国際陸連が唯一、"Championship"と名乗ることを承認している大会、それが福岡国際マラソンである。(正式名称はFukuoka International Open Marathon Championship)
五輪メダリストや世界最高記録保持者が歴代優勝者に多数名前を連ねるこの大会、今年は福岡が今もなお、世界有数のマラソン大会であることを示す結果となった。昨年、大会記録を大幅に更新して優勝したエチオピアのツェガエ・ケベデ。昨年の北京五輪、今年のベルリン世界選手権で銅メダルを獲得したランナーが、自己ベストを2秒更新する2時間5分18秒で独走優勝。昨年自らがマークした大会記録を一気に52秒も更新した。この記録、世界歴代9位に相当する。日本国内のレースで世界歴代トップ10の記録が誕生したのは、'99年の東京国際マラソン以来10年10ヶ月ぶり。(誰だ、旧東京のマラソンコースを「世界屈指の苛酷なコース」などと言い出したのは?)
ロンドン、ベルリン、ロッテルダム等、世界の都市マラソン間の「記録樹立競走」に福岡も割り込んだ形となった。現在の「世界のマラソン」がそのまま福岡に展開された。サッカーで言えば、ブラジル対イタリア、ラグビーで言えばオールブラックス(NZ)対ワラビーズ(豪州)の真剣勝負が国立競技場で開催されたようなものである。日本との実力差?そんなもの比較すること自体が無意味だ。
「国際大会」を標榜する国内のメジャー大会が、単なる「日本代表選考会」となっている現状を打開するために、ぬるま湯に浸りきった日本マラソン界へ鉄槌が下された、と僕は見ている。国内の一線級の多数が今回の福岡を回避したのは、こうした結果を予想したからではないか?
逆に言えば、ここまで世界のトップと差をつけられた日本の男子マラソンがよくもまあ、今年の世界選手権で入賞出来たものだと思う。先頭につかず、マイペースを維持して終盤に順位を上げていく。少なくとも今の日本にはあのやり方しかないのだ。それは卑下しなくてもいいと思う。むしろ、そういった戦術を選んだ男子マラソンの坂口泰強化部長は、早稲田大の先輩であるサッカー日本代表の岡田武史監督と対談してもらいたいと思う。今夏の佐藤敦之の走りが、岡田ジャパンの戦い方の何らかのヒントになりはしないか?
ともあれ、フクオカはやはりフクオカだった。
そんな福岡国際マラソンに、並々ならぬ熱い想いを抱いていたランナーがいた。
僕が走り初めて、初めてのマラソン出場を目指していた頃、福岡国際マラソンに15年連続出場を果たしたランナーの話が「ランナーズ」誌に掲載されていた。
角田進。1948年生まれで当時45歳。慶應大学時代に1度箱根駅伝に出場した経験があるものの卒業し、就職後はいったん競技から離れるが27歳で再び走り始め、31歳で福岡に初出場。実業団ランナーなら、現役引退を考える年齢だった。
以後15年間、毎年12月の第一日曜日には福岡のロードを走っていた。初めて福岡を走った'79年の優勝者は瀬古利彦、2位に宗茂、3位は宗猛。そう、モスクワ五輪代表選考レースだったあの年である。2時間28分48秒で98人の完走者中72位でゴールした。彼のチャレンジはここから始まった。福岡でのベスト記録は'85年の2時間21分37秒。福岡で日本人ランナーたちが世界のトップレベルのレースを展開していた'80年代、自らの目標のために、走り続けていた。
マラソンを少しでも知っている方ならば、福岡に出場するには、参加資格タイムが必要であることをご存知と思う。大会当日より過去2年間にマラソンで2時間26分以内、30kmで1時間35分以内、ハーフマラソンで1時間7分以内の公認記録を有する男子競技者。これが彼にとって15回目の福岡となった'93年の大会の出場資格である。40歳を過ぎた、福岡にも支社を持つ企業の中間管理職でもある人間にとっては、資格タイムを得る走力を維持するための努力がいかなるものであるか、想像出来るだろうか。まさに、
日常生活の全てを、「福岡を走る」という目標のために捧げていたに違いない。家族の協力も欠かせないものだったであろう。
15年目の福岡、満身創痍の彼は15年を「区切り」と考え、自らの福岡への想いと、今回が「最後」という決意を手紙にしたため、主催社である朝日新聞の西部本社に送った。この手紙は、朝日新聞の福岡版とこの年の大会プログラムに掲載され、地元では大きな反響を呼んだという。
「ラストラン」のために福岡入りした彼を待ち受けていたのは、これまで以上の温かい歓迎だった。ホテル入りすると花束を渡された。(ちなみに、彼は毎年同じホテルに宿泊していた。)大濠公園でジョギングをしていると、見ず知らずの男性がこう声をかけた。
「これが最後なんて、さびしかこといわんで、また来年も来てください。」
「この言葉を受けただけでもやっぱり福岡に来てよかった。」
と彼は語った。僕もこのエピソードを読み、泣いた。フランク・ショーターの言った通りだった。
「この街(福岡)の市民は、皆、マラソンを知っている。」
かつてそう語った彼は、この福岡で4回優勝した。世界のトップランナーたちと、彼らと同じスタートラインに立つことを夢見てきたランナーたちが自らの住む街を走ることを誇りに思う人たち。彼らは今年の冬もケベデの独走に大きな声援を送っていた。その声援もケベデの背中を押したに違いない。
'93年の福岡。メキシコのディオニシオ・セロンが優勝し、「フクオカ」に並々ならぬ想いを抱く英国人、マイク・オレイリーが自己ベストをマークしたレースで角田は完走した。2時間28分59秒で75人中74位。これまで以上の声援を浴び、テレビ中継のカメラも出場者最年長で、最多出場の彼を大きく映し、実況アナも彼のプロフィールを紹介した。
本稿のタイトルは、「ランナーズ」誌のこの大会のレポート記事のサブタイトルである。
大濠公園での男性の一言に刺激されたからだけではないだろうが、以後も彼は福岡のスタートラインを目指し、3年後の第50回記念大会まで、福岡を駆け抜けた。
現在の福岡は参加資格が2時間45分まで延長されて参加枠が拡大した。しかし、そのカテゴリーは「Bグループ」とされ、Bグループの資格タイム参加者は平和台の陸上競技場からではなく、大濠公園からスタートして、途中で合流するようになっている。その措置には異論もあるようだが、今もなお「福岡のスタートライン」は、日本マラソン界の「最後の聖域」となっているのは確かだ。
今回、福岡は今もなお、世界標準の大会であることを実証した。日本人のランナーが太刀打ち出来ないことは嘆かわしいことではあるが、せめて、3位に入ったウクライナのバラノフスキーの背中から捕らえるところから始めて欲しい。
ともあれ、いたずらに参加資格を拡大して、参加者の数を誇ることだけがマラソン大会のあり方でもあるまい。スタートラインに立てるだけで誇りとなる大会も必要なのだ。福岡がフクオカであり続ける限り、角田のような熱い志をもってマラソンに取り組むランナーたちは平和台を目指すのだ。
今回、学習院大初の箱根駅伝出場ランナー、川内雄輝や今年2月の東京でカツラを被って先頭集団を走り、沿道の笑いを誘った高田伸昭、今年の愛媛マラソンで2位でゴールした、東京大学大学院出身の原発エンジニア城武雅、愛媛で彼を抑えて大会史上最年長の優勝者となった藤野浩一、12年前の学生マラソン選手権にも出場した東徹らが2時間20分を切ってゴールした。
(文中敬称略)
※参考文献
月刊ランナーズ1994年3月号
「福岡国際マラソンに魅せられた男 角田進、15年の軌跡」
五輪メダリストや世界最高記録保持者が歴代優勝者に多数名前を連ねるこの大会、今年は福岡が今もなお、世界有数のマラソン大会であることを示す結果となった。昨年、大会記録を大幅に更新して優勝したエチオピアのツェガエ・ケベデ。昨年の北京五輪、今年のベルリン世界選手権で銅メダルを獲得したランナーが、自己ベストを2秒更新する2時間5分18秒で独走優勝。昨年自らがマークした大会記録を一気に52秒も更新した。この記録、世界歴代9位に相当する。日本国内のレースで世界歴代トップ10の記録が誕生したのは、'99年の東京国際マラソン以来10年10ヶ月ぶり。(誰だ、旧東京のマラソンコースを「世界屈指の苛酷なコース」などと言い出したのは?)
ロンドン、ベルリン、ロッテルダム等、世界の都市マラソン間の「記録樹立競走」に福岡も割り込んだ形となった。現在の「世界のマラソン」がそのまま福岡に展開された。サッカーで言えば、ブラジル対イタリア、ラグビーで言えばオールブラックス(NZ)対ワラビーズ(豪州)の真剣勝負が国立競技場で開催されたようなものである。日本との実力差?そんなもの比較すること自体が無意味だ。
「国際大会」を標榜する国内のメジャー大会が、単なる「日本代表選考会」となっている現状を打開するために、ぬるま湯に浸りきった日本マラソン界へ鉄槌が下された、と僕は見ている。国内の一線級の多数が今回の福岡を回避したのは、こうした結果を予想したからではないか?
逆に言えば、ここまで世界のトップと差をつけられた日本の男子マラソンがよくもまあ、今年の世界選手権で入賞出来たものだと思う。先頭につかず、マイペースを維持して終盤に順位を上げていく。少なくとも今の日本にはあのやり方しかないのだ。それは卑下しなくてもいいと思う。むしろ、そういった戦術を選んだ男子マラソンの坂口泰強化部長は、早稲田大の先輩であるサッカー日本代表の岡田武史監督と対談してもらいたいと思う。今夏の佐藤敦之の走りが、岡田ジャパンの戦い方の何らかのヒントになりはしないか?
ともあれ、フクオカはやはりフクオカだった。
そんな福岡国際マラソンに、並々ならぬ熱い想いを抱いていたランナーがいた。
僕が走り初めて、初めてのマラソン出場を目指していた頃、福岡国際マラソンに15年連続出場を果たしたランナーの話が「ランナーズ」誌に掲載されていた。
角田進。1948年生まれで当時45歳。慶應大学時代に1度箱根駅伝に出場した経験があるものの卒業し、就職後はいったん競技から離れるが27歳で再び走り始め、31歳で福岡に初出場。実業団ランナーなら、現役引退を考える年齢だった。
以後15年間、毎年12月の第一日曜日には福岡のロードを走っていた。初めて福岡を走った'79年の優勝者は瀬古利彦、2位に宗茂、3位は宗猛。そう、モスクワ五輪代表選考レースだったあの年である。2時間28分48秒で98人の完走者中72位でゴールした。彼のチャレンジはここから始まった。福岡でのベスト記録は'85年の2時間21分37秒。福岡で日本人ランナーたちが世界のトップレベルのレースを展開していた'80年代、自らの目標のために、走り続けていた。
マラソンを少しでも知っている方ならば、福岡に出場するには、参加資格タイムが必要であることをご存知と思う。大会当日より過去2年間にマラソンで2時間26分以内、30kmで1時間35分以内、ハーフマラソンで1時間7分以内の公認記録を有する男子競技者。これが彼にとって15回目の福岡となった'93年の大会の出場資格である。40歳を過ぎた、福岡にも支社を持つ企業の中間管理職でもある人間にとっては、資格タイムを得る走力を維持するための努力がいかなるものであるか、想像出来るだろうか。まさに、
日常生活の全てを、「福岡を走る」という目標のために捧げていたに違いない。家族の協力も欠かせないものだったであろう。
15年目の福岡、満身創痍の彼は15年を「区切り」と考え、自らの福岡への想いと、今回が「最後」という決意を手紙にしたため、主催社である朝日新聞の西部本社に送った。この手紙は、朝日新聞の福岡版とこの年の大会プログラムに掲載され、地元では大きな反響を呼んだという。
「ラストラン」のために福岡入りした彼を待ち受けていたのは、これまで以上の温かい歓迎だった。ホテル入りすると花束を渡された。(ちなみに、彼は毎年同じホテルに宿泊していた。)大濠公園でジョギングをしていると、見ず知らずの男性がこう声をかけた。
「これが最後なんて、さびしかこといわんで、また来年も来てください。」
「この言葉を受けただけでもやっぱり福岡に来てよかった。」
と彼は語った。僕もこのエピソードを読み、泣いた。フランク・ショーターの言った通りだった。
「この街(福岡)の市民は、皆、マラソンを知っている。」
かつてそう語った彼は、この福岡で4回優勝した。世界のトップランナーたちと、彼らと同じスタートラインに立つことを夢見てきたランナーたちが自らの住む街を走ることを誇りに思う人たち。彼らは今年の冬もケベデの独走に大きな声援を送っていた。その声援もケベデの背中を押したに違いない。
'93年の福岡。メキシコのディオニシオ・セロンが優勝し、「フクオカ」に並々ならぬ想いを抱く英国人、マイク・オレイリーが自己ベストをマークしたレースで角田は完走した。2時間28分59秒で75人中74位。これまで以上の声援を浴び、テレビ中継のカメラも出場者最年長で、最多出場の彼を大きく映し、実況アナも彼のプロフィールを紹介した。
本稿のタイトルは、「ランナーズ」誌のこの大会のレポート記事のサブタイトルである。
大濠公園での男性の一言に刺激されたからだけではないだろうが、以後も彼は福岡のスタートラインを目指し、3年後の第50回記念大会まで、福岡を駆け抜けた。
現在の福岡は参加資格が2時間45分まで延長されて参加枠が拡大した。しかし、そのカテゴリーは「Bグループ」とされ、Bグループの資格タイム参加者は平和台の陸上競技場からではなく、大濠公園からスタートして、途中で合流するようになっている。その措置には異論もあるようだが、今もなお「福岡のスタートライン」は、日本マラソン界の「最後の聖域」となっているのは確かだ。
今回、福岡は今もなお、世界標準の大会であることを実証した。日本人のランナーが太刀打ち出来ないことは嘆かわしいことではあるが、せめて、3位に入ったウクライナのバラノフスキーの背中から捕らえるところから始めて欲しい。
ともあれ、いたずらに参加資格を拡大して、参加者の数を誇ることだけがマラソン大会のあり方でもあるまい。スタートラインに立てるだけで誇りとなる大会も必要なのだ。福岡がフクオカであり続ける限り、角田のような熱い志をもってマラソンに取り組むランナーたちは平和台を目指すのだ。
今回、学習院大初の箱根駅伝出場ランナー、川内雄輝や今年2月の東京でカツラを被って先頭集団を走り、沿道の笑いを誘った高田伸昭、今年の愛媛マラソンで2位でゴールした、東京大学大学院出身の原発エンジニア城武雅、愛媛で彼を抑えて大会史上最年長の優勝者となった藤野浩一、12年前の学生マラソン選手権にも出場した東徹らが2時間20分を切ってゴールした。
(文中敬称略)
※参考文献
月刊ランナーズ1994年3月号
「福岡国際マラソンに魅せられた男 角田進、15年の軌跡」
抽選でないと出場できない大会ばかり増えてきましたが、出場すること自体が「誇り」となる大会は無くなって欲しくないですね。