぎない民主党が(あたかも支那や旧ソ連の「前衛党=共産党」の如く)政府を支配するスタイルは、国民主権と民主主義のオフィシャルな発動回路たる現行憲法の定める「議院内閣制型の三権分立制」という統治機構とその運用スタイルを軽視して(たとえ、次の総選挙までの期間に限定するとしても)「立法・行政 Vs 司法」の二権分立に実質的に移行するものと考えざるを得ないからです。


要は、「政党:party」は「部分:part」である。すなわち、衆参両院とも全議席の三分の2を超える勢力を擁する政権与党といえどもそれは「国民の一部分」の支持を受けているにすぎず、その政権与党が「全国民」を代表して国家権力を行使するのは、土台、矛盾なのです。而して、その矛盾を回避するには、(あくまでも、それは擬制にすぎないのですが、憲法的には)真に全国民を代表する国会で、法案を巡って理性的かつ十分なる討議がなされた上で(繰り返しますが、「全国民の了承」を受けたという大義名分を入手した上で)法案が可決されることが必要なのです。

蓋し、そのような手続を踏まない限り、代表民主制は正当性を喪失して、少数派は多数派に従わなければならない理由を見出すことはできず、畢竟、法と秩序は崩壊する、鴨。このことは、ロシアや支那の少数民族問題を想起すれば満更非現実な話ではないのではないでしょうか。尚、民主主義の意味を巡る私の基本的な考えについては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。


・民主主義とはなんじゃらほい
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65344550.html

・民主主義--「民主主義」の顕教的意味
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226712.html 

・民主主義--「民主主義」の密教的意味
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226739.html

・政党政治が機能するための共通の前提
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2a72d3c23ffe5df01e494d21460d0114
 

而して、政権交代以来、民主党が連発している「強行採決」は民主主義への挑戦であり、それが「政治主導」の帰結というのならば「政治主導」は憲法違反とさえ言えると思います。

蓋し、古今東西、反対者が皆無ではない、就中、反対者が採決に同意していない採決を「強行採決」というのならほとんどあらゆる採決が「強行採決」でしょう。

よって、国会でその法案審議の相場と見られる審議時間が割かれていない。要は、結局は多数派が法案を通すにせよ、①次の選挙での投票の目安にするため、②世論のコンセンサスを得るため、③法案が法となった際にハードケースを巡る運用指針を議事録の形で公に残すために必要かつ十分な審議がなされなかった採決を「強行採決」と言うのだと思います。    

実は、自民党政権はその半世紀余の歴史の中でも驚くほど丁寧に審議してきた(逆に言えば、予定調和的政治風景の55年体制の中、野党の面子を過剰なほど立てていた)。実際、調べて見れば上に記した私の定義に該当する「強行採決」は半世紀を越える自民党政権下で5本の指が余るほどしかない。これは、例えば、教育基本法改正案が十分な議論を尽すべく第164回通常国会で継続審議とされ次の第165回臨時国会で可決成立したことでも明らかでしょう。

いずれにせよ、憲法論的に真面目に議論するに値する「政治主導」とは「強行採決」を連発するようなものではないことだけは確かだと思います。ルソーの次の言葉のように、選挙のときだけ民主主義が顔を見せる、而して、その選挙で一度政権与党の座が確定した後は、ある意味、(審議をしないのだから)国会さえ不要になるが如き「二権分立主義」の準独裁制は端的に憲法に違反するだろうからです。

「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いである。彼等が自由なのは、議員を選挙する間だけのことであって、議員が選ばれるや否や、イギリス人民は彼等の奴隷となり、無に帰してしまうのである。その選挙という自由な短期間の間に、彼等が自由をどのように行使しているかをみれば、彼等が自由を失うのも当然といえる。」

(『社会契約論』第3編15章)   




◆政治主導の可能性と限界
結論から言えば、私は「政治主導は可能か」という問いの答えは「Yes/No」だと考えます。要は、①グローバル化の昂進著しい、②大衆民主主義下の、③福祉国家においては所謂「行政権の肥大化」は必然であり、与党の政治家が行政のすべての部面を監視して、「国家権力が取り組むべき行政サーヴィスの行動予定を、形式的にも実質的にも内閣を握り国会を牛耳る政権与党の政治家が決める」などということは、土台、不可能なのです。これが「No」の理由。ならば、

民主党政権は「政治主導-脱官僚支配」を標榜しながら、その実、官僚と労組が猖獗を極める社会主義国家を目指している。而して、民主党政権の言う「政治主導」とは、行政実務を任せる宛先を人脈的に自民党の与力だった「官僚A群」から民主党に尻尾を振る「官僚B群」に変更するだけのものにすぎない。ならば、「政治主導」は(大統領が変われば、特に政権与党が交代すれば、3000人以上の高級官僚が交代する)アメリカの猟官制的な官僚の人事制度を議院内閣制の我が国において導入する、すなわち、行政に赤裸々な権力闘争を持ち込む不適切な政策指針ではないか。    

少なくとも、公務員を対象にした内部告発保護制度が公務員制度改革法(1978年)、ホイッスル・ブロワー保護法:WPA(1989年)によって保証され、政策執行過程のみならず政策形成過程における政治家の不当な圧力が抑止されているアメリカ。更には、政治的操作から公務員を保護するHatch法(1939年)、採用・昇進における縁故主義(猟官制:spoil system)ではなく能力主義(merit system)を担保しようとした上記の公務員制度改革法(1978年)等の制度的保証を併用しているアメリカに比べれば、これらの手当てを欠いてなされている現下の民主党の「政治主導」は民主党の息のかかった官僚による支配の強化の側面は否定できない。要は、民主党政権は赤裸々な猟官制を行政機構に導入しようとする、古い自民党よりも更に古い、古い古い政権である。と、そう私は考えます。   

蓋し、いかに現下の情報処理システムの技術革新が目覚しかろうと一日は24時間。而して、(300万人の地方公務員を捨象するとしても)100万人の国家公務員が日々担っておられる日本の行政セクターのタスクのすべてを監視しつつその行動予定の決定を「政治主導」で行なうなどは物理的にも難しいのではないか。もし、それを断行するとなると(「政治主導」を導入する領域を、利害の鋭い対立が存在する、かつ、高い専門性を要する行政タスクに限定するとしても)、それを実行する政治セクターも数万人規模の組織にならざるを得ないでしょう。これは、旧社会主義国で、行政サーヴィスを担う政府の官僚とそれを監視・指導する共産党の官僚が二重に存在していたことを彷彿とさせる究極の<行政の無駄>であろうと思います。

他方、しかし、官僚を信頼して、①大枠の方針を与えること、そして、②世論の支持を取り付け、結果の責任を負うことに「政治主導」の内実を限定するならば、私は、「政治が決断すべき主な行政タスクの行動予定を形式的にも実質的にも内閣を握り国会を牛耳る政権与党の政治家が決める」ことは可能であろうと思います。

逆に言えば、自民党政権下では、官僚が実質的に定めたそれら行政セクターの行動予定と与党の政治家が妥当と考えるそれとがほぼ同じだっただけではないのか。ならば、このより穏当な意味での「政治主導」は自民党政権下でも行なわれていたし、民主党政権下でも可能であろう。畢竟、その二つの「政治主導」の違いは、単に、行政セクターの行動予定の内容が異なるだけではないか。そう私は考えています。

けれども、このより穏当な意味に限定したとしても、民主党政権下の「政治主導」は危ういのかもしれない。畢竟、高校償化にせよ、子供手当にせよ、それらは財源論からも施策の効果論からも<北斗の拳>。而して、このような、憲法無効論なみの馬鹿げた施策の法案がなぜ堂々と国会を通過するのか。

蓋し、それは、(イ)民主党政権の政策のお粗末さ、そして、(ロ)パラドキシカルながら、自民党政権時代に比べても遥かに大きな官僚依存の結合ではなかろうか。すなわち、コトナカレ主義の「官僚=料理人」が「民主党政権=注文主」の注文に沿って出した法案に対して、素人の「注文主」もコトナカレ主義の「料理人」も、本質的には誰もその中味がわかっていないという構図なの、鴨。と、そう私は危惧しています。

打倒、民主党!



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