![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/47/bd79e92d7db63a96f7ab59a7d53b2128.jpg)
⤴️ブログ冒頭の画像:記事内容と関係なさそうな「美人さん系」が少なくないことの理由はなんだろう?
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c566c210ad11db94fc1d87a5fddcf58e
われながら読み返して、
なるほどねぇーと感じました。
ということで、自家記事リブロです。
KABU ↖️ ダブリンでも熱中症厳戒中、皆さまも水分と塩分とエアコン忘れずに、です🐙
【再掲】もしこの世界から国境がなくなれば?
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/73ed9fad56c5124341472d81542793bf
【追記】資料記事紹介+感想:西側のエリートさんとメディアはなぜロシアに勝てると思ったのか?
↪️孤立しているのはどっち?
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/327f61c14e6ba8a9ea350128b89d31b5
元記事
2017年06月05日 16時48分18秒
◆新型コロナ 途上国へも目配りを
2020年4月5日
ウイルスに国境はない。たとえ先進国で封じ込めに成功しても、それだけでは不十分だ。医療態勢の弱い途上国で感染が広がらないよう、国際社会全体で協力することが欠かせない。
国連は先月下旬、途上国や紛争地域などで新型コロナウイルス対策に取り組むため、20億ドル(約2200億円)の人道支援を各国に要請した。
対象はアフリカやアジア、南米、中東の貧しい国々や難民キャンプだ。世界保健機関(WHO)や国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)など国連機関と国際NGOが協力し、医療器具や医薬品を提供する。
こうした国々は衛生状態が悪く、医療施設も整っていない。感染が爆発的に広がり、先進国を含めた世界全体にとって新たな脅威となる恐れがある。
グテーレス国連事務総長は「第2次大戦以降で最も困難な危機だ」と訴えた。国際社会はその言葉を正面から受け止め、協調を強める必要がある。
とりわけ懸念されるのがアフリカだ。アフリカ大陸で初の感染者が確認されてから約1カ月半でほぼ全ての国に広がった。感染者は全体で7千人台と、欧米に比べ少なく見えるが、検査態勢の不備を考えれば実態はより深刻だとみるべきだろう。
先日開かれた主要20カ国・地域(G20)の首脳会議は「アフリカの保健システムを強固にすることが、世界的回復へのかぎだ」と声明でうたった。その考えを実行に移したい。
感染症対策の基本とされる手洗いだが、アフリカでは水の確保が困難だ。ユニセフによると、サハラ砂漠以南のアフリカ諸国では、都市部の3人に2人、約2億6千万人が手洗いに必要な水やせっけんが手に入らないという。子どもたちを中心に慢性的な栄養不足も深刻だ。
こうした環境もあって、アフリカでは感染症との闘いがかねて日常化している。エイズ、結核、マラリアの3大感染症に加え、エボラ出血熱も流行が続く。そこに新型コロナが加われば、さらに重荷が増える。
日本は四半世紀以上前にアフリカ開発会議を立ち上げ、関係を深めてきた。昨夏の第7回会合では、保健医療分野での貢献も改めて表明した。国内で新型コロナ感染が急増しており、経済への深刻な影響も懸念される。その対策を十分に図りながら、途上国で苦しむ人々への目配りも忘れないようにしたい。
各国が自国での対策に注力することは当面必要だろう。だが長い目で見れば、それだけで感染症問題を克服することはできない。グローバル化した世界で感染症にどう向き合うか、国際社会が問われている。
でこう述べています。
「自由な選挙、言論や信教の自由、政治的抑圧からの自由」
戦争の惨禍の記憶も鮮明な1947年3月、トルーマン米大統領は議会演説で、米国が守るべき価値観を挙げ、宣言した。
「共産主義封じ込め」をうたったトルーマン・ドクトリンである。・・・
■あやうい取引の政治
実業家としての経験からトランプ氏は取引(ディール)の巧者を自負する。かけひきを駆使し、手の内を明かさず、相手を出し抜く。だが外交交渉は、商取引とは別物だ。自国の最大利益が目標だとしても、相手国への配慮や、国際社会の一員として守るべき原則を尊重する姿勢が欠かせない。懸念すべきは、トランプ氏が普遍的な理念や原則まで、交渉を有利に進める「取引材料」と扱いかねないことだ。・・・
一方、国際合意や歴史的経緯への認識を欠く言葉は、すでに世界に混乱を広げている。「一つの中国」を疑問視するトランプ氏の発言に対する中国の反発の矛先は、米国より先に台湾に向かう恐れがある。疑心暗鬼は予期せぬ過剰反応を誘発する。・・・
・民主主義--「民主主義」の顕教的意味
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a11036903f28f118f30c24f1b1e9f2bf
・民主主義--「民主主義」の密教的意味
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0364792934f8f8608892e7e75e42bc10
・宇野重規・「民主主義とは何か?」(講談社現代新書)↖スカスカのParisグルメ案内❎
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5f407c897dadf9e5aacf43d88fa4bd91
・【再掲】英文読解 one パラ道場:
英語教材として読むトランプ大統領就任演説(英文全文)
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2b023b24c6f7644fa8473ce785df03ac
・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/71/8bd97bd5a54b5173677a224477f1afb8.jpg)
本稿は学術的な考察を行おうとするものではありませんので、議論を先にすすめるべく、一応、間違いではないよなと感じたWikiの記事をコピペしておきます。
The international community is a phrase used in geopolitics and international relations to refer to a broad group of people and governments of the world. The term is typically used to imply the existence of a common point of view towards such matters as specific issues of human rights. Activists, politicians, and commentators often use the term in calling for action to be taken; e.g., action against what is in their opinion political repression in a target country.
Noam Chomsky alleges that the use of the term is used to refer to the United States and its allies and client states, as well as allies in the media of those states. The scholar and academic Martin Jacques says: "We all know what is meant by the term 'international community', don't we? It's the west, of course, nothing more, nothing less. Using the term 'international community' is a way of dignifying the west, of globalising it, of making it sound more respectable, more neutral and high-faluting."Chomsky alleges that the phrase international community really means the U.S. government, which is even more of a limited scope than the Western Hemisphere and the United States of America.
ただ、日本語のWikiの記述は「英文の訳」なのだろうけれど正直わたしには意味不明です。
蓋し、チョムスキーとMartin Jacquesのこの用語に対する斜に構えた批判的解釈は、かって、サルトルが「ノーベル賞は西側の価値観を権威づけ、それを東側にも押し付けようとするプロジェクトだ」とかなんとか呟いてノーベル文学賞を辞退した際の心性と感覚と通底しているもの、鴨です。
国際社会(International community)は、世界の政府および人々のおおまかなグループのことであり、 国際関係について使われるフレーズである。 概して、特定の人権問題などについての共通の視点の存在を、暗に意味するために、使われる。 活動家、政治家、コメンテーターはしばしば、この言葉を使って、必要なアクションを求める。 例えば、対象国での政治的抑圧であるとされている事に対して使われる。
ノーム・チョムスキー はこの言葉の用途について、アメリカ合衆国とその従属国と同盟国を意味すると、記した 。 学者であるMartin Jacquesは、「我々は皆『国際社会』という言葉が意味するものを知っているはずだ。それは当然、西洋のことで、それ以上でも、それ以下でもない。『国際社会』という言葉を使うのは、西洋に威厳を付け、世界的なものとし、より立派に聞こえるようにし、より中立で、他より優越しているとする、方法だ。」と言っている。
さて、ここからが本論。要は、
>それは単なる現象を論者が認識する枠組みとしての「道具概念」なのか
>それとも、単に現象としての--戦争や貿易や難民の移動を含む--人間の諸活動が展開されている時空間にすぎないのか/人類史のある時間と地域を区切った「時空的の舞台」にすぎないのか
簡単な話です。「国際社会」なるものはどんな意味でも当事者ではないということ。そのメンバーがどんなにお転婆とやんちゃ坊主な子供達ばかりであろうと--また、担任の先生のオーバールール的指導がありうるとしても--小学校2年生のクラスで「生き物係り」とか「給食当番」を決める場面を想定すれば、そのクラスは「社会」といえるでしょう。そこでの決定が--それに自分が反対であるにせよ賛成であるにせよ--自分をも法的に拘束するのですから。
では、上で朝日新聞の述べる「国際社会」なるものはこの法的拘束力の存否の観点から見て「社会」と言えるでしょうか。結論から先に書けば、それは「Yes/No」だと思います。そう、「Well, I can say either yes or no.」ということ。
2)ところで、国家間において侵略行為--あるいは締結した条約の違反--に対しては、国連の発足以降も、「制裁=個別的と集団的の自衛戦争」が認められ/「制裁の戦争」が実際しばしば行われている
4)この「破棄行為」は破棄以前に行われた侵略行為や条約違反に対する制裁の効力を原則消滅させない
Article 51:
Nothing in the present Charter shall impair the inherent right of collective or individual self-defense if an armed attack occurs against a member of the United Nations, until the Security Council has taken the measures necessary to maintain international peace and security. Measures taken by members in exercise of this right of self-defense shall be immediately reported to the Security Council and shall not in any way affect the authority and responsibility of the Security Council under the present Charter to take at any time such action as it deems necessary in order to maintain or restore international peace and security.
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。
而して、本稿の問題の中心は、国際法もまた「法」であるといえることから、果たして、リベラル派が呪文のようにとなえる「国際社会」とか「国際社会の総意」とかのタームもまたなんらか意義のあるものと言えるのかどうかになろうと思います。繰り返しますが、すなわち、
(Ⅱ)侵略行為に対する自衛戦争を正当な制裁と認定するルールというかシステム
「捕鯨の禁止」「若年女性が--家内奴隷のごとく--取引される慣習の廃止」「結婚までの女性器の縫合の禁止」「美人コンテストの廃止」「ベジタリアンの推奨に毛皮取引の禁止」「女子教育の推奨」「嫁の持参金制度の廃止」
「難民の受け入れの拡大」「外国人への参政権、少なくとも地方自治レベルの参政権の拡大」「タバコの廃止」「複数の言語を公用語とすること、少なくとも、初等中等教育での子供たちの母語の尊重」「フェァトレードの標準化」「資金の海外流出と節税対策の無効化」「少年犯罪の非犯罪化」「ヘイトスピーチの罰則による抑制」・・・・・・・
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/281ecc781b65365010ebbc819dc71016
・樋口陽一の文化帝国主義的憲法論の杜撰と僭越(上)(下)
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/75d33f6bb999e22cf4234345aa9b5f3d
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c7d0b8a081d2c153a9331218334039f6
畢竟、「国際社会」なるものに関してもリベラル派がしばしば(念仏のように?)口にする所謂「多様性」なるものの価値や素晴らしさというもの。蓋し、それらの価値や素晴らしさを保守派も必ずしも否定はしないでしょう。わが国も、古来、数多の「帰化人」の方々を<新しい仲間>として受け入れてきたし、日本の文化伝統なるものの多くは彼等とのコラボレーションの果実であることを否定するような向きは「保守」などではなく、単なる「無知」なのだと思います。
・風景が<伝統>に分節される構図-靖国神社は日本の<伝統>か?
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/87aa6b70f00b7bded5b801f2facda5e3
しかし、「多様性」なるものを具現する道のりやスタイルは、リベラル派がしばしばそう口にするように、別に、すべての国が「その市民社会を<地球市民的>なる無国籍の色合いに染める」ものばかりではないのではなかろうか。個々の国家が、各々、独自の文化と伝統を競いあうことによって、世界の総体としては百花繚乱・千紫万紅の<コラージュ>状況を現出する道のりもありはしないか。而して、保守主義に親和性のある「国際社会」の――現在の国際法の基盤となっている法の共同体という意味での「国際社会」に親しい――「多様性」は間違いなく後者のスタイルであろうと思います。
最後に、蛇足ながら、というか少し長い補足註になりますが
自家記事をここで転記させてください。
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/49dcf02c7daea288a9d74edd97f6af41
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/76/025f491e7f6a0b89aa08c55ff676cc8d.jpg)
基盤となる<共同体>を欠く、国際法が--国際法の存在形式、国際法の一般法は慣習的法であることとは裏腹に--慣習法的な事柄、例えば、「法の支配」の理念であるとか、--文化帝国主義のフランス流のそれではない、中庸を得た--英米流の「立憲主義」であるとかとは無縁であることも明らかだと思います。要は、国際法は慣習的法ではあるが厳密な意味での慣習法ではないということ。
>国際法一般法の本性・・==>慣習的法(≒legal convention)
(α1)一元論-国際法優位説
(α2)一元論-国内法優位説
(β0)二元論-国際法と国内法の無関係的二本立て説
↓ ↓ ↓
イェリネックの国家の--国民・領土・主権の3要素による--定義の中の「主権-統治権」(他国に対しては対等独立、国内にあっては最高唯一の国家主権)の存否とは、他の大方の諸国がその国の主権を認めたかどうか--「主権国家」と認めたかどうか--で決まるということ。
国家とは何か、国民たる<私>とはどのような存在なのか。イェリネック(1851-1911)の「国家の3要素」なるものとして人口に膾炙する定義によれば、国家とは領土・人民・権力を備えた社会集団のことらしい。今でも日本では、大体、どんな書物にもそう書いてある有名で陳腐な定義。けれども、イェリネック自身は、名詞の形容詞用法である「国家の:Staats」をそれぞれの項に添えた上で「国家:Staat」を説明して、
・国家的人民:Staatsvolk
・国家的権力:Staatsgewalt
今朝も朝ごはん食べて英語頑張りましょう❗️
@ダブリンでも🍺