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政治責任の構造と射程-福島原発事故報告書に世界から寄せられた批判を媒介として(5)

2013年01月09日 22時07分20秒 | 雑記帳



◆責任の意味

再度書いておきます。「責任」の内包についてです。蓋し、「責任」とは、

①自分がなしたこと/なすべき立場にありながらなさなかったことに関して、②行為者の故意または過失が関与して、③その行為者の行為や不作為から社会的に許容される範囲を越える実害が惹起した場合に、かつ、④その行為や不作為と実害の間に社会的にも相当な因果関係が認められるとすれば、⑤その行為や落ち度の悪質さ、および、実害の大きさと均衡の取れた制裁がかされるべきだ


という意味ではないか。ことほど左様に、これら①~⑤の内容を前提とする場合、責任の本質は何に求められるのでしょうか。そもそも、「責任」とはどういうことなのでしょうか。再度、刑法学における責任論に範を求めれば、「責任/有責性」とは、

(ⅰ)構成要件該当性および違法性とともに犯罪の成立要件の一斑をなす
(ⅱ)行為者が自分のなした行為/なさなかった不作為に対して「社会的非難を受けても文句を言えない」という事柄や性質


と考えられる。つまり、「責任/有責性」の本質・中核は「非難可能性」であり、そして、「責任/有責性」の存否や多少が検討される現実の法的評価の場面では、この「非難可能性」は「非難に値する行為や不作為を行為者が避け得た/社会からの非難に値する行為や不作為を避けることを社会が行為者に充分に期待できた」ということ。つまり、「期待可能性」こそ「非難可能性」を貫く「責任」の本質と考えるべきであるとか、刑法学の世界では議論されています。

而して、次のような刑法の諸条項は(違法性を阻却軽減するものでもある36条1項および37条1項前段を含め)このような「責任」観念の立法による顕現に他ならないとも。

36条
1項:急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
2項:防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。

37条
1項:自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
2項:前項の規定は、業務上特別の義務がある者には、適用しない。

38条
1項:罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。
2項:重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。
3項:法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。

39条
1項:心神喪失者の行為は、罰しない。
2項:心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

41条:十四歳に満たない者の行為は、罰しない。






刑法の責任論それ自体、大変興味深いイシューなのですが、法規の条文を見ただけであくびが出そうになった方も少なくない、鴨。よって、本稿の主張を敷衍する舞台を法学の領域から少し移しましょう。新しい舞台は「戦争責任」。すなわち、論者の懐く「責任」の意味内容がそのイシューに関する結論や理路を左右する、法学以外のよりポピュラーな論点を題材に取り上げて「責任」の言葉の意味について更に検討を重ねて見たいと思うのです。

万物は流転する。左翼・リベラル派の牙城、朝日新聞もNHKも、現在では間接的にせよそれを認めているように(「ドイツに比べて日本は戦争責任に向き合う真摯さが決定的に足りない!」などの無知に塗れた虚偽を垂れ流す記事や番組がほぼ消滅したように、要は、冷戦終了後も長らくその責任を「ナチス」という不逞の輩に押しつけ、要は、ドイツの国家とドイツの国民の戦争責任には頬被りしたままで、かつ、<戦争>に起因する被害の「賠償」と「謝罪」も独りユダヤ人に特化して行ってきたドイツとは異なり、)日本は、国際法史上、他に例を見ないほど誠実かつ完全に国家としての「戦争責任/戦後責任」を果たし終えています。少なくとも、法的責任に関してはこの認識に対して異論はそう多くはないと思います。


では、戦争指導者の戦争責任は如何。
畢竟、昭和天皇の戦争責任は如何。

3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ
Article 3. The Emperor is sacred and inviolable.


旧憲法3条を紐解くまでもなく、(ちなみに、本条は「天皇を神格化」する規定ではなく、例えば、英国の(それは現実には国家の賠償責任を回避するロジックでもあった)「King can't do wrong:国王は間違いを犯すことはない=国王を罰すること/国王に対してコモンロー上の権利の侵害を理由に損害賠償を求めること, 国王に対してエクイティー上の権利を根拠にして差止請求をすることはできない」という憲法原理とパラレルな、天皇という国家機関の「無問責性」を定めた規定です。)昭和天皇には国内法的な意味での戦争責任は存在しません。

加之、国際法において、交戦国指導者の戦争責任を問うルールは、正に、東京裁判とニュルンベルク裁判を通して構築主義的に(要は、結果論的かつ泥縄式に)形成されたもの。而して、昭和天皇はその東京裁判の被告人ですらなかったのですから、更には、土台、法理的には事後法による責任の認定などできるはずもないのですから、国際法的にも昭和天皇には戦争責任は存在しないのです。


では、道義的と政治的の責任はどうでしょうか。

そもそも、昭和天皇に限らず、政治指導者、すなわち、政治家の「責任」、就中、「戦争責任」とはどういうものでしょうか。繰り返しになりますが、天皇はもとより政治家は国政に関して、原則、法的には結果責任を問われることはあり得ません。これは「無責任」が国民性の日本だけのことではなく(笑)、世界的に言えること。

而して、結果責任を問われるのは政治的と道義的の責任でしょうが、もともと「確実に国民を幸福にする/間違っても敗戦に伴なう塗炭の苦しみを国民に味あわせない」などを履行する義務も責務も政治指導者は負っていないのです。なぜならば、戦争に端的如く、歴史の激動が人智を超えるものである以上、不可能事を誰も約束もできないし、不可能の不履行を責められる筋合いは誰にもないから。

ならば、天皇の戦争責任や日本国民の戦後責任を追及しようとする、内外の左翼・リベラル派の心性は、国は国民を幸せにする責務があり、また、国家はそれを行う能力を持っているという、国への甘えと権力の万能感の幻想に発するものではないでしょうか。それが人為の集積であったとしても経済活動には人為を越える「自然法則性」が見いだされるのとパラレルに、戦争においても、あるいは、エネルギー政策においてもときの為政者さえ抗す能わざる人智を超えた<自然>が介在しているのでしょうから。

ならば、蓋し、ときの首相が自己の責任において下した「原発再稼働」の決定に関して、「もし、事故が起き、放射線被曝による住民の健康被害が生じたときに首相がどう責任を取ると言うのか」といった脱原発論者の常套する言説もこのような国家に甘えた主張ではないか。と、そうも私は考えます。


道義的と政治的の責任。一体、日本は自身の手で戦時指導者を裁いてこなかったのでしょうか。否です。日本国民には彼等を裁くチャンスはいくらでもあった。しかし、実際には、国会は全会一致で戦時指導者を含む所謂「戦犯」の名誉回復を行いました。そう日本人は裁いたのです。

ならば、これこそ日本国民が戦時指導者に下した明確な、道徳領域での<裁き>だったのではないでしょうか。それとも、戦時指導者や戦前の日本への裁きとはそれらを批判・糾弾、而して、謝罪と賠償を引き出すものに限定されるとでもいうのか。 そんな限定の根拠はどこにもありません。ならば、戦時指導者を批判的に裁くべしという主張は(例えば、上に引用した山口氏の言説や認識などは、言葉の正確な意味での)<私怨>もしくは特殊な政治的イデオロギーの帰結にすぎない。と、そう私は考えます。


而して、もし、「道義的責任/政治的責任」が、昭和天皇や他の戦争指導者の個人の内面に存するなんらかの悔悟だけではなく、善悪を巡る社会的な評価とその評価に基づく非難・批判を必須の構成要素とすると考えることが満更間違いではないとするならば、この観点からも(少なくとも日本においては)昭和天皇には道義的や政治的な意味でも戦争責任は存在しないのです。

そして、法的にも政治的にも道義的にも日本においては存在しない、戦争指導者の、就中、昭和天皇の戦争責任を、(加之、確立した国際法の要求を超えて)他国からとやかく言われる筋合いはない。敷衍すれば、他国がとやかく言うのは勝手だけれども、他国のその「クレーム」と「くれーむ」を日本が受け入れなければならない義理も道理もない。と、そう断言できると思います。

尚、本稿で展開した私の理路の前提に関しては
下記拙稿も併せてご一読いただければ嬉しいです。



・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c184c904f63f0211113dca39863f6b30






長い敷衍作業の結びは簡潔。「責任」という言葉の意味をこう捉えるのであれば、本稿の主題たる「福島原発事故」とその「責任」はこう考えるべきであろう、と。蓋し、

(α)原発を導入・推進した自民党政権の責任などは「責任」ではない。(β)福島原発事故を巡る「責任」とは、(β1)その事故が想定内であった/その事故が充分に防げたという前提で、(β2)その想定された地震や津波に対する対処や指導を怠ったとするならば、東京電力を監督・規制する権限を帯びていた原子力保安院等の行政機関には「責任」は認められる余地はある。(γ)加之、福島原発事故を巡る「責任」とは、風評被害を含む福島事故の被害をミニマムにできたという前提で、被害対処を使命とする時の政権もまた「責任」が問われよう。


と、そう私は考えます。蓋し、経済の成長はもちろん、エネルギー安保の観点からも、エネルギーの安定供給とエネルギー源の分散化が日本にとって死活的に重要であった/重要であることを鑑みれば、なにより、想定外の過酷事故が惹起したにもかかわらず、福島原発事故においても放射線被曝が原因と見られる健康被害など皆無であることから見ても「原発性悪説」などは論外であり、(α)が土台成立しなことは説明するまでもないでしょう。

また、(β)(γ)に関しては、これこそ上で繰り返し述べた「責任」の内包、すなわち、①当事者であること、②故意または過失の存在、③実害の存在、④相当な因果関係が認められるでしょうが、この点、<2011年3月11日>の事態を受け、(風評被害を含む)その被害をミニマムにすることにおいて、邪魔することの以外何もしなかったと言ってよい菅直人民主党政権の責任は「責任」ということばの意味のストライクゾーンのど真ん中にあると言える。

ならば、⑤責任と制裁の均衡の観点からは、法的責任の是非は司直の判断に委ねる他ないとしても、菅直人氏には最大級の政治的非難が与えられるべきである。その荒唐無稽な「避難勧告」なるものに浜通りの人々が従った結果(すぐに戻れると国に「騙された」結果)、家族の一員たる夥しい数のワンちゃん達や牛さん達を餓死せしめた菅直人氏とその政権の関係閣僚は万死に値する政治責任から逃れることはできない。

而して、その政治責任の有無や帰属の是非の判断には「日本人の国民性」なるものの介在する余地は微塵もない。と、そう私は考えます。








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