遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『駆け入りの寺』  澤田瞳子  文藝春秋

2020-06-23 11:43:26 | レビュー
 「オール讀物」の2016年1月号~2019年12月号の期間中に年2作の掲載という形で発表された短編をまとめて2020年4月に単行本として出版されたものである。合計7作の短編は連作として、いわばオムニバス形式と言えるものになっている。

 京都・洛北にある修学院離宮に隣接した林丘寺がこの短編連作集の舞台になる。修学院離宮の存在は知っていたが、その傍にこの林丘寺が実在するということを、この小説を読み始めてから地図で確認して知った。現在は非公開寺であるが、ホームページが開設されていて、そこにはいずれ公開を予定している旨が記されている。

 「洛中から北東に一里。比叡の山裾に建つ林丘寺」(p7)である。本書のタイトルにもなっている最初の短編「駆け入りの寺」の記述その他を参照し、まずこの寺について要約してみよう。
 後水尾上皇の第八皇女・緋宮光子(あけのみやてるこ)内親王は上皇が没すると、出家し元瑤と号し、上皇が営んだ修学院山荘の一部を寺に改めたという。調べてみると、1680年(延宝8)の開山である。林丘寺の上ノ御客殿は元瑤の義母・東福門院和子の御化粧殿を移築した殿舎。修学院山荘の御茶屋・楽只軒や大書院が林丘寺の堂宇に転用された。楽只軒や御客殿より一段高い山際に本堂である御仏堂が建てられ、本堂近くに常は堅く閉ざされた南御門があり、もう一つ唐門の総門がある。
 室町時代に開かれた洛中にある大聖寺や宝鏡寺と同様に、比丘尼御所の一つで、門跡尼寺である。宝鏡寺は公開されていて人形の寺として有名なのはご存知かと思う。
 尚、林丘寺では「明治十七年(1884)には寺地の約半分を皇室に返還し、楽只軒と宮殿は修学院離宮の一部となった。」(ホームページより)と言う。

 この小説は、創建後36年が経った時点の林丘寺を舞台にしている。開基の元瑤尼は、9年前に姪に当たる元秀に住持職を譲り、普明院と号して気ままな隠棲暮らしをしている。元秀は当今・中御門天皇の叔母であるとともに、霊元上皇の第十皇女である。
 実在した尼僧をモデルにしている。門跡尼寺の日々の生活の中で発生する様々な事象から人々が心の奥に秘める苦悩を短編の連作で描き出す歴史時代小説である。

 この短編集には独立した個々の短編に一貫したテーマが設定されている。各短編の登場人物は林丘寺にて生活を共にする人々あるいは寺に関わりを持った者であり、その主人公は内心に苦悩の因を秘めている。そして、その苦しみから逃れようとする。そしてその先で、どのような選択をしていくか。そのプロセスを描き出す。林丘寺に仕える青侍の梶江静馬が各短編において、一種の黒子的役割を果たす。静馬の目を通した形で描き出されていく。

 この小説で興味深い点がいくつかある。
1. 比丘尼御所つまり門跡尼寺がどのような組織構成で運営されていたかがわかる。
 仏寺としての「奥」と運営を司る「表」で構成される。朝廷から御内(家来)が「表」に派遣されていた。「表」は御家司(総取締役)、御近習(寺内事務担当)、青侍(雑用担当)、侍法師で構成される。「奥」と「表」は原則切り離されていて、寺の奥に踏み入れるのは御家司一人のみ。ただ、この林丘寺では元瑤尼の性格故か、比較的緩やかで和やかな日常運用の姿が描かれる。

2. 比丘尼御所というように、御所での生活スタイルが尼寺に持ち込まれている。
  御所で行われている四季折々の行事がそのまま門跡尼寺でも実行されている。この描写も興味深い。

3. 御所ことばがそのまま尼寺で日常語として使われていたそうだ。独特の用語法だったことが、短編の中の会話からわかる。勿論括弧書きの翻訳付きであり、おもしろい。
  思わず、傾城町吉原で郭言葉が使われていたというのを連想してしまった。
  本書に登場する御所ことばの例をいくつかご紹介しよう。
  夕もじ(夕べ)、おおどろきさん(驚き)、お床について(寝ついて)、お側さん(側仕え)、おじょう払いをし(床を払い)、すべ(下が)らっしゃれ、およしよしに(円満に)、・・・・。

 それでは、各短編の内容を少し、ご紹介しておこう。
<駆け入りの寺>
 梶江静馬がなぜ林丘寺の青侍として仕えているか、彼の生い立ちを底流に描きながら、表層では、元秀が異母妹・八十宮吉子の件で元瑤に怒りを露わにした件や、修学院村の百姓の娘・里が助けを求めて駆け入ってきた件に対する元瑤の対応が描かれる。里の話を聴いた元瑤は里の本心をつかみとる。
 この短編の末尾近くで、静馬の思いが語られる。それがこの連作に通底するテーマにもなる。
「生きて行く限り、人は様々の苦しみに遭う。何かを捨てて、新たな人生を行き直したいと思う折もあるだろう。だが目の前にある現実を捨てたところで、過去は必ずやその身に付きまとってくる。ならば今いる場所から逃げるのではなく、それに正面から向き合ってこそ、人は初めて違う生き方を?み取れるのだ」(p45)と。
 そう認識しつつ静馬は己の現状を分析する。「自分は逃げ込む場所があったがゆえにここに駆け込み、そして未だ消えぬ過去に囚われ続けている」(p45)と。静馬の過去は重い。
 一方で、後の短編にこのテーマについての見方として元瑤の別の思いも綴られていく。

<不釣狐 つられずのきつね>
 次の春には70歳になる中通の嶺雲という老尼についての物語。中通とは比丘尼御所以外の寺で得度し、寺の経理や雑務を預かる尼であり、寺務にも仏事にも精通したやり手である。嶺雲はかれこれ30年近く林丘寺に勤め、皆から一目置かれる老尼である。今は腰を痛めて臥せっている。そんな最中、お栄と称する老婆が、嶺雲が大津の宿屋の女主であった頃の知人だと名乗り、訪ねてきた。林丘寺の者は皆人違いではないかと訝しんだ。
 押し問答をするお栄と表の侍との間に静馬が入り、お栄との応対を引き継ぐ。そして、元瑤がお栄の話を聴く形に展開する。そこから嶺雲の過去が明らかになっていく。
 嶺雲もまた、己の過去から逃げてきていた人だった。
 
<春告げの筆>
 3月3日は上巳の節句、俗称で雛の節句である。その2日前の準備の場面から始まる。この準備を手伝っていた見習い尼の円照は午後から宿下がりの予定だった。それは亡き母の命日で法要に参列するためだと言う。そんな最中に、御世話卿の櫛笥隆賀が狩野安信を伴い元瑤を訪ねてきていた。円照が安信の顔を見るなり「伯父上」と微かなうめきを上げたことに静馬が気づく。そこから、円照の生い立ち話が始まって行く。それは兄の縫殿助のことに関係する。縫殿助が林丘寺門前に円照を迎えにきた。静馬が縫殿助に応対し、元瑤に引き合わせる。元瑤は縫殿助に絵を描かせ、即興の方便を語り、縫殿助の絵師としての生き方に梃子入れする場面へと展開する。
「一人の絵師の筆が拙くはあれ、春を告げる時節に立ち合ったのだ」(p135)という思いを静馬は感じる。
 

<朔日氷>
 水無月の朔日、慣例として御所より林丘寺にも氷室に貯蔵されていた氷が下賜される。監物は洛南にある領・小野村で起こっている藪医者呼ばわり騒動の解決に追われている。そのため、下される氷を静馬に譲り、砧屋の若主の作る砂糖羊羹と一緒に食うことを勧める。砧屋の若主・平治郎の所業を原因とする砧屋の跡継ぎ問題が、後にわかるのだが小野村の騒動の原因に結びついていた。また、砂糖羊羹の注文の折、静馬の誘いに対し、与五郎が平治郎を避けるようにしていた原因も明らかになる。
 結果的に砧屋の跡継ぎ問題の解決策として碇監物が出したアイデアがおもしろい。

<ひとつ足>
 林丘寺の御前(住持)・元秀が、七月七日の七夕、乞巧奠の行事の折、ついでに七遊を催そうと発案した。それが楽しみといえど大事になる。元瑤が御近習の須賀沼重藏の所有する刀の拵えが後藤光重の手になる七夕尽くしの名品であることを思い出し、今宵の祭壇に飾りたいという。重藏は研師に預けたままのその刀を引き取りに、静馬は三条堀川の松尾屋に行く必要ができ、二人が一緒に洛中に行く羽目になる。掘川端で重藏は離縁されたと告げていた芳沢家の義妹・以勢に遭遇してしまう。それが契機となり、重藏の過去が明らかになっていく。重藏もまた事実を隠して逃げていた一人だった。
 堀川に架かる橋の上で、母親が5,6歳の男児に語る一本足の鬼についての京の伝承を二人は通りすがりに耳にしていた。静馬はその話を思い出し、重藏の過去の思いと重ねていく。
 二人の跡を追い林丘寺を訪ねて来た以勢に元瑤は語る。「ただ人の世というものは、辛く苦しいものであらしゃる。そんな中で一所ぐらい、誰もが逃げ込める場所があってもよろしいんやなかろうか」(p218)と。静馬は己の切ない思いに回帰していく。

<三栗>
 三条東洞院の比丘尼御所・曇華院の住持・聖祝が、豪華に咲いた菊の鉢を手土産に林丘寺を訪れていた。聖祝は先帝・東山天皇の第四皇女で、元秀の姪にあたるが、5年前にわずか4歳で入寺して若き住持となった。未だ幼女である。余談だが、宝鏡寺を一般公開の折に訪れて、同種の事例を知った記憶がある。
 そんな日に、総門の外に赤子が寝かされていることを見つけたことから、大騒動となる。静馬は赤子を確認し、総門前で赤子を暫時当寺で預かると二度大声で告げる。
 聖祝の乳母・松於はこれを聞くと、最近曇華院でもあった捨て子の事実と、比丘尼御所門前を順に巡り捨て子をし、数日後弥兵衛と名乗る老爺が引き取りにくるという話を告げる。金品をだまし取っているという。
 だが、一刻ほど後に、お津奈と名乗る老婆が現れる。そして、静馬がその赤子の父親なのだろうと詰問し始める。勿論、静馬にとってはあらぬ濡れ衣・・・・。だが、そこから捨て子行為の真相が明らかになっていく。
 最後に、この事態に対する元瑤ならではの解決策が提示されることになる。
 また、元瑤は静馬に『万葉集』の一首を穏やかに詠唱した。
   三栗の 那賀に向へる 曝井の 絶えず通はむ そこに妻もが
 
<五葉の開く>
 年に一度の達磨忌は林丘寺にとっては特に重要な仏事である。その準備の時に、本尊として奉る掛幅が虫食いにあっていたことが判明する。大上﨟の慈薫は目を吊り上げて怒った。お次の珍雲は達磨忌の延引を提案するが、そういう訳には行かない。静馬は近江国日野村の正明寺に林丘寺ゆかりの道秀筆達磨図が納められたことを思い出す。その達磨図を借り受けてはどうかとの次善の策を提案し、それが実行に移される。
 林丘寺に寂応という小坊主が同行して届けられた達磨図を飾り付けてみて、達磨忌を支障なく執り行えると確認され、皆は安堵した。ところが翌朝改めると達磨図が消えていて大騒動となる。
 一方、その道秀筆の達磨絵は、元瑤の若かりし頃の苦い記憶を呼び起こす契機になる。
 境内全域を探している最中に、五条家の使いとして多田式部という家司が翌日の法会のための供物を持参する。珍雲は慈薫に言われて多田式部に応対するが、その場に立ち会うことになった静馬は珍雲の挙動からふと感じることがあった。静馬なりの行動を取る。
 その結果、元瑤は珍雲に己の若かりし頃の苦い記憶を語る機会をもつことに。それは元瑤の来し方の哀れさの吐露でもあった。珍雲自身に逃げるということと対峙し、心に五弁の花を開かせる契機となる。
 
 外観からは窺い知ることのできない人の心と思い。誰しもそれぞれに何かの事象から逃げるという局面を持ち合わせている。林丘寺という小さな門跡尼寺を舞台に、逃げるという人の心の有り様を様々に見つめた短編集である。

 ご一読ありがとうございます。

本書から関心を抱いた事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
林丘寺 ホームページ
修学院離宮  :「宮内庁」
旧百々御所 宝鏡寺 ホームページ
大聖寺(京都) :ウィキペディア
大聖寺(御寺御所)(京都市上京区) :「京都風光」
曇華院(京都市中京区) :「京都風光」
曇華院  :「コトバンク」
霊鑑寺(京都市左京区) :「京都風光」
霊鑑寺庭園  :「おにわさん」
三時知恩寺(京都市上京区) :「京都風光」
光照院門跡  :「京都観光Navi」
光照院・持明院跡(京都市上京区) :「京都風光」
尼門跡寺院とは :「臨済宗泰元山 三光院」
狩野安信 :ウィキペディア
狩野永敬 :「コトバンク」
狩野永伯 :「コトバンク」
京狩野  :ウィキペディア
蘆葉達磨図(掛軸) 高泉和尚賛・卓峰道秀画  :「入間市博物館」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『日輪の賦』  幻冬舎
『月人壮士 つきひとおとこ』  中央公論新社
『秋萩の散る』  徳間書店
『関越えの夜 東海道浮世がたり』  徳間文庫
『師走の扶持 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『ふたり女房 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『夢も定かに』  中公文庫
『能楽ものがたり 稚児桜』  淡交社
『名残の花』  新潮社
『落花』   中央公論新社
『龍華記』  KADOKAWA
『火定』  PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』  集英社文庫
『腐れ梅』  集英社
『若冲』  文藝春秋
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店



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