遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『万葉のうた』 大原富枝 文 ・ 岩崎ちひろ 画   童心社

2020-05-07 20:43:51 | レビュー
 この本もまた10年余前に買い、身近に置きながら部分読みし挿絵を眺める形で時が過ぎてしまっていた。このステイホームをきっかけにして初めて通読した。これからも、時折繙く一冊になりそうである。
 初版は1970年6月で、手許の本は2007年9月58刷となっている。ロングセラーの一冊になっているようだ。『万葉集』がロングセラーであるかぎり、本書もそうなって不思議ではないだろう。
 『万葉集』で秀歌と認められているものから、さらに著者大原富枝さんが選び取った歌をまとめた本である。今ネット検索で本書を調べると、「若い人の絵本」というキャッチフレーズがつけられている。決して若い人に限る必要はないと本である。だけど、『万葉集』自体は敷居が高いと感じる人、特に若い人には万葉集に入りやすい本だと言える。要所要所に、歌と本文とに響き合う岩崎ちひろさんのモノクロ・トーンの挿絵が入っているので、絵からも歌のイメージを広げることができ両者のコラボレーションになっているからである。

 手許にある『新訂 新訓 万葉集』上・下巻(佐佐木信綱編・岩波文庫)を見ると、万葉集に収録された歌には通し番号が振られている。最後が4516番、大伴家持の歌で終わる。つまり4516首収録されていることになる。本書には、数えてみると151首が収録され、実質80ページ余にまとめられている。この数の比から考えても、万葉集の世界に絵本的感覚で誘うという局面も含めて、一歩踏み込んでみるのに手頃な本といえる。
 本書は、「あかねさす紫野行き」という見出しから、「防人にゆくは誰が背と」まで、12の章で構成されている。この見出しは、世に親炙した万葉集中の秀歌の一部に由来する。「あかねさす紫野行き」は勿論、額田王のあの有名な歌だ。
  あかねさす紫野行き標野行き野守はみずや君が袖ふる  20
これが出れば、相聞歌として、
  紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも 21
が載る。本書も勿論、対としてこの歌が載せられて、本文が始まる。
 この二首が載る右側のページには、章の見出しと額田王のちょっと振り向く姿の挿絵がある。

 岩波文庫本では、第20首に「天皇、蒲生野に遊猟しましし時、額田王の作れる歌」と詞書が付く。第21首には「皇太子の答へませる御歌 明日香宮御宇天皇」と詞書が付く。そして、歌の後に、「紀に曰く、天皇七年丁卯夏五月五日、蒲生野に従猟したまひき。時に大皇弟、諸王、内臣、及び群臣、悉皆に従ひきといへり」という一文が記述されている。万葉集の本文をまとめてある岩波文庫はこれだけである。
 解説書がなければ、一般読者にはこの対の歌の関係性が十分にはわからない。勿論、歌意は二首を読めばある程度はわかるのだが・・・・・。私も一般読者にすぎない。

 そこで、本書に戻ると、第21首には、「天武天皇」と作歌名が併記されている。そして、「天智天皇は皇太弟大海人皇子(後の天武天皇)をはじめ群臣を従えて晩春の蒲生野に薬猟(くすりがり)をした。そのとき天皇の妃の一人である額田王が歌われた歌と、それに応えた皇子の歌である」という書き出し文から始まる。大原さんは、その後、大海人皇子と額田王の間に十市皇女が生まれていたこと。兄の中大皇子(後の天智天皇)が額田王を妃の一人にしたことに触れた後で、この二首を説明している。
 「・・・・・古代は袖をふるのを恋愛の意思表示と見た。
  まあ、そんなに袖をお振りになって、人目につきますわ、およしになってくださいまし。と歌いかける額田に、皇子は、
  紫草のように美しくはでやかな愛しい人よ。あなたがいくら人妻であるからといって、どうして私が愛さずにいられようか。」(p9)と。
 この後、この章には額田王の歌を三首、その姉の鏡王女の歌を一首、取り上げている。鏡王女についての記述も歴史と当時の社会の有り様を考えると興味深い説明となっている。

 大原さんは「あとがき」に秀歌と認められたなかから、さらに本書に選んだ基準を記す。「特にその時代の特色をよく捉えているもの、生活の匂いのゆたかなもの、若々しく澄んだ歌、悲しく心にしみる歌など、現代の若い人々に親しみやすいものを撰んだ」と。
 さしずめ、上記の額田王、天武天皇、鏡王女の歌は、「時代の特色」をよく捉えているものと言える。
 もう一つ、「限りある枚数のなかに、できるだけたたくさんの秀歌を収録するため、専門的な字句の解釈ははぶいて、意訳することによって歌の生命を活かすように努力したつもりである。」と記す。このスタンスに関連するものとして、一例をご紹介する。
 手許に、『折口信夫全集 第四巻 口譯萬葉集(上)』(中公文庫)がある。折口信夫(釈迢空)は万葉集全首を口語訳している。まず額田王の第20首を引用する。
「紫草の花の咲いてゐる時節、天子の御料の野を通つて、我がなつかしい君が袖を振つて、私に思ふ心を示してゐられる。あの優美な御姿を、心なき野守も見てはどうだ。(括弧内の補記を略す)」
 そして第21首・後の天武天皇の歌については、
「ほれぼれとするやうな、いとしい人だ。そのお前が憎いくらゐなら、既に人妻であるのに、そのお前の為に、どうして私が、こんなに焦がれてゐるものか」
本書でのスタンスの違いがおわかりいただけるだろう。

 「わが背子を大和へやると」(大伯皇女・第105首)の章では、謀反の罪で処刑された弟・大津皇子を思う大伯皇女の哀切な思いを表出した歌が6首撰ばれている。そして、大津皇子の「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(416)が載っている。章の末尾に、岩崎さんの描く大津皇子の姿がこの章に呼応していて余韻が深まる。
 通読するとやはり、相聞歌や恋の歌が多く取り上げられている。また東歌や防人として徴兵される庶民の悲哀の歌なども取り上げられていて、万葉集の時代を知るのにも役立つ本になっている。
 山上憶良の秀歌も勿論ある。「憶良らは今は罷らむ子泣くらむその彼の母も吾を待つらむぞ」(337)と「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめやも」(803)の二首を載せた左のページには、岩崎さん独特のかわいい少女の顔が挿絵となっている。左右のページが響き合う。また、宴会の場を抜けて帰る憶良の前者の歌には、前半の5・7・5で、酒の座をしらけさせることいっておき、後半で「つまり女房が待っているからね、と酒席を賑わしておいて帰るのである。彼は才能ゆたかな歌人であった」と大原さんは説明している。この歌を知ってはいたが、「酒席を賑わしておいて」というところまで、踏み込んで読み取っていなかった。う~ん、ナルホド!である。著者はこの章で憶良の歌を更に8首とりあげていく。

 本書には、天智天皇・持統天皇・孝徳天皇・斉明天皇・磐姫皇后・光明皇后、皇子では志貴皇子・有馬皇子・穂積皇子、皇女では中皇女・但馬皇女・湯原王・厚見王、歌人では柿本人麿・大伴旅人・大伴家持・高市黒人・山部赤人・中臣宅守、狭野茅上娘子・石川女郎・大伴坂上女郎・笠女郎・安部女郎・紀女郎、さらに遊行女婦児島などが登場する。また、作者不詳の秀歌が数多く撰ばれている。

 最後に、作者名不詳の中から3首とそれに付された意訳をご紹介しておこう。
*恋ひ死なば恋ひも死ねとか吾妹子(わぎもこ)が吾家(わぎえ)の門(かど)を過ぎて行くらむ                               (2401)
 (恋しいひとが私の家の前を振り返りもしないで行く。恋しさのあまり死ぬなら死んでおしまいなさい、とでも思っているのであろうか。ああ。なんと情(つれ)ない人だろうか・・・・・)p38

*相見ては面隠(おもかく)さるるものからに継ぎて見まくの欲(ほ)しき君かも (2554)
 (お逢いするとつい羞ずかしくて顔をかくしてしまうのですけど、でもほんとうはいつまでもあなたのお顔を見ていたいのです。)p59

*多摩川に曝す手作りさらさらに何ぞこの児のここだ愛(かな)しき  (3373)
 (多摩川にさらす手作り布の新しくまた新しく、なんでまあこの児の愛(いと)しいことであろう。恋いの想いも東国ではすべて日々の労働につながっていた。それが新鮮な美しさとなり、特徴となるのである。)p83-84

 『万葉集』への誘いとしては、読みやすい、楽しめる一冊である。

ご一読ありがとうございます。


[付記]
 『万葉集』については、中村博さんが興味深いチャレンジをされています。
万葉集の歌を、「歴史という時間軸に沿いながら、ある時代、ある時期に歌われた数々の歌の関係、相関性の中で、それらの歌をまとまりとしてとらえて鑑賞するということはほとんどなかった。万葉集に編纂された諸々の歌を当時の時代の変遷という『時の流れ』の中で読むというのは、なかなか面白くて興味深い。そこには、著者独自に、歌の時間軸で意図的に編集が加えられている部分もある。それは『ものがたり』として語らせる一手法という試みのようだ。」と言う形で私は拙ブログで既にご紹介している。

 著者・中村博さんの作品について読後印象記を書いています。こちらもお読みいただけると、これもまた『万葉集』への誘いになると思います。
『万葉歌みじかものがたり 一』 中村博 JDC
『万葉歌みじかものがたり 二』 中村博 JDC
『万葉歌みじかものがたり 三』 中村博 JDC
『万葉歌みじかものがたり』第4巻・第5巻  中村博 JDC
『万葉歌みじかものがたり 六』 中村博 JDC 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿