世に名庭・名園を説明する京都観光案内書は沢山ある。しかし、通り一遍の説明というものが大半だ。本書は単なる名庭案内書ではない。京都の名庭を眺めて、一つの見識で解説し、作庭について幾つかの仮説も提示している。観光案内書として本書を携えて行き庭に佇めば、一般のガイドブックとはひと味違った庭の鑑賞ができそうだ。
(各寺についてそれぞれ1ページで観光に便利なデータが集約されている。)
プロローグで筆者は、晩年に近づくにつれ徐々に庭園に惹かれはじめるのは、「老いや死といったものに対峙してはじめて庭の魅力がよりわかるようになるといえないだろうか」という。そこに、時として庭園を訪れたくなる理由があるとする。
筆者は庭園を、死後の世界=あの世を表現するという行為を施したものという見解を本書で論じている。死=他界の概念を庭に形式化・様式化したとする。この視点に立って、京都の名庭に対峙し、庭の本質を探っている。この視点は、枯山水、池泉廻遊式、あるいは浄土式、寝殿造系、書院造系のいずれの形式にも通底する本質だという。
学生時代から寺社仏閣の庭が好きでしばしば訪れてきた。読み始めてみて、楽しい一冊だった。本書を読み、新たな目で再訪し、庭を鑑賞できそうに思う。目から鱗というところもいくつかあった。
著者がどこの庭をどのように取りあげたか。それは章の構成に現れている。
章の構成をご紹介し、併せて主要点と読後印象を加えたい。
第1章 日本庭園の原形 :西芳寺・天龍寺
室町初期に夢窓国師が作庭した西芳寺の庭園は、最も古い時代の池泉回遊式庭園である。この庭に「あの世」(他界)を再現したのだという。「天国と地獄」の上下二段構成、即ち須弥山世界を穢土と浄土として構成したコンセプトなのだという。そしてこのコンセプトが、作庭のルーツとして、様々な庭園に引き継がれ展開されていくとする。天龍寺の庭園も夢窓国師の作庭である。
一方で、江戸時代にはいれば、作庭としての定石化、コンセプトの形骸化する側面を指摘している。
第2章 あの世を再現する :平等院・浄瑠璃寺
宇治川を「三途の川」に見立て、平安京から橋を西に渡ったところに極楽浄土を立体的に現出したのが平等院なのだ。鳳凰堂(阿弥陀堂)に安置された阿弥陀如来は東向きである。宇治川東岸の仏徳山山麓にある宇治神社が阿弥陀堂の軸線上に位置し、一対で計画された配置の可能性があるという。地元に居ながら、そんな視点で眺めたことがなかった。
浄瑠璃寺の方は平等院と対極的に、民衆の信仰、寄進により作られた浄土式庭園とのこと。九体の阿弥陀仏と庭を見たくて訪れたことがあるが、民衆が支えてきた寺だったとは知らなかった。
第3章 勝者と敗者のモニュメント :鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)
足利義満が京都室町に花の御所を持ちながら北山殿を造営したのはなぜか。古代中国において皇帝の住居は真北に配されていた。それが伝わり、真北を聖地と位置づける風習が日本に定着。義満もそれに倣って北山を自分にふさわしい地と考えたのだろうと筆者は推測する。自分にとっての極楽浄土を具現化したかったのだろう。それにしても贅をし尽くしたのには驚く。
筆者は義満との対比で、義政の造営した銀閣寺庭園を解説している。こちらの説明に力点が置かれている。浄土寺の墓地だったところを無断で敷地にしたという。それは義政が最も愛していた西芳寺庭園の作庭の由来に通じる点があるという。義政が理想の庭作りのための樹木・石等の調達に無茶苦茶なことをしていたということを初めて知った。
銀閣寺が廃墟と化していたのを、1615年、宮城丹波守豊盛が再建に着手し、慈照寺が復活したそうだ。庭園内外部にみられる人工的造形はどうもそれ以降のものと理解した。
第4章 一期一会の空間 :妙喜庵待庵・三千家の露地
秀吉に対峙して「侘び」を具現化した極小規模の草庵茶室。露地と延段の果たす機能、躙口に託された意味などがわかって興味深い。利休は名物を排し、秀吉の物欲を戒めようとしたという。利休の茶室創造の略史がわかっておもしろい。
茶道に縁のない私は、本書を読み、三千家それぞれの邸内の庭には数多くの茶室が配されているということを初めて知った。宗家なればこそか。
第5章 普請狂・豊臣秀吉の死期と庭 :醍醐三宝院・西本願寺
醍醐の花見のために秀吉がその準備にかなり力を入れたことは知っていたが、その前に醍醐の庭造りに専念していたことは知らなかった。本書で教えられた。そして秀吉が技術者集団「ワタリ」と関係していたという小和田説を本書で知った。おもしろい。
醍醐三宝院の作庭は秀吉亡き後、住職・義演が継承して現在の姿に整えたようだ。そこには、日本で初めてルネサンス・バロック形式の整形式庭園のテクニック及び、書院に教会に顕著にみられるパースペクティブ手法が採り入れられていたということも初見である。そういう観点での説明文を三宝院の拝観の折りに見た記憶がないので、興味深く読んだ。「ソテツ」が一つのキーワードになるなんて、思いもしなかった。
西本願寺の秀吉ゆかりの遺構と飛雲閣の移転についての考察が興味深い。
第6章 秀吉神格化の阻止と徳川家康 :東本願寺渉成園(枳穀邸)・豊国神社・智積院
秀吉が本願寺(西本願寺)を保護し、家康が東本願寺を支援したのは知っていたが、智積院も家康が建立したというのは知らなかった。現在の渉成園(枳穀邸)は三代将軍家光が東本願寺十三代宣如に与えたという。そして、西本願寺と阿弥陀ヶ峰を結ぶ軸線に秘められた家康の策謀という読み解きは、歴史解釈としてはワクワクする。さもありなんというところ。
秀吉を祀る豊国神社の祀官であった吉田梵舜なる人物が、秀吉の死後、家康の側近となったというのは、そんな時代だったのかと思う反面、俗っぽさを感じてしまう。
第7章 王権としての庭 :神泉苑・二条城
現在の神泉苑を見ても結構大きいなと思うが、二条城の二の丸庭園も元は神泉苑の一部だったと本書で知り驚いた。御池通りの「御池」が神泉苑を意味するとはついぞ結びつけて考えたことがなかった!
二条城には西欧手法が様々に採り入れられているという。平安京の街路とは約3度のずれがあるという。これは北極星ではなく、磁石(方位磁針)を用いて決定したからではないかといわれているそうだ。西欧手法の採り入れについての説明はおもしろい。
第8章 日本庭園の否定 :仙洞御所
この章で筆者は、小堀遠州が宣教師から庭園や建築についての西欧技術を学んだ「宮廷付工人」に該当するという仮説を展開し、ここでは仙洞御所の事例を述べている。これは目から鱗の仮説だ。この後の章で、さらに具体的な作庭事例が傍証されていく。なかなかおもしろい展開となる。
第9章 石庭のエキスパート :大徳寺・南禅寺
大徳寺・孤蓬庵とその庭には西欧技術がいろいろ応用されているようだ。配置に黄金分割を利用、アイストップ(目印)、サイフォンの原理の利用、パースペクティブの利用など。「ちなみに、このサイフォンの原理は、遠州の名刺がわりになっていたといってよく、彼は、行く先々でこの西欧手法を応用している」と筆者は書く。
大徳寺本坊方丈庭園の配石すべてが黄金分割の応用だとか。南禅寺方丈前庭も然り。筆者は金地院の庭園にはシンメトリー(左右対称)の応用、人工的刈り込みの利用を説く。
機会を見つけて、現地でじっくり眺めて見たい。
第10章 庭園史最大の謎を推理する :龍安寺・高台寺傘亭、時雨亭
筆者は、龍安寺の石庭の造形意図に対して、西欧手法の活用を指摘し、作庭・設計者に小堀遠州の可能性を追究している。興味の深まる章である。枯山水庭園、日本文化の真髄と思う中に西欧手法を読み解くとは・・・・
高台寺の傘亭、時雨亭についても、筆者は遠州作の可能性を考証してみせる。
第11章 作者と創建年代の謎 :桂離宮・曼殊院
桂離宮は、創建者智仁親王の「挫折の果てに、逃避の末に」造営したものだという解説が詳しくなされている。ここにも徳川家康の深慮遠謀のなせるわざがあるといえそうだ。お読みいただくとその経緯がよくわかる。納得させる記述だ。
筆者は庭園史家森蘊氏の桂離宮遠州作否定説を取りあげ、ここに遠州の関与の可能性を考察している。なかなか面白い論点である。
曼殊院の庭園には遠州関与の伝説があるようだが、筆者はこちらは遠州の関与を否定している。その一方で、西欧手法が随所にみられる点を考察してみせる。
第12章 反骨の天皇の内なる声 :修学院離宮・円通寺・詩仙堂
修学院離宮は、後水尾院自らの設計になるものという。その庭園の構成と後水尾院の絶望感、「忍」の心が詳しく語られている。また、円通寺は後水尾院の別荘・幡枝御殿を寺院にしたものだとか。筆者は円通寺庭園は修学院離宮のプロトタイプの一つだと考察している。
最後に詩仙堂が取りあげられている。石川丈山の隠棲地。この人物、後水尾院や公家を監視する徳川家のスパイ説があるそうな。どこかで昔聞いた記憶があるが、筆者がその説明を加えている。詩仙堂は嘨月楼という望楼を設けた楼閣建築だが、ここには忍び返しが取り付けられているとか。詩仙堂に行ったことがあるが、そのことは知らなかった。再訪するときの楽しみができた。現地で確かめられるのかどうか知らないけれど。(公式ホームページには、記載がない。)
(付記: 嘨は、部首が口、その右に肅と書く字です。 ショウ月楼)
エピローグ
筆者は京都の鬼門軸とそれに関連する建物群の説明を展開する。修学院離宮も桂離宮もともにこの鬼門軸に位置することになる。そしてこの鬼門軸を小堀遠州が十分に意識していたと説く。これは興味深い解説だ。
京の名庭を「あの世」「他界」の視点で見る著者の記述も、本書後半になると、庭園への西欧手法の活用と小堀遠州の作庭の可能性の考察に比重が移っていき、「他界」の視点についての説明が希薄になっているように感じる。
時代が下がるとともに、作庭の本質が形骸化して行ったという指摘が最初にあったが、その形骸化の具体的説明は後半であまりなされていない。キリシタン文化・宣教師との接触によって、日本庭園の作庭のコンセプトが変容していったということにもなるのだろうか。コンセプトの変容はないとみるべきなのか。この点、筆者の明確な説明はないように思う。だが、日本の庭園を考える上で興味深いところだと感じる。
それにしても、小堀遠州、また石川丈山という人物に興味が湧いてきた。
ご一読、ありがとうございます。
取りあげられた寺院の庭の多くは訪れたことがあるので、本書を読み進める際、部分的にでも思い出すことが多かった。本書にはイラストの復元図や写真が掲載されている。しかし、参考に後付けでネット情報を検索して通覧してみた。
それをリストにまとめる。
日本庭園 :ウィクペデイア
夢窓疎石 :ウィキペディア
小堀遠州 ← 小堀政一 :ウィキペディア
小堀遠州の画像
西芳寺の画像
天龍寺の画像
平等院 :ウィキペデイア
浄瑠璃寺の画像
鹿苑寺(金閣寺):ウィキペデイア
慈照寺(銀閣寺):ウィキペディア
銀閣寺の画像
妙喜庵待庵の画像
表千家不審庵の画像
裏千家今日庵の画像
武者小路千家官休庵 :財団法人官休庵
醍醐三宝院庭園の画像
西本願寺・飛雲閣の画像
東本願寺・渉成園の画像
智積院の庭
神泉苑の画像
二条城二の丸庭園の画像
仙洞御所の画像
大徳寺孤蓬庵の画像
大徳寺の画像
金地院庭園、南禅寺方丈庭園 :morino296さんの旅行ブログ
竜安寺の画像
高台寺の画像
桂離宮の画像
曼殊院の画像
修学院離宮の画像
円通寺 :名所旧跡めぐり 賀茂・岩倉を歩く
詩仙堂 ホームページ
詩仙堂の画像
京都御所の鬼門 :「自遊日記」ブログ
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
(各寺についてそれぞれ1ページで観光に便利なデータが集約されている。)
プロローグで筆者は、晩年に近づくにつれ徐々に庭園に惹かれはじめるのは、「老いや死といったものに対峙してはじめて庭の魅力がよりわかるようになるといえないだろうか」という。そこに、時として庭園を訪れたくなる理由があるとする。
筆者は庭園を、死後の世界=あの世を表現するという行為を施したものという見解を本書で論じている。死=他界の概念を庭に形式化・様式化したとする。この視点に立って、京都の名庭に対峙し、庭の本質を探っている。この視点は、枯山水、池泉廻遊式、あるいは浄土式、寝殿造系、書院造系のいずれの形式にも通底する本質だという。
学生時代から寺社仏閣の庭が好きでしばしば訪れてきた。読み始めてみて、楽しい一冊だった。本書を読み、新たな目で再訪し、庭を鑑賞できそうに思う。目から鱗というところもいくつかあった。
著者がどこの庭をどのように取りあげたか。それは章の構成に現れている。
章の構成をご紹介し、併せて主要点と読後印象を加えたい。
第1章 日本庭園の原形 :西芳寺・天龍寺
室町初期に夢窓国師が作庭した西芳寺の庭園は、最も古い時代の池泉回遊式庭園である。この庭に「あの世」(他界)を再現したのだという。「天国と地獄」の上下二段構成、即ち須弥山世界を穢土と浄土として構成したコンセプトなのだという。そしてこのコンセプトが、作庭のルーツとして、様々な庭園に引き継がれ展開されていくとする。天龍寺の庭園も夢窓国師の作庭である。
一方で、江戸時代にはいれば、作庭としての定石化、コンセプトの形骸化する側面を指摘している。
第2章 あの世を再現する :平等院・浄瑠璃寺
宇治川を「三途の川」に見立て、平安京から橋を西に渡ったところに極楽浄土を立体的に現出したのが平等院なのだ。鳳凰堂(阿弥陀堂)に安置された阿弥陀如来は東向きである。宇治川東岸の仏徳山山麓にある宇治神社が阿弥陀堂の軸線上に位置し、一対で計画された配置の可能性があるという。地元に居ながら、そんな視点で眺めたことがなかった。
浄瑠璃寺の方は平等院と対極的に、民衆の信仰、寄進により作られた浄土式庭園とのこと。九体の阿弥陀仏と庭を見たくて訪れたことがあるが、民衆が支えてきた寺だったとは知らなかった。
第3章 勝者と敗者のモニュメント :鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)
足利義満が京都室町に花の御所を持ちながら北山殿を造営したのはなぜか。古代中国において皇帝の住居は真北に配されていた。それが伝わり、真北を聖地と位置づける風習が日本に定着。義満もそれに倣って北山を自分にふさわしい地と考えたのだろうと筆者は推測する。自分にとっての極楽浄土を具現化したかったのだろう。それにしても贅をし尽くしたのには驚く。
筆者は義満との対比で、義政の造営した銀閣寺庭園を解説している。こちらの説明に力点が置かれている。浄土寺の墓地だったところを無断で敷地にしたという。それは義政が最も愛していた西芳寺庭園の作庭の由来に通じる点があるという。義政が理想の庭作りのための樹木・石等の調達に無茶苦茶なことをしていたということを初めて知った。
銀閣寺が廃墟と化していたのを、1615年、宮城丹波守豊盛が再建に着手し、慈照寺が復活したそうだ。庭園内外部にみられる人工的造形はどうもそれ以降のものと理解した。
第4章 一期一会の空間 :妙喜庵待庵・三千家の露地
秀吉に対峙して「侘び」を具現化した極小規模の草庵茶室。露地と延段の果たす機能、躙口に託された意味などがわかって興味深い。利休は名物を排し、秀吉の物欲を戒めようとしたという。利休の茶室創造の略史がわかっておもしろい。
茶道に縁のない私は、本書を読み、三千家それぞれの邸内の庭には数多くの茶室が配されているということを初めて知った。宗家なればこそか。
第5章 普請狂・豊臣秀吉の死期と庭 :醍醐三宝院・西本願寺
醍醐の花見のために秀吉がその準備にかなり力を入れたことは知っていたが、その前に醍醐の庭造りに専念していたことは知らなかった。本書で教えられた。そして秀吉が技術者集団「ワタリ」と関係していたという小和田説を本書で知った。おもしろい。
醍醐三宝院の作庭は秀吉亡き後、住職・義演が継承して現在の姿に整えたようだ。そこには、日本で初めてルネサンス・バロック形式の整形式庭園のテクニック及び、書院に教会に顕著にみられるパースペクティブ手法が採り入れられていたということも初見である。そういう観点での説明文を三宝院の拝観の折りに見た記憶がないので、興味深く読んだ。「ソテツ」が一つのキーワードになるなんて、思いもしなかった。
西本願寺の秀吉ゆかりの遺構と飛雲閣の移転についての考察が興味深い。
第6章 秀吉神格化の阻止と徳川家康 :東本願寺渉成園(枳穀邸)・豊国神社・智積院
秀吉が本願寺(西本願寺)を保護し、家康が東本願寺を支援したのは知っていたが、智積院も家康が建立したというのは知らなかった。現在の渉成園(枳穀邸)は三代将軍家光が東本願寺十三代宣如に与えたという。そして、西本願寺と阿弥陀ヶ峰を結ぶ軸線に秘められた家康の策謀という読み解きは、歴史解釈としてはワクワクする。さもありなんというところ。
秀吉を祀る豊国神社の祀官であった吉田梵舜なる人物が、秀吉の死後、家康の側近となったというのは、そんな時代だったのかと思う反面、俗っぽさを感じてしまう。
第7章 王権としての庭 :神泉苑・二条城
現在の神泉苑を見ても結構大きいなと思うが、二条城の二の丸庭園も元は神泉苑の一部だったと本書で知り驚いた。御池通りの「御池」が神泉苑を意味するとはついぞ結びつけて考えたことがなかった!
二条城には西欧手法が様々に採り入れられているという。平安京の街路とは約3度のずれがあるという。これは北極星ではなく、磁石(方位磁針)を用いて決定したからではないかといわれているそうだ。西欧手法の採り入れについての説明はおもしろい。
第8章 日本庭園の否定 :仙洞御所
この章で筆者は、小堀遠州が宣教師から庭園や建築についての西欧技術を学んだ「宮廷付工人」に該当するという仮説を展開し、ここでは仙洞御所の事例を述べている。これは目から鱗の仮説だ。この後の章で、さらに具体的な作庭事例が傍証されていく。なかなかおもしろい展開となる。
第9章 石庭のエキスパート :大徳寺・南禅寺
大徳寺・孤蓬庵とその庭には西欧技術がいろいろ応用されているようだ。配置に黄金分割を利用、アイストップ(目印)、サイフォンの原理の利用、パースペクティブの利用など。「ちなみに、このサイフォンの原理は、遠州の名刺がわりになっていたといってよく、彼は、行く先々でこの西欧手法を応用している」と筆者は書く。
大徳寺本坊方丈庭園の配石すべてが黄金分割の応用だとか。南禅寺方丈前庭も然り。筆者は金地院の庭園にはシンメトリー(左右対称)の応用、人工的刈り込みの利用を説く。
機会を見つけて、現地でじっくり眺めて見たい。
第10章 庭園史最大の謎を推理する :龍安寺・高台寺傘亭、時雨亭
筆者は、龍安寺の石庭の造形意図に対して、西欧手法の活用を指摘し、作庭・設計者に小堀遠州の可能性を追究している。興味の深まる章である。枯山水庭園、日本文化の真髄と思う中に西欧手法を読み解くとは・・・・
高台寺の傘亭、時雨亭についても、筆者は遠州作の可能性を考証してみせる。
第11章 作者と創建年代の謎 :桂離宮・曼殊院
桂離宮は、創建者智仁親王の「挫折の果てに、逃避の末に」造営したものだという解説が詳しくなされている。ここにも徳川家康の深慮遠謀のなせるわざがあるといえそうだ。お読みいただくとその経緯がよくわかる。納得させる記述だ。
筆者は庭園史家森蘊氏の桂離宮遠州作否定説を取りあげ、ここに遠州の関与の可能性を考察している。なかなか面白い論点である。
曼殊院の庭園には遠州関与の伝説があるようだが、筆者はこちらは遠州の関与を否定している。その一方で、西欧手法が随所にみられる点を考察してみせる。
第12章 反骨の天皇の内なる声 :修学院離宮・円通寺・詩仙堂
修学院離宮は、後水尾院自らの設計になるものという。その庭園の構成と後水尾院の絶望感、「忍」の心が詳しく語られている。また、円通寺は後水尾院の別荘・幡枝御殿を寺院にしたものだとか。筆者は円通寺庭園は修学院離宮のプロトタイプの一つだと考察している。
最後に詩仙堂が取りあげられている。石川丈山の隠棲地。この人物、後水尾院や公家を監視する徳川家のスパイ説があるそうな。どこかで昔聞いた記憶があるが、筆者がその説明を加えている。詩仙堂は嘨月楼という望楼を設けた楼閣建築だが、ここには忍び返しが取り付けられているとか。詩仙堂に行ったことがあるが、そのことは知らなかった。再訪するときの楽しみができた。現地で確かめられるのかどうか知らないけれど。(公式ホームページには、記載がない。)
(付記: 嘨は、部首が口、その右に肅と書く字です。 ショウ月楼)
エピローグ
筆者は京都の鬼門軸とそれに関連する建物群の説明を展開する。修学院離宮も桂離宮もともにこの鬼門軸に位置することになる。そしてこの鬼門軸を小堀遠州が十分に意識していたと説く。これは興味深い解説だ。
京の名庭を「あの世」「他界」の視点で見る著者の記述も、本書後半になると、庭園への西欧手法の活用と小堀遠州の作庭の可能性の考察に比重が移っていき、「他界」の視点についての説明が希薄になっているように感じる。
時代が下がるとともに、作庭の本質が形骸化して行ったという指摘が最初にあったが、その形骸化の具体的説明は後半であまりなされていない。キリシタン文化・宣教師との接触によって、日本庭園の作庭のコンセプトが変容していったということにもなるのだろうか。コンセプトの変容はないとみるべきなのか。この点、筆者の明確な説明はないように思う。だが、日本の庭園を考える上で興味深いところだと感じる。
それにしても、小堀遠州、また石川丈山という人物に興味が湧いてきた。
ご一読、ありがとうございます。
取りあげられた寺院の庭の多くは訪れたことがあるので、本書を読み進める際、部分的にでも思い出すことが多かった。本書にはイラストの復元図や写真が掲載されている。しかし、参考に後付けでネット情報を検索して通覧してみた。
それをリストにまとめる。
日本庭園 :ウィクペデイア
夢窓疎石 :ウィキペディア
小堀遠州 ← 小堀政一 :ウィキペディア
小堀遠州の画像
西芳寺の画像
天龍寺の画像
平等院 :ウィキペデイア
浄瑠璃寺の画像
鹿苑寺(金閣寺):ウィキペデイア
慈照寺(銀閣寺):ウィキペディア
銀閣寺の画像
妙喜庵待庵の画像
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裏千家今日庵の画像
武者小路千家官休庵 :財団法人官休庵
醍醐三宝院庭園の画像
西本願寺・飛雲閣の画像
東本願寺・渉成園の画像
智積院の庭
神泉苑の画像
二条城二の丸庭園の画像
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大徳寺孤蓬庵の画像
大徳寺の画像
金地院庭園、南禅寺方丈庭園 :morino296さんの旅行ブログ
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高台寺の画像
桂離宮の画像
曼殊院の画像
修学院離宮の画像
円通寺 :名所旧跡めぐり 賀茂・岩倉を歩く
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京都御所の鬼門 :「自遊日記」ブログ
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