KANCHAN'S AID STATION 4~感情的マラソン論

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「愛媛最強のマラソン・ランナー」の今

2005年11月08日 | マラソン時評
長い間、四国は「プロ・スポーツ不毛の地」であったのだが、この1~2年で状況が一気に好転した。徳島のサッカー・クラブ、ヴォルテス徳島が今春J2に昇格し、四国初のJリーグ入りを果たした。企業チームを母体としない、純然たるクラブチームとして発足した愛媛FCも来シーズンのJ2昇格を目指している。友近、と言えば女性のピン芸人を思い出す人が多いだろうが、愛媛のサッカー好きに
「彼の夢は僕らの夢」
と言わしめる、愛媛FCの主将、友近“ズーパー”聡朗の名前も全国に知れ渡って欲しい。
(友近、というのは愛媛ではさほど珍しい姓ではないのだ。)

そして、地元の人間にとっても寝耳の水だったプロ野球の独立リーグ、四国アイランド・リーグの設立。関係者の努力によって、1年目は目標以上の観客を集めた。地方紙のスポーツ面の見出しに「水軍」や「闘犬」の文字がすっかり定着した。今月のドラフト会議で、はたして何人の選手が指名されるだろうか?

6年前に北海道マラソンに出場した際、レース後すすきのにある地元ランナーたちの溜まり場となっているスナックにお邪魔した。そこで知り合った、コンサドーレのサポーターが言っていた
「コンサのおかげで、僕たちは“六甲おろし”を歌う人たちの気持ちが分かるようになりましたよ。」
という言葉が実にうらやましく思えたのだが、愛媛の人間にも、分かるようになってきたのだ。

ここまで盛上がってくると、新聞のスポーツ面では収まりきれなくなってくる。愛媛のスポーツ情報誌の創刊は必然的なものだろう。
「愛媛スポーツマガジン」、「ヨンスポ」といった情報誌が相次いで創刊された。

読んでみて感心した。当然、愛媛FCや愛媛マンダリン・バイレーツの情報に多くページをさいているのだが、それと同時に「地域のスポーツ」を重視しているのだ。「ヨンスポ」の今月号の特集は「四国の山」だし、「愛媛スポーツマガジン」でも「秋の大運動会」を特集している。地域のスポーツ・サークル紹介や、小学生のスポーツ大会の結果もきっちり掲載している。これは子供たちには何よりの励みになるはずだ。孫の記録や写真を切りとってスクラップしているじいちゃんやばあちゃんもいるだろう。
「メディアとネットの融合」とか大風呂敷広げている若成金どもには、こういうメディアの価値は分からんだろうな。

前置きが長くなったが、「ヨンスポ」の11月号の中に、1人のランナーの名前を見つけたのだ。

谷村隼美氏のインタビュー記事である。

愛媛県の陸上競技関係者のみならず、50代以上のマラソン・ファンには懐かしく思われる名前かもしれない。

その記事を中心に、氏の足跡を振り返りたい。

谷村氏は1944年8月7日生まれ。松山市出身。中学時代から校内マラソン大会で優勝し、松山工業高校入学後、陸上部に入部。愛媛マラソンの高校10kmの部に優勝、全国高校駅伝大会に出場などの実績を残し、卒業後倉敷レーヨン(現クラレ)に入社。

「勤務時間は通常の社員と同じ。特別扱いなんてもちろんなかった。その後会社も協力してくれて冬場だけは練習時間がもらえたんです。一生懸命練習しましたね。」

練習の成果がマラソンや駅伝で現われた。京都マラソンなどで優勝しているが、マラソンのベスト記録を出したのは、'69年の福岡国際マラソン。カナダのジェローム・ドレイトンが独走で優勝したこのレースで英国の五輪代表選手、ロン・ヒルと雨の中2位争いを演じた。競技場入り口でヒルのスパートに屈して3位でゴールしたが、その時のゴール記録、2時間12分3秒4は、今もなお、愛媛県のマラソン最高記録として残っている。

小学校時代に社会の授業で、「愛媛県にある大きな工場」として、松山の帝人や松前の東レ、伊予市のマルトモやヤマキなどとともに、「クラレ西条」の名前も習ったのだが、僕はそれ以前に、新聞のスポーツ面の見出しで、「クラレ」と言う名前を記憶に刷り込まれていた。
駅伝というスポーツがあることを僕は「クラレ」という会社の名前とともに知ったのだった。あの、アヒルが黒い革靴を履いて散歩するCMよりも以前に。

クラレには、東京五輪のマラソン代表の寺沢徹さんや世界記録保持者の重松森雄さんらが在籍していた。日本代表のトップランナーとともに、谷村さんは駅伝を走っていた。'60年代の全日本実業団駅伝でクラレは優勝争いに加わる強豪チームだったが、谷村さんも2度区間賞を獲得している。'72年にはアンカーとして、チームの初優勝のゴール・テープを切った。当時のメンバーにはその年のミュンヘン五輪の3000m障害で決勝に進出した小山隆治さんや、後に富士通陸上部の監督に就任する宮下(現姓・木内)敏夫さんがいた。

ランナーとして一線を退いた後にもクラレ西条の監督として後進を指導しつつ、愛媛県の駅伝選抜チームの監督を務めた。クラレ西条には、後に旭化成で活躍した兵頭勝代さんが在籍していたこともある。今春より、「西条市陸協」として周辺の市町との合併で人口11万の都市となった「新生・西条市」のシンボルとなるスポーツ・クラブの役割も期待されている。

平成元年、トヨタ自動車の陸上部監督に就任し、単身赴任で愛知を訪れた。箱根を初めて走ったケニア人留学生、ジョセフ・オツオリらを迎え、強豪チームへと成長していく土台を築いた。

その後、横道正憲氏に監督を引き継いだ後の消息を僕は知らなかったのだが、インタビューによると、
「昨年、定年退職して松山に戻ってきた。」
ということなので、OBとして、陸上部をサポートしていたのだろう。いまや、トヨタも五輪代表選手を輩出するようなチームに成長した。

「この秋からは愛媛陸上競技協会の審判に登録しようと考えています。体が動かなくなるまで、何らかの形で競技にたずさわりたい。」
と今後の抱負を語る谷村さん。心臓の手術をされたそうで、無理は言えないが、若い頃の貴重な体験をぜひ、愛媛の競技力アップにも貢献してもらえたら、とワガママなお願いもしたくなってしまう。

県内の大会で、谷村さんを見かける機会もあるだろう。そして、今、実業団で活躍する愛媛出身のランナーたちから、早く、谷村さんの記録を破る選手が現われる事を祈りたい。

【付記】
11月5日に行われた、全国高校駅伝大会の愛媛県予選の、NHKラジオの実況中継にて、谷村さんは解説を務められていた。

※参考文献
「ヨンスポ」2005年11月号 (株)四国スポーツ通信
「福岡国際マラソン50年史」 朝日新聞社
「ニューイヤー駅伝2002公式ガイドブック」 毎日新聞社




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