この小説にはテーマが二つある。私はそう受け止めた。一つは、黒田官兵衛の前半生での生き様であり、他の一つは当時のキリシタンという存在がどういうものだったかである。後者はキリシタン信者の日本人夫妻に育てられた日本人修道士、混血児のジョアン・デ・トルレスを通して、キリシタンの布教活動の実態、教会の組織、武士をはじめ商人、一般庶民のキリシタンへの関わりなどが描かれていく。サブテーマには、ジョアンの内奥に秘めた父親探しが含まれている。
本書のタイトル「風渡る」は、南蛮船が風に乗りキリシタンの伴天連を日本にもたらし、キリシタンの教えという風が日本の国土を様々に吹き渡っていったということを象徴しているようだ。
本書は、先に読後印象を載せた『風の王国 官兵衛異聞』と連関していく。2冊を併せて読むと、両書が連接かつ照応し、この二つのテーマに一層深みと膨らみを与えて行くように感じる。
本書は天正14年(1586)、豊臣秀吉による九州攻めの折り、その陣中で官兵衛とジョアンが向かい合い、共に語りたいこと、聞いてもらいたいことがあるという場面から始まる。そして、それまでの経緯が語られていく。
官兵衛に視点をあてると、京の街角でのロレンソの伝道説教に付き添い、説教の合間にヴィオラを弾くジョアンに19歳の官兵衛が声をかけた時点から、関白秀吉の聚楽第に後陽成天皇が行幸した天正16年頃までの半生の生き様が描かれているといえる。
14歳で母を亡くした官兵衛は和歌好きで、主君の「貞永式目の抄本を求めてこい」という名目でのはからいにより京に上る。ジョアンと初めて会ったころは、播州、御着城主、小寺政職の小姓だった。永禄10年(1567)10月、22歳で小寺政職の姪、幸を正室に迎える。婚礼の夜、その幸に側室は置かぬと宣言する。15,6歳のころ僧侶になりたいと思ったが、乱世で家が滅びぬためには力を尽くす必要があるので、僧侶になるのは断念したといい、「近頃、別なものになろうか、と思っている」と応える。それは、ロレンソから教えられた「あもーる」であり「ひとをたいせつにするということだ。だから、わしはそなたを大切にする」と。
永禄12年(1569)には、中播磨の小寺氏の家老になっているが、いち早く織田と結んだ東播磨の別所氏との戦が始まる。官兵衛の軍略が始まるが、この播磨の戦が官兵衛に鉄砲の威力に気づかせ、織田信長の戦略思考に思いを及ぼすきっかけになる。堺で鉄砲の知識を深め、鉄砲を調達した官兵衛は堺に居たジョアンに会いに行く。そして商人小西佐に紹介されて、佐から南蛮への目を開かせられる。官兵衛の心に残ったことばは「でまるかしおん」だった。小西佐の商船に便乗し、播磨に戻ろうとする。このとき村上水軍に対する証の「船印」をつけたこの船が、塩飽の海賊に襲われる。官兵衛の策略で、商船は強奪の危機を免れ、官兵衛は塩飽の九郎右衛門を自らの水軍にしようと働きかける。
小寺氏を織田方に付かせることにし、官兵衛は秀吉に「申次」を求めた後、天正3年(1575)7月、信長に拝謁する。この時が秀吉との初めての出会いだ。天正5年(1577)10月、織田勢の播州入りにおいては、官兵衛自らの居城・姫路城を秀吉に提供するという奇策をとる。そして、官兵衛の策謀は別所氏の分裂、織田方からの離反に追い込んでいく。それを怜悧に見つめているのは秀吉の軍師、竹中半兵衛だった。
荒木村重が織田に反旗を翻して有岡城に籠もったとき、官兵衛は説得に行く。説得しきれると自信のあった官兵衛は逆に囚われの身となる。牢に幽閉されて1年、有岡城の落城の折に救出されるが、牢屋暮らしの影響で足が不自由になってしまう。この虜囚生活が官兵衛の生き方をさらに変える転機になったとみるのは難くない。信長は官兵衛が裏切ったと思い、人質となっていた官兵衛の子、松寿丸を殺すように命じていたのだから。だが、松寿丸の命を守ったのが半兵衛だった。信長は官兵衛を信じなかった。官兵衛のこの思いが信長を討つという策謀になっていく。
一方、半兵衛は己の命の尽きることを見越していたのか、官兵衛が村重の説得の使者として発つ前に、松寿丸の命を守ることと併せて、半兵衛が成し得ないことを官兵衛に成さしめる秘策を託すのだった。
秀吉の許に戻った官兵衛は、秀吉の軍師としての働きを始める。四国攻め、毛利譜代の清水宗治の籠もる高松城の水攻め、山崎の戦いと続いて行く。
回想から現在に戻る、天正14年10月の九州征伐の場、豊前、小倉城の一室での語り合いに・・・・官兵衛が京で洗礼を受けたのは天正12年、洗礼名はシメオン。ジョアンとの出会いから20年が経っていた。官兵衛は如水(Josui)と号するようになる。
語尾が一字違うポルトガル後でJosueは、ジョスエ、すなわちヨシュアのことである。預言者モーゼの没後の指導者がヨシュアだ。
ジョアンの視点に立ってみる。ポルトガル語の堪能な日本人修道士として、ジョアンは伴天連と日本人の大名やさまざまな人々との間の通訳、仲介者の立場で働き、キリシタンの伝道、布教に努めようとする。
当時はイエズス会が日本で布教活動を続けていた。日本に在住し布教活動をする神父にもいろいろな考え方があったようだ。日本人を優秀な人々だとみて日本に適応する形で布教伝道して行こうとした神父。一方で、日本人を劣等な人々、邪教を信ずる民だとみてキリストの教えで教化していこうと考えた神父など。そんな様々な神父に仕えながら、布教の一端をジョアンは担うことになる。
本書には様々な神父が登場してくる。ザビエルの後の布教活動を継承したコスメ・ド・トルレス、日本人の優秀さを認めながら布教する方針をとったオルガンティーノ、日本人を劣等視しながら権力的に布教を進める方針をとるカブラル。カブラルがオルガンティーノと交替し、日本布教長になる。『日本史』を残したルイス・フロイス、元商人のアルメイダ、そして巡察使ヴァリニャーノ。ヴァリニャーノの命令により、カブラルの代わりに日本準管区長の地位に就くガスパル・コエリョ。コエリョは、秀吉と会ったとき、「渡海のためにポルトガルの大型船二隻を世話しよう」と持ちかけ、秀吉に明への進出を勧めた噂のある人物として描かれている。
ジョアンは官兵衛をキリシタンである堺の商人に紹介するとか、武将が伴天連である神父に会う際の通訳、仲介やキリシタンへの洗礼に関わる役回りとなる。信長は勿論のことキリシタン大名になった多くの武将が、キリシタンの神父を仲介として、西欧の文物・情報の入手、海外貿易に主として関心を抱いていたという実利的側面が具体的に活写されている。カブラル神父の通訳としてのジョアンの立場は、日本におけるイエズス会の布教活動には、宗教を軸に政治、貿易などの諸側面が絡み合いながら進行していたという実態を眺めさせることになる。ジョアン自身は、常に信仰中心に考えているのだが・・・・
信長の上洛、安土城全盛の時期、本能寺の変、山崎の戦い、秀吉の四国攻め、九州攻めという時代の変遷の中での布教活動の実態が本書でよく感じ取れる。
最後に、ジョアンの内奥に秘められた父探しという思いが徐々に実現していく点に心惹かれていくところがある。
官兵衛とジョアンが、この戦国の世で深く関わり合っていく接点を描き出したといえる。官兵衛はジョアンに会い、その後、戦の修羅場を小藩の家老、軍師として歩みながら、様々なキリシタン大名の状況も眺めている。幾度もジョアンとの接触機会がありながら、官兵衛が洗礼を受けるのはその出会いから20年後だった。そこに官兵衛の生き様の変転の一つの証があるように感じた。
本書の末尾には、官兵衛がガラシャと出会う場面がある。その中で、ガラシャの小侍従いとに著者は囁かせる。「シメオン様、そのお知恵をキリシタンのためにお役立てくださいませ」
『風の王国 官兵衛異聞』と連接していく囁きである。
本書で著者は幾つかの仮説を設定していると思った。ここに著者の想像力の飛翔と構想の源があるのではないか。官兵衛の策謀内容への仮説は当然として、以下も仮説も組み込まれた仮説ではないだろうか。
*秀吉が軍師として、半兵衛を三顧の礼で迎えたかの如く伝えられたが、事実は半兵衛の方から近づいたのである。 p173
*ヴァリニャーノが海外へ進出を図るに違いない信長に対抗するために考え抜いた秘策が、少年使節の派遣だった。 p205
*光秀がキリシタンに心を寄せていたとは、思いも寄らなかった。 p269
*「官兵衛とはどのような男だ」「さて、古沼のように知恵深くもあり、雲のようにふわふわと浮かんでおるだけのようでもある男ですな」 p215
最後に、印象深い文を記録しておきたい。
*わしが、わしであることは変えられぬ p169
*生あるものは皆、生きなければならないのだ p169
*何かを信じるということは、何かを裏切らねばならない、ということなのだろうか。 p256
ご一読、ありがとうございます。
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本書を読んで関心を持った語句を併行してネット検索してみた。
キリシタン大名 :ウィキペディア
キリシタン大名・山右近研究室
荒木村重 :ウィキペディア
大友宗麟 :インターネット戦国歴史事典
内藤如安 :ウィキペディア
小西 行長 :ウィキペディア
村上水軍 :ウィキペディア
村上水軍博物館
九鬼嘉隆 ← 鳥羽水軍 九鬼嘉隆と九鬼守隆 :「日本歴史 武将・人物伝」
鉄甲船 :ウィキペディア
安宅船 :ウィキペディア
安宅船 の画像検索結果
ガスパール・コエリョ :ウィキペディア
天正遣欧少年使節 :ウィキペディア
聚楽第 :ウィキペディア
マカオ :ウィキペディア
関連語句としては、昨年12月に、『風の王国 官兵衛異聞』の印象記に付した
ネット検索項目も併せてご参照ください。
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本書のタイトル「風渡る」は、南蛮船が風に乗りキリシタンの伴天連を日本にもたらし、キリシタンの教えという風が日本の国土を様々に吹き渡っていったということを象徴しているようだ。
本書は、先に読後印象を載せた『風の王国 官兵衛異聞』と連関していく。2冊を併せて読むと、両書が連接かつ照応し、この二つのテーマに一層深みと膨らみを与えて行くように感じる。
本書は天正14年(1586)、豊臣秀吉による九州攻めの折り、その陣中で官兵衛とジョアンが向かい合い、共に語りたいこと、聞いてもらいたいことがあるという場面から始まる。そして、それまでの経緯が語られていく。
官兵衛に視点をあてると、京の街角でのロレンソの伝道説教に付き添い、説教の合間にヴィオラを弾くジョアンに19歳の官兵衛が声をかけた時点から、関白秀吉の聚楽第に後陽成天皇が行幸した天正16年頃までの半生の生き様が描かれているといえる。
14歳で母を亡くした官兵衛は和歌好きで、主君の「貞永式目の抄本を求めてこい」という名目でのはからいにより京に上る。ジョアンと初めて会ったころは、播州、御着城主、小寺政職の小姓だった。永禄10年(1567)10月、22歳で小寺政職の姪、幸を正室に迎える。婚礼の夜、その幸に側室は置かぬと宣言する。15,6歳のころ僧侶になりたいと思ったが、乱世で家が滅びぬためには力を尽くす必要があるので、僧侶になるのは断念したといい、「近頃、別なものになろうか、と思っている」と応える。それは、ロレンソから教えられた「あもーる」であり「ひとをたいせつにするということだ。だから、わしはそなたを大切にする」と。
永禄12年(1569)には、中播磨の小寺氏の家老になっているが、いち早く織田と結んだ東播磨の別所氏との戦が始まる。官兵衛の軍略が始まるが、この播磨の戦が官兵衛に鉄砲の威力に気づかせ、織田信長の戦略思考に思いを及ぼすきっかけになる。堺で鉄砲の知識を深め、鉄砲を調達した官兵衛は堺に居たジョアンに会いに行く。そして商人小西佐に紹介されて、佐から南蛮への目を開かせられる。官兵衛の心に残ったことばは「でまるかしおん」だった。小西佐の商船に便乗し、播磨に戻ろうとする。このとき村上水軍に対する証の「船印」をつけたこの船が、塩飽の海賊に襲われる。官兵衛の策略で、商船は強奪の危機を免れ、官兵衛は塩飽の九郎右衛門を自らの水軍にしようと働きかける。
小寺氏を織田方に付かせることにし、官兵衛は秀吉に「申次」を求めた後、天正3年(1575)7月、信長に拝謁する。この時が秀吉との初めての出会いだ。天正5年(1577)10月、織田勢の播州入りにおいては、官兵衛自らの居城・姫路城を秀吉に提供するという奇策をとる。そして、官兵衛の策謀は別所氏の分裂、織田方からの離反に追い込んでいく。それを怜悧に見つめているのは秀吉の軍師、竹中半兵衛だった。
荒木村重が織田に反旗を翻して有岡城に籠もったとき、官兵衛は説得に行く。説得しきれると自信のあった官兵衛は逆に囚われの身となる。牢に幽閉されて1年、有岡城の落城の折に救出されるが、牢屋暮らしの影響で足が不自由になってしまう。この虜囚生活が官兵衛の生き方をさらに変える転機になったとみるのは難くない。信長は官兵衛が裏切ったと思い、人質となっていた官兵衛の子、松寿丸を殺すように命じていたのだから。だが、松寿丸の命を守ったのが半兵衛だった。信長は官兵衛を信じなかった。官兵衛のこの思いが信長を討つという策謀になっていく。
一方、半兵衛は己の命の尽きることを見越していたのか、官兵衛が村重の説得の使者として発つ前に、松寿丸の命を守ることと併せて、半兵衛が成し得ないことを官兵衛に成さしめる秘策を託すのだった。
秀吉の許に戻った官兵衛は、秀吉の軍師としての働きを始める。四国攻め、毛利譜代の清水宗治の籠もる高松城の水攻め、山崎の戦いと続いて行く。
回想から現在に戻る、天正14年10月の九州征伐の場、豊前、小倉城の一室での語り合いに・・・・官兵衛が京で洗礼を受けたのは天正12年、洗礼名はシメオン。ジョアンとの出会いから20年が経っていた。官兵衛は如水(Josui)と号するようになる。
語尾が一字違うポルトガル後でJosueは、ジョスエ、すなわちヨシュアのことである。預言者モーゼの没後の指導者がヨシュアだ。
ジョアンの視点に立ってみる。ポルトガル語の堪能な日本人修道士として、ジョアンは伴天連と日本人の大名やさまざまな人々との間の通訳、仲介者の立場で働き、キリシタンの伝道、布教に努めようとする。
当時はイエズス会が日本で布教活動を続けていた。日本に在住し布教活動をする神父にもいろいろな考え方があったようだ。日本人を優秀な人々だとみて日本に適応する形で布教伝道して行こうとした神父。一方で、日本人を劣等な人々、邪教を信ずる民だとみてキリストの教えで教化していこうと考えた神父など。そんな様々な神父に仕えながら、布教の一端をジョアンは担うことになる。
本書には様々な神父が登場してくる。ザビエルの後の布教活動を継承したコスメ・ド・トルレス、日本人の優秀さを認めながら布教する方針をとったオルガンティーノ、日本人を劣等視しながら権力的に布教を進める方針をとるカブラル。カブラルがオルガンティーノと交替し、日本布教長になる。『日本史』を残したルイス・フロイス、元商人のアルメイダ、そして巡察使ヴァリニャーノ。ヴァリニャーノの命令により、カブラルの代わりに日本準管区長の地位に就くガスパル・コエリョ。コエリョは、秀吉と会ったとき、「渡海のためにポルトガルの大型船二隻を世話しよう」と持ちかけ、秀吉に明への進出を勧めた噂のある人物として描かれている。
ジョアンは官兵衛をキリシタンである堺の商人に紹介するとか、武将が伴天連である神父に会う際の通訳、仲介やキリシタンへの洗礼に関わる役回りとなる。信長は勿論のことキリシタン大名になった多くの武将が、キリシタンの神父を仲介として、西欧の文物・情報の入手、海外貿易に主として関心を抱いていたという実利的側面が具体的に活写されている。カブラル神父の通訳としてのジョアンの立場は、日本におけるイエズス会の布教活動には、宗教を軸に政治、貿易などの諸側面が絡み合いながら進行していたという実態を眺めさせることになる。ジョアン自身は、常に信仰中心に考えているのだが・・・・
信長の上洛、安土城全盛の時期、本能寺の変、山崎の戦い、秀吉の四国攻め、九州攻めという時代の変遷の中での布教活動の実態が本書でよく感じ取れる。
最後に、ジョアンの内奥に秘められた父探しという思いが徐々に実現していく点に心惹かれていくところがある。
官兵衛とジョアンが、この戦国の世で深く関わり合っていく接点を描き出したといえる。官兵衛はジョアンに会い、その後、戦の修羅場を小藩の家老、軍師として歩みながら、様々なキリシタン大名の状況も眺めている。幾度もジョアンとの接触機会がありながら、官兵衛が洗礼を受けるのはその出会いから20年後だった。そこに官兵衛の生き様の変転の一つの証があるように感じた。
本書の末尾には、官兵衛がガラシャと出会う場面がある。その中で、ガラシャの小侍従いとに著者は囁かせる。「シメオン様、そのお知恵をキリシタンのためにお役立てくださいませ」
『風の王国 官兵衛異聞』と連接していく囁きである。
本書で著者は幾つかの仮説を設定していると思った。ここに著者の想像力の飛翔と構想の源があるのではないか。官兵衛の策謀内容への仮説は当然として、以下も仮説も組み込まれた仮説ではないだろうか。
*秀吉が軍師として、半兵衛を三顧の礼で迎えたかの如く伝えられたが、事実は半兵衛の方から近づいたのである。 p173
*ヴァリニャーノが海外へ進出を図るに違いない信長に対抗するために考え抜いた秘策が、少年使節の派遣だった。 p205
*光秀がキリシタンに心を寄せていたとは、思いも寄らなかった。 p269
*「官兵衛とはどのような男だ」「さて、古沼のように知恵深くもあり、雲のようにふわふわと浮かんでおるだけのようでもある男ですな」 p215
最後に、印象深い文を記録しておきたい。
*わしが、わしであることは変えられぬ p169
*生あるものは皆、生きなければならないのだ p169
*何かを信じるということは、何かを裏切らねばならない、ということなのだろうか。 p256
ご一読、ありがとうございます。
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本書を読んで関心を持った語句を併行してネット検索してみた。
キリシタン大名 :ウィキペディア
キリシタン大名・山右近研究室
荒木村重 :ウィキペディア
大友宗麟 :インターネット戦国歴史事典
内藤如安 :ウィキペディア
小西 行長 :ウィキペディア
村上水軍 :ウィキペディア
村上水軍博物館
九鬼嘉隆 ← 鳥羽水軍 九鬼嘉隆と九鬼守隆 :「日本歴史 武将・人物伝」
鉄甲船 :ウィキペディア
安宅船 :ウィキペディア
安宅船 の画像検索結果
ガスパール・コエリョ :ウィキペディア
天正遣欧少年使節 :ウィキペディア
聚楽第 :ウィキペディア
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