落葉松亭日記

ニュース・評論スクラップ、凡夫の日々雑感、山歩記など

お迎え

2007年09月10日 | 日常・身辺
いつまでも蒸し暑い日が続く今日この頃(だれかのブログみたい)、暮れなずむ夕空を見ながら一杯やっているときふとこの言葉がよぎった。

 先日喜寿になる先輩が2冊の本を持ってこられ、それを読んだからかも知れない。波多野完治著「吾れ老ゆ 故に吾れ在り」(老いと性と人生と)、宮内博一著「六十歳からを輝いて生きる」だ。前者は明治三十八年生まれの著者が米寿のときに書かれた。後者は昭和六年(1931)生まれで平成二年(1990)六十九歳にそれまでの随筆をまとめられた。宮内氏は四十五歳から老人ホーム経営一筋の方だから、老人の生態は隅から隅までご存じで、この世界に踏み込みつつある私には大変参考になった。

 両方の本に共通しているのは「老いと性」についてかなりのスペースが割かれていたことだ。先輩は独り暮らしの私に此処をしっかり読めと云いたかったのかも知れない。若い頃はそんなものは定年を過ぎる頃には枯れ果てると信じていたが、私の場合はそうでもなく殆ど変わらず煩悩に取りつかれることしきりだ。しかし性欲は人間のあらゆる活動の源となっており「性=生」といわれるのでなくなったらお仕舞いだ。煩悩に取りつかれないようにする対処法は二通りある。一つは逃げずにヒヒ親父と呼ばれようががプレイボーイに徹する。もう一つは「昇華」型だ。長寿社会になったので前者をとる方は老人ホームでも多いらしい。そしてそういう人はおしゃれで若々しいとのことだ。在職中に職場の先輩女史が「プレイボーイはねマメでないと出来ないわよ」などと云っていた。確かにそのようだが面倒くさがりやの私には不向きだから、後者の「昇華」型しかない。

 「お迎え」という言葉についても書かれていた。童謡に「蛇の目でお迎え嬉しいな ぴちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん」というのがあった。学校帰りや友達の家で遊んでいて、いくら楽しくとも時が来たら有無を云わさず連れ帰られる。死とはそんな感じでやってくる。もちろん難病のあげく迎える死もあるだろう。

 趣味といえるかどうか分からないが、山歩きや楽器、本を読んだりで昇華し、願わくば楽しい日々の内に「お迎え」いただければと思ったのだった。