遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『妖怪学講義』  菊池章太  講談社

2015-10-24 08:18:30 | レビュー
 「妖怪」が学問として大学での講義対象になるということを初めて知った。それも、妖怪について学問的な研究対象としたのは、何と120年ほど前に遡るとは!
 現東洋大学の発祥となる哲学館を哲学者の井上円了氏が創立したという。その井上円了先生が明治20年(1887)に「妖怪学」という科目を設置し、研究・講義を始められたのが、「妖怪学」の出発点だそうである。
 哲学者がなぜ妖怪学なのか? そのねらいは、迷信の打破であり、妖怪の存在を否定するために妖怪を研究し、そのことを通じて、明治近代化における啓蒙思想家としての役割を円了先生が果たそうとしたと著者は言う。そして次のように円了先生の意図を解釈している。
「人が妖怪といって怖れているものはじつは迷信にすぎない。そんな迷信に惑わされてはいけない。迷信ばかりではない。思いこみや偏見にとらわれることなく、自分の目で確かめ、自分の頭で考えることが不可欠である。客観的な観察と主体的な思考にもとづいて世界をみつめなければならない。実態のない恐怖におびえたりせず、確実に存在するものを信頼すること。つまりは妖怪を恐れないことが、みずからものを考える営みとしての哲学のはじまりである。--これがそもそもの出発点ではないかと思います」(p11)
 円了先生は明治26年(1893)に、古典籍中の妖怪記事の渉猟、全国各地での聞き書きなどの調査研究の成果を『妖怪学講義』第1冊として公刊されたのだとか。

 著者は現東洋大学の創立者が担当科目として始めたこの「妖怪学」を、諸般の事情を受け止め、「やけのやんぱち身のほどもわきまえず復活をこころみた」(p5)という。
 著者自身の説明によると、本書は120年ぶりに復活させた妖怪学講義(1年の半期の授業)のうち、前半7回分の実況中継まとめである。宗教学、民俗学、文学史、芸能史などの研究成果を取り入れながら、円了先生の研究成果を踏まえ、前近代の日本の妖怪現象について歴史的にたどろうとした講義のまとめなのだ。
 そのため、まとめとして整理された本文に講義口調の雰囲気が維持されていて、学術論文と違って読みやすいし、随所に講義で使用された写真、妖怪絵などが数多く収録されていておもしろく理解が進む。私には初めて知る妖怪がほとんど・・・・という有様で、実に楽しめた次第。
 各週の講義内容の後に、「感想あり、質問あり!」と題して、受講感想や質問の主要なものが取り上げられ、著者の回答が載っている。講義からの波紋の広がり、あるいは講義の補足、補強になっていたり、新たな関心へのトリガーとなっている。この部分が、ある意味で大学の講義の雰囲気を一層盛り上げていて、学生の関心の方向及び著者の会話調リアクション、考え方がわかり、興味深い。第1週の講義に対して、このセクションには3つの感想・質問が載っている。文章の短いのを2つ例示としてご紹介する・・・・。
*この授業では、ゲゲゲ系の妖怪話をするわけではないんですか? (3年次女性)
*先生も妖怪を否定する立場にあるということですが、今日の話を聞いた感じだと、なんとなく先生は妖怪を信じている気もします。(1年次女性)
 各週の講義の最後に、「もっと勉強しなさい!」というセクションが付されている。これは講義に使われた参考文献の紹介並びに、講義からさらに興味を持った人向けのガイダンスである。このセクションを読むと、妖怪学研究の動向とともにこの領域の裾野の広がりを感じることができておもしろい。要約すれば、妖怪はすべての学問領域に関わりを持っていく切り口なのだと言える。なぜ、そうなのか? 本書をひもとけば、なるほどと・・・・。

 まず、講義内容のテーマをご紹介しておこう。
第1週 哲学者がなぜ妖怪学? -新しい時代と学問の樹立-
第2週 闇のなかで泣いている -文学としての幽霊話-
第3週 きっと取り殺すからそう思え -めぐる因果の累ヶ淵(上)-
第4週 わが怨念のむかうところ -めぐる因果の累ヶ淵(下)-
第5週 つたかずら這いまとい -怨霊的古典芸能の試み-
第6週 都大路にあやかしの気配 -呪いのメカニズムを分析する-
第7週 妖怪学の可能性 -あらゆる知につながる学問へ-

 著者は最初に円了先生による妖怪の定義を紹介する。
「洋の東西を論ぜず、世の古今を問わず、宇宙物心の諸象中、普通の道理をもって解釈すべからざるものあり。これを妖怪といい、あるいは不思議と称す」(p13)
正しい論理、つまり合理的な思考で解釈できない不思議な現象を妖怪と定義されている。哲学とは正反対の対極に位置するのが妖怪であることから、その不合理な思考、不思議な現象を哲学の目指す立場から研究し、否定することに必然性があるということなのである。そこから、円了先生は、妖怪博士として、その名声が全国に知れわたっていったそうです。円了先生の存在、知らなかった・・・・・。
 本書は、この円了先生の定義を出発点として押さえて、円了先生が世に与えた影響の紹介と、円了先生の研究活動の影響・波紋の広がり、妖怪に対する研究の流れなどが、現時点から捉え直されて、著者の講義が展開されているのである。「妖怪」に関わる世の動き、人々の認識の変遷もわかって、おもしろい。

 まず、井上円了の立場に「徹頭徹尾反対」を表明したのが、日本民俗学という学問領域の開拓者となった柳田國男だという。妖怪や幽霊を信じる心を「民間信仰」ととらえて、人々がそう考え、信じてきた事実のなかにこそ、日本人という民族や日本文化を考えるてがかりがひそんでいるとする。つまり、円了先生と反対の視点から研究に踏み込んだのが柳田國男氏であり、円了先生の影響が、円了先生の考えとは真逆の立場に及び、民俗学のひとつの出発点になっているというのは、実に興味深いと思う。柳田國男は『妖怪談義』を著していて、今では文庫本で読めるという。民俗学の領域では、宮田登氏が『妖怪の民俗学』の中で、柳田による幽霊や妖怪の出現形式の違いによる分類とは違い、人々が抱く感情の持ち方に注目した視点の提示を紹介している。
 他方、円了先生の幽霊研究に沿った見方として小松和彦氏を妖怪研究者として取り上げる。小松氏は幽霊を「死者が死後に生前の姿でこの世に現れたもの」と定義するそうだ。(『妖怪学新考』)さらに、江戸文学研究者、アダム・カバット氏の幽霊像分析も紹介している。
 有名な文学作品に現れる幽霊話や、有名な画家の描いた幽霊図の事例紹介を織り交ぜて、妖怪や幽霊の研究の裾野の広がりを第2週の講義で行うアプローチは、妖怪学入門として実に入りやすい。

 第3週、第4週は、江戸時代のはじめ、寛文12年(1672)に起きた累(かさね)という女性の怨霊事件を中軸にして、講義が展開される。「親の因果が子に報い」という言い回しにひそむ迷信、円了先生の言う妖怪的な意味での「因果」に光を当てて、妖怪学アプローチで切り込んでいる。実際に起こった事件から入らずに、それをネタにした作品から順に遡りながら考察を進めていくという手法は、受講者側が引き寄せられ、話題にからみとられていくうまい構成になっている。それが読みやすさにもなっている。
 2007年公開映画『怪談』 ⇒ 明治の古典落語・三遊亭円朝の『真景累ヶ淵』⇒ 下総国羽生村の累ヶ淵の伝説 ⇒ 寛文12年の累(かさね)の怨霊事件(『死霊解脱物語聞書』に記録されている)という講義の展開である。
 この講義で取り上げられた「因果」というテーマについて、当時の人々の状況を踏まえた視点の大事さに触れられている。「昔の人にとっては、世のなかでいきていくうえでの戒めであったはずです。それはまた一方で、なぐさめでもありました。そのことも忘れてはならないと思います。現代に生きる私たちのまわりにだってありうることかもしれないからです。」
 過去に起こった事件を題材にして分析研究を展開しながら、そこにもう一つの別のテーマが浮かび上がってくるとし、それが「いじめ」であるという。そして、研究の視点が現在の「いじめ」問題に連鎖する局面で講義を終える問題視点の提示は、講義話に終わらせないところが興味深い。
 
 第5週は、古典芸能となっている有名な演劇演目を題材にして怨霊が論じられる。取り上げられているのは、式子内親王と藤原定家の現世ではかなうことのなかった恋物語、つまり墓を覆いつくす蔦葛(つたかずら)伝説と、紀伊国(和歌山県)の道成寺伝説の二つです。愛ゆえの怨みがテーマとなっています。
 金春禅竹作と伝わる能『定家』、歌集に収録された式子内親王の歌、人形浄瑠璃『日高川入相花王(いりあいざくら)』、道成寺に伝わる『道成寺縁起』、歌舞伎『京鹿子娘道成寺』などが題材とされて、語られていくので、一種古典芸能教養講座てきですらある。 「そういった繰りごとや怨みごとのなかにこそ、じつは生きていくことの真実がこもっているのではないか」と講義が締めくくられている。妖怪学講義としてはおもしろい「たそがれどきの回想」である。

 第6週では、妖怪といえば連想するはずの安倍晴明がやはり登場する。「呪い」までが妖怪の範疇に入ってくるのは、円了先生の定義からすれば必然のことだろう。この講義、紫式部がまず登場するところから始まる。『紫式部日記』、中宮彰子の出産祈祷、藤原道長の『御堂関白記』、安倍晴明の登場へと繋がっていく。テーマとなっているのは「呪いのメカニズム」である。
 そして、講義の最後が、「恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる 信田の森の うらみ葛の葉」でまとめられているのは、余韻が残る。

 第7週は「妖怪学の可能性」についてのまとめである。120年ぶりに大学で復活されたこの妖怪学講義で、改めてその学問としての可能性が論じられている。
 妖怪、幽霊、因果の定めを秘めた怪談話、怨霊を俎上にのせてきたのに加えて、ここで著者は冒頭に日本で流布している血液型性格診断や世界中で長い歴史をもつ文化事象でもある星座占いを取り上げ、これらも迷信妖怪といえるものだと俎上にのせる。そして水木しげる氏のゲゲゲの鬼太郎が一つの代表例となるが、妖怪ブームが復活し、この過程で妖怪にたいする認識が再び変化してきていると著者は論じている。
 小松和彦氏が、妖怪とは「人々の認識体系・了解可能な知識体系から逸脱したものすべて」と定義し、「あやしいいもの」「あやしいこと」が妖怪現象だと結論づけていることを紹介し、円了先生の妖怪定義と重なる部分を重視している。
 ヘンだと思う現象、そういう現象が実在すると信じる精神構造が、今もずっと古い時代から変わることなく受けつがれているというところに、大事なポイントがあるという。そして、妖怪現象は「広大な心の世界がある」ことの表れであり、「妖怪はまさしく生活必需品に他なりません」と解説していく。妖怪は「知のワンダーランド」であり、妖怪学が学際的研究対象となるべき研究分野だと結論づけている。
 最後の最後で、著者は言う。「妖怪をなくそうとしてあらゆる学問分野を総動員して妖怪を探求しつづけた円了先生は、ほんとうは妖怪の一番の友だちだったのです」(p195)と。このパラドキシカルな落ちに至る講義のプロセスが楽しめる。
 そして、あの水木しげる氏が頼りにされているのが円了先生の『妖怪学全集』だそうである。
 
 妖怪学入門として、楽しみながら学べる講義録である。

ご一読ありがとうございます。

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本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。

井上円了 :ウィキペディア
井上円了とは  :「東洋大学」
妖怪学 井上円了  :「青空文庫」
百鬼夜行絵巻  :ウィキペディア
絵巻物データベース :「国際日本文化研究センター」
  このトップページにある「閲覧する」をクリックすると、
  「百鬼夜行絵巻」「道成寺縁起」「化物尽絵巻」「吉光 百鬼ノ図」
  「土佐光起 百鬼夜行之図」「滑稽百鬼夜行絵巻」「妖怪絵巻」「付喪神絵詞」
  などが閲覧できます。
画図百鬼夜行 鳥山石燕 :「国立国会図書館デジタルコレクション」
特別展『江戸妖怪大図鑑』 :「太田記念美術館」
  2014年実施時のPRページですが、多数の絵図が紹介されています。
当妖怪図鑑妖怪検索指南 :「妖怪うぃき的 妖怪図鑑」
王子装束榎木 大晦日の狐火 歌川広重 :「浮世絵の アダチ版画」
鰭崎英朋 蚊帳の前の幽霊  :「NAVER まとめ」
応挙の幽霊図  :「黒猫の究美 -浮世絵談義 虎之巻-」
真景累ヶ淵   :「青空文庫」
古今亭志ん朝 真景累ヶ淵  :YouTube
真景累ヶ淵  大あらすじ  :「はなしの名どころ」
円朝全集 巻の一  真景累ヶ淵  :「近代デジタルライブラリー」
  本文の挿絵として  13,35,46,58,69,95,106,127,164,200,
御産の祷 ◆ 安田 靫彦  美人画集

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