kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

当事者農民の記録

2024年11月25日 | 100年前の煙害事件

『四阪島煙害ニ関スル綴』
   当事者だった農民のメモ

明治中頃生まれの伯父は、煙害問題に関する書類をまとめていたので
コピーさせてもらいました(50年以上前のこと)

賠償金などの数字・交渉契約者の氏名など(これがメインかも?)は省き、
文章の部分だけをここに載せます

『書類の綴』で、「はじめに」にあたる「煙害問題の沿革」の部分、
ざっくりいうと、以下。

・精錬所からの煙害が初めて問題になったのは、明治25~6年の頃。
 当時、精錬所は新居浜町にあった

・政府は、被害防止のため精錬所を離島である四阪島に移すことを命じた

・鉱山主はその命令に基き、明治37年、移転を実行
 しかしその結果、硫煙がまん延し、問題は一層重大化した

・明治41年、知事と鉱業主から農商務大臣に申請して、調査を行った

・明治42~3年頃、被害甚大
 数千の農民が連署して、貴・衆両院に請願書を提出

・明治43年10月、大浦農商務大臣の煙害地視察に来る

・農商務局長、知事の斡旋により、ようやく協調が進められた。

 大臣帰京の直後、官邸にて当局と知事列席のもと、農・鉱代表者の協議会を開催。

・同11月9日、初めて円満な賠償契約が成立。 
 契約期間は3ヶ年とし、3年ごとの更改は、知事の斡旋により行う慣例。

・昭和12年3月23日で第10回の更改である。

・一方、鉱業主は硫害の除去の工夫を重ねてきた。
 ペテルゼン式硫酸製造工場を併設し、排煙中の硫黄の70%を処理できるようになったので、硫煙の被害は著しく減少できた。

・昭和14年12月4日に契約された第11回では、
 煙害なきものと認め、賠償金は廃止された。

-----------------ここから『四阪島煙害ニ関スル綴』の文書

煙害問題の沿革

愛媛県における精錬所煙害問題が初めて世上の注意を惹
きたるは明治二十五・六年の頃にして当時排煙に依る被害甚だしき
により被害農民より鉱業主に対し除害方に関し交渉を重
ねたるも鉱業主は最初鉱業上の被害に非ずと主張し之に應
ずるの色なかりき。後に至り鉱業上の被害なることを承認したるも
賠償並に煙害防止に関し農民側との間に協定調うに至らざりし
ものなり。
当時精錬所は本県新居浜町に在りしが、その後大阪鉱山監督
署は被害防止のため精錬所を瀬戸内海の一離島なる四阪
島に移すべきことを命じ、鉱山主はその命令に基き、明治
三十七年移転を実行セリ。しかるに其の結果却って硫煙の瀰漫
区域を拡大し、問題は一層重大化するに至れり。依って県は
被害調査を行い、又其の調査に基きて、農・鉱両者の協調に尽力
せしも其の功なく益々事態の紛糾を見るに至れり。

茲に於て遂に明治四十一年に至り知事及鉱業主より農商務大
臣に申請して農商務省の調査を煩はすことゝなれり。
然るに煙害は依然激甚なるを以て農民は激昂して止まず
屡々不穏の事態をすら惹起せり。明治四十二・三年頃には数千
の農民連署して両度に亘り貴・衆両院に救済に関し請願
書を提出せることあり。第二十五議会に於ては鉱煙毒被
害に関する質問提出せられ、之に対する政府の答弁書の
同附を見たり。次いで明治四十三年十月大浦農商務大臣
の煙害地視察を見るに至れり。

かかる間に豫てより調停に腐心せる下岡農商務局長、伊沢
知事等の斡旋功を奏し、漸く農・鉱両者の間に協調の
機熟し、大臣帰京の後直ちに官邸に於て農商務当局及
知事列席のもとに両代表者の協議会を開きたる結果、十一月九日
に至り、多年紛糾を重ねたる両者の間に始めて円満なる賠
償契約の成立を見たり。  仝契約は賠償金に関する規定と
焼鉱の量的並に季節的制限に関する規定とを主たる内
容とするものにして、契約期間は三ヶ年なり。爾来契約は両
三年ごとに更改せられ、その都度知事の斡旋によりて行はるゝ
慣例にして今回は第十回の契約更改期に相当せり。

而して右の契約によりて年々鉱業主より被害民に対し賠償金
を交付する外、大正二年以来農林業奨励のため一定の寄付
をなし更に大正八年以来思想善導其の他公益の目的のため
に一定の寄附をなすを例とし、かくて賠償契約に基づき鉱業主
より被害民に交付する総金額は年々多きは三十五万円
少なきも一六・七万円に達し、最近三ヶ年の平均額は十七万六千余
円なり。

一方鉱業主に於ては常に硫害の除去に対し工夫を重ね来り
たるが数年前よりペテルゼン式硫酸製造工場を併設したる
結果、現在排煙中の硫黄の七十パーセントを処理し
うる域に達し、従前に比し硫煙の被害著しく減少する
に至れり
右は煙害賠償協議会議事録の付録の昭和十二年三月二十三日
(第十回)迄の沿革の大要である。
第十一回は、昭和十四年十二月四日に契約されたが、賠償金に就ては既にペテルゼン式硫酸製造工場を併設し十四年七月には中和工場完成により煙害なきものと認め賠償金は廃止された。
              (コピー終り)


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忘れていた!

2024年11月24日 | 100年前の煙害事件

100年前の煙害事件については、以前に、まとめたことがあった。
それは、ホームページにも掲載した。
のちに、何かの折、削除していた。
内容は古いPCに残してあるが、そのPCは触ることがないだけでなく
PCを置いた机の前に座ることさえなかった。
下に置いた古い本の『新今治市誌』は、時々開いていたけれど。

昨日、PCを開いてみたら、バッチリまとめていた。
けっこう時間をかけたはずなのに、すっかり忘れていた。
しかも、今回ブログに書いたのより、理論的でわかりやすい。

重ね重ね、ショックを受けた😣

日付を見たら12年前、ワタクシ60代。
若い人にはかなわないなあ…😥


年表を作るのが好きだったので、作っていた。
時代を知ってないと、理解がずれるのではないかと思ったりして…。

さて、古いPCの文書を、今のPCに移したいが、操作はどうだったか?
そんな簡単なことさえ億劫に感じたので、日を改めて、やる!🙂

 

<年表を見て可笑しかったこと>

1905(明治38)年 煙害激甚で農民の反対運動の声が沸き上がる
以降、1910(明治43)年まで、煙害激甚だった

<ところで>

電話の開通は
1910(明治43)年 今治町の中央部に開通した
         官公署は、郡役所・税務署・警察署・裁判所
         民間は、工場・旅館・料理屋・製造業など

鉄道の開設は

高松の方から敷設され、今治までは1924(大正13)年2月、
松山まで開業したのは、1927(昭和2)年4月のこと
人の移動は、海上は船だけど、陸上はどうでしょう? 農民は歩くか走るかでしょうね🤔

電話もない・汽車もない時代。

新聞と郵便・電報はありました😃

                <続きはまたあとで>


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100年前に思いをはせて

2024年11月23日 | 100年前の煙害事件

書類の作成はパソコン、iPadはLINEと写真とゲーム、と使い分けていたが、ある時、A5用紙のプリントを写真に撮ったら、見事なテキストになっていて、びっくりした。

文字の読み間違いも一切ナシだった!

 

どこをタッチしたらそうなったかは分からなかったが、こういうことができるのなら、かさばるスキャナーは要らないと、机から取り外した程だった。(昨今はスキャナーを使うことはないし、使い方も忘れたし)

 

さて、四阪島煙害事件を知らなかったという初老の友人に、経緯を教えてあげようと思い、古い本を取り出してスキャンしよう始めた。

いつもと同じで、うまくいかない。

Apple Supportのページなどを見ながらやってみたけど、混乱するだけ。

こういう時は、サッサとやめて、翌日にでもやればうまくいくかも知れないのに、意地になって堂々巡りを続けてしまう。

(暇つぶしをしたい人には最適デス)

 

それから、iPadがなんで2つもいるの?と聞かれるけど、調べたページの内容は直ぐに忘れてしまう私には、横に置いて見比べることが必要なんです。

 

というわけで、昨日出来なかったことが、なぜか、今日はできた!

         (以上、一昨日のこと)

 

 

50年余り前に、今治市で市制50周年記念で刊行した『新今治市誌』に掲載されているページをそのまま載せてみた。

 

実はこの項目、編纂を手伝っていた私が「原稿を書いてもいい」と許可を得て、資料集めをやっていたけれど、頑張ってもまとめることができず、放り出したら、編纂責任者様が、あっというまに成文化していたもの。

つくづく、明治生まれのご老人には脱帽するのみ…。

 

なお、私の伯父(明治中頃生まれ)は桜井で生まれ育ち、煙害被害をまともに経験したので、しっかり聞いています。

 

住友の経営陣も、大臣も、知事も、そして農民も、偉かったと感心する。

名前を覚える間もなく簡単に更迭される現在の大臣とは違うだろうし、

中央から派遣された官僚の知事も偉かった!

(伊沢多喜男知事の息子は、作家・飯沢匡です)

 

まとまりがイマイチなので、後で手直しします。では。


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100年前の煙害事件−6

2024年11月21日 | 100年前の煙害事件

この間、住友は煙害試験場を立花小学校下側、清水(きよすい)に設けて、風力・雨量煙害の度合を調べた。また、坪刈りといって、各田ごとに1坪ずつ稲を刈りむしろに包んで名前を書き、郡役所へ持っていき、こいでこなして出来工合を調べたり、1町に1本くらいずつリトマス試験紙をたてておいて、その変化を調べるなどして被害調査も行なった。(元立花村長越智武談)

煙害問題の解決  四阪島製錬所も亜硫酸ガスを排出しなくてすむよう研究を重ね、昭和5年5月にはペテルゼン式脱流装置が完成し、13年7月に中和工場が完成するに及んで、一切の硫黄分は硫酸アンモニアにかえられ、肥料として使われるようになった。

そこで、昭和14年12月4日、知事持永義文・住友側三村起ー・被害民代表曽我部右吉外9名による賠償協議会で、

  1. 賠償金については先に硫酸工場(ベテルゼン式)、本年の中和工場の完成により害除却の目的は達成され、農作物の害はないものと認められたので廃止する。

2.  農林業奨励助成金ならびに公益増進のため、むこう10ヵ年、137,000円ずつ寄付する。

  1. 特別寄付金は一時金として100万円寄付する。
  2. 農林業奨励寄付金は、一時金として65,000円を県に寄付する。

と決まった。

なお、前表の公益寄付金は積み立てていたが、大正14年ごろ頂点に達していた中学校入学難を緩和し、青年の進路を拡張するため、この資金を活用して加藤徹太郎ら5名の煙害代表者、越智郡長川又金太郎外有志らが中学校新設に尽力した。敷地買収及び建築には27万円を要し、組合立越智中学校として創立し、大正15年4月に第1回入学式を行なった。当時、この地方の中学校は県立今治中学校だけで入学者定員は 200名にすぎないのに希望者は700名を超えていたので、越智中学校の設立には大きな意義があった。越智中学校は昭和19年に県立に移管された。  (完)


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100年まえの煙害事件−5

2024年11月20日 | 100年前の煙害事件

住友の代表が来た時の記録は以上であるが、その後も煙害は止まず、農民代表は農商務省や議会に陳情や請願を続け、全国的にも重大な問題となった。

 明治42年4月20日から、尾道に住友と煙害農民の代表が集まり、煙害賠償協議を行なった。住友は、過去・現在・未来の損害を一括し、農業奨励金の名目で支払うことを主張したが、農民代表は、過去・現在と将来の損害は分けて支払うことを主張し、決裂した。

 このあと5月8日、日吉村別宮の地主らは、尾道会議決裂後の善後策を協談したが、そこでは「損害賠償もしくはそれ以下の方法で妥協して農作物の被害を継続せしむるが如きは農民の忍ぶ能はぎる処なり」として、あくまで煙害の除去を要求し、それができないなら、四阪島製錬所の中止もしくは遠距離への移転を要求することを決議した。また、中止もしくは移転によって鉱業主が不利を生ずるならば、別宮部落から1万円寄贈しようとも決議している。その5日のちに、日吉村の日吉・別宮・蔵敷の3部落代表の話し合いでも、四阪島製錬所の休止または移転、その場合には5万円の寄付を決議している。

 この年7月、知事安藤は休職になり、伊沢多喜男が代わると、自ら積極的に煙害問題の解決に当った。12月県会では、会員一致で、製錬所の移転、または完全な除害設備、損害補償、米麦開化期の精錬中止、または制限を決議した。翌年2月、貴族院請願委員会は別子銅山煙害駆除の請願を採択した。衆議院でも別子、小坂、足尾、日立鉱山など対象とする鉱毒除害と被害救済の建議案が提出されている。東予の煙害問題もようやく解決への歩を進めた。

 煙害補償協定 明治43年10月4日、知事は各地の委員と部長を県庁に集め、煙害問題解決のための協議を行ない、協議の場所は農商務省とする、各地域代表者は全員上京する、費用は各自負担、賠償金は各郡、各町に分配する、政府は被害調査を続ける、契約は3年以内にする、などを協定した。

 10月12~14日、農商務大臣大浦兼武が視察に来た。まず、四阪島製錬所を視察し、そのあと越智・周桑両郡の村々をまわった。農商務省の秘書官や技師・それに知事・農事試験場長・警察部長などをひきつれ、3人びきの立派な人力車で通る大臣を、浴道の農民は地にひれ伏して迎えたという。

 10月25日には、農商務大臣邸で、農商務大臣・知事列席のもとに、住友と被害農民の代表者による煙害補償協議会がひらかれた。そこで、

 

 1.住友は農作物と材木に対する賠償金として、明治41年から43年までの分として23万9,000円を支払い、44年以降は7万7,000円を支払うこと。

また、別に10万円を支払い、前項以外の既往の損害を賠償すること。

 2.  四阪島製錬所の1年の製錬量は、5,500貫以内とする。

 3.  米作麦作の重要時期の各40日間は、1日の製錬量を10万貫に減少する。

また、その期間の10日(開花期)は、溶鉱炉の作業を休止する。

 

などが契約された。

 この賠償金の使い方については、知事と農民の代表者間で検討した結果、一部を県の農事試験場に寄付して原種の設置・運営にあたり、他は各町村に分配し、別に定める農林業奨励改良基金条例準則により活用することを決定した。準則のおもな事項は、①分配された金額の全部を農林業改良基金として蓄積する。②基金は本町村(煙害地)の農業組合・水利組合・耕地整理組合・肥料共同購入組合および森林組合に農業改良奨励の資金として、利子付きで貸与することができる。貸付金利は年5分以下3分以上とする、などであった。しかし、実際には煙害補償金は煙害交渉に必要な経費を支出したあと、田の面積に応じて各戸に分配した(桜井・立花の例)

 

なお、最初に受け取った補償金の分配は以下の通りである。

 (略)

補償契約は3年ごとに、知事が座長となり、住友側と被害者代表との間で行われたが、その金額は次のとおりであった。

 (略)

 (注)農林業奨励寄付金で、原種田・煙害試験地苗圃が作られた

(次ページへ続く)


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