kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

『うたたね』のメモ

2023年07月28日 | 古典聞きかじり
古典講読日記文学をよむ阿仏尼『うたたね』第16回 を聞いて

富士の煙を見ながら過ごした日々

『うたたね』の作者・阿仏尼は、養父の勧めで
彼の地所である遠江(とうとうみ)の浜松まで旅をし
そこで暮らすことになる。
(結果的には、1か月ほどで都に戻ってしまう)

当時の旅は、輿(こし)か馬で、旅の主が歩くことはない。
養父は、養女である阿仏尼をお姫様のように扱っている。
どうしてなのかは分からないまま
ラジオで聞いた講師の話を、聞いたままメモ書き。
( kanko の文章ではない)

先ずは、前半。

住まいからは、真っ白な雪が積もっている富士山が見えた。
その白さが、作者の孤独感と寂寥感を高めた。

頂からは、古今和歌集で有名な「富士の煙」が立ち昇っていた。
噴煙が風に吹かれてなびき、やがて行方も知れず消えてゆく

その光景を眺めていた作者(阿仏尼)の脳裏には、いつもよぎる歌があった。

風になびく富士の煙の空に消えて 行方もしらぬわが思かな
                          西行法師
 口語訳:富士の煙のように、行方もわからない私の思い(心)であることよ

もう一首

富士の嶺の煙もなほぞ立ちのぼる うへなきものはおもひなりけり
                            藤原家隆
 口語訳:嶺よりも高く立ち昇る富士の煙。それよりも高いのはわたしの恋の火だ。

西行は実際に自分の目で見て、はかなさを歌っている
家隆は、想像で富士の煙を思いを想像で歌ったのだろう

私(阿仏尼)は浜松に来て、毎日富士の煙を見ながら暮らした
そして思ったことがある
今、私の心のなかでチョロチョロとくすぶっているだけの恋の火は、
かつて激しく燃え上がっていたことがある。
もしかしたらもう一度、私の心の火は燃え上がるかもしれない。
その高さは、富士の煙より高いであろう

殆どの歌人が見て圧倒される富士の煙を、自分よりも大したことはないと思うのは
我ながら恐ろしいことである。

富士山の標高は高いけれど、私の心のたけ(自己評価)も、それ以上に高いのである。

以下、私(kanko) の感想
自意識過剰の姫君が、自己主張を貫き
さらに年老いても権利を獲得していく生き方、
おおいに興味をそそられるので、
放送での話を追加していきます。

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