kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

4年か10年の歳月

2023年06月07日 | 日記
夫が脳梗塞を発症してから4年。
(気が付いたら、4年の月日が過ぎていた)
身体機能は少しずつ不自由になっているけど
何の不便も不満も不足も口にすることなく
機嫌よく寝て過ごす、静かな日々。

ウクライナや大雨のニュースを見る時、私はいつも
「避難なんかできない、家でじっとしているだけよ」と
話しかけている。夫は同意も反論もしない。

4年の歳月。
結婚して4年後には、3歳と1歳の子を連れて
ここに引っ越して来たんだった。
(それだけできた 若さかな…🤔)
田舎から抜け出始めた中高生時代の4年間も
怖いもの知らずで通した20歳前後の4年間も
出来は落第点だけど、いいよ、いいよ(今よりは💦)

若いころに比べると、あまりにも変化がないので
このままで、5年も10年も
時が過ぎていくんじゃないかと思っている。


話変わって
NHKラジオ『古典講読』、前回は「阿仏尼の人生」だった。

京で、公家のお屋敷に勤めていた10代の頃、高貴な男性との恋に破れ
奈良の法華寺(尼寺)に身を寄せ、阿仏尼となる。

その後、慶政上人に和歌の指導を受けるため、京の西山・法華山寺に移った。
(法華寺と名前は似ているが、無関係)
その地で『源氏物語』の書写をする人が、
法華寺と縁のある人から阿仏尼を紹介された。
これにより、為家とのつながりができたと思われる。

鎌倉時代の僧・慶政上人は、九条家の長子だが、
嬰児の頃の障がいで僧になり、和歌の道に進んだ。
宋で学んだのち、京の西山(現在は京都大学桂キャンパス辺り)に
法華山寺を創建した。寺は、南北朝の戦乱で荒廃した。

法華寺は、聖武天皇の后・光明皇后の発願により
全国に建てた国分尼寺の総国分尼寺として
745年、皇后の父・藤原不比等の邸宅跡に建てられた。
観光名所として現存。



京の桂の地で藤原定家の子・為家(60歳くらい)と結ばれた阿仏尼は
為相(ためすけ)ら3人の男子をもうけた。

為家亡きあと、相続訴訟のため、鎌倉へ下向した記録が『十六夜日記』。
60歳近くになった阿仏尼に同行したのは
僧になって阿闍梨(あじゃり)という名の息子。
『うたたね』を書く前に生まれていたのだろう。
前後して女子も生まれており
長じて後深草院の寵愛を受け姫宮を産んだとされる。

20歳代で『源氏物語』の書写ができるほどの才能!
為家との出会う前の10年間は
お屋敷勤めをしていた京からから奈良の法華寺へ
そして、和歌の指導を受けるため京の桂の地へと移り住み
息子と娘も育っていた!
60歳近い為家が惚れ込んだのももっともですなあ…😒

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする