落葉松亭日記

ニュース・評論スクラップ、凡夫の日々雑感、山歩記など

『阪神大震災』から19年

2014年01月17日 | 世相
19年前の今日(1995.1.17)、阪神大震災があった。
毎年記念・慰霊行事が行われているが、自分はだんだんと印象が薄らいでいる。
当時の日記を開いてみた。

 平成7年1月17日 火曜日 晴れ

 未明の午前5時46分地震がきた。私は朝食を終わりトイレに入っていたときだ。突き上げるような激しさで座っていたが壁に手をついて倒れないようにしていた。このまま建物が倒壊するのではと恐ろしい光景が頭にうかぶ。長く感じたが10秒ぐらいであったろうか。揺れはじめてすぐ停電になり真っ暗になった。便意もなくなってしまい、揺れが収まるまでそのまま座っていた。

Kがロウソクを捜し当て灯した。石油ストーブは耐震装置が働いて消えた。目を覚ました次男(7)がべそをかいているがKがそれをなだめている。壁に取り付けてある扇風機が落下したが次男に当たらなかったのが幸であった。長男(14)の部屋では机の上に本棚から落ちた本が散乱している。長男も目を覚まし次男の部屋に移った。私の部屋も棚の上のものが落ちている。幸にも起床していた後であったのでけがもなかった。押入も荷崩れして襖が開かなくなってしまった。箪笥の上の花瓶や台所の棚から土鍋が落ちて割れたりした。

トランジスタラジオをつける。ニュースが地震の発生や状況を伝えている。震源は淡路島の北東部地下20kmという。鈴蘭台盆地は停電のため真っ暗である。東の空がわずかに白んできた。6時半出勤の用意をして鈴蘭台駅に向かう。停電であるので電車は動いていないと思われるが復旧状態を見たいとも思い家を出る。途中引き返してきた人に出合い尋ねてみると、復旧の見込は無いというので家に帰る。石油ストーブの回りで暖をとりながらラジオを聞く。刻々と被害の状況が報じられる。神戸地方は震度6であった。高台の公団アパート5階の我が家から付近を見下ろすと、屋根瓦がずり落ちている家がかなり見受けられる。

10時頃、電気がついた。テレビをつける。映し出される光景は想像を超えるものであった。神戸市内の被害はものすごく、8回建ての市役所のビルの上部2階がずれ、渡り廊下が落ちている。横倒しになったビルもある。阪急三宮北側付近の商店街は崩れ落ち瓦礫の山になっている。さらに、阪神高速の高架道路が長さ1kにわたって横倒しになったり桁が折れて落下しているのが映し出される。また阪急電鉄、阪神電鉄は脱線している。新幹線も桁が落下して線路がぶら下がっている。

当分鉄道の復旧は見込まれないのでバイクでの出勤も考えなければとおもうが、この寒さでバッテリーが弱ってしまいエンジンがかからない。バッテリ充電器を買いに五葉町まで歩いて行ったが店は閉まっていた。途中自動車販売店のガラスが割れていたり、傾いた民家もあった。神戸市内のことを思えば穏やかである。
実家や会社の事が気にかかるが、電話は通じない。午後5時頃、岡山の妹から電話がかかってきた。すでに皆に電話したらしく無事であるらしい。 時間が経つにつれ被害の状況が判明し神戸市内、芦屋、西宮、淡路島での家屋の倒壊がひどく生き埋めになった人も多い。死者は1300人を超えた(午後10時現在)。

我が家の南の山の向こうは長田区になっており煙があがって上空に広がっている。火災は夜10時になっても収まらずなお拡大しているようだ。
余震が夜になっても時々感じられる。
午後10時過ぎ、実家に電話が通じた。母の話では、台所の食器棚から食器が落ちその片付けが大変だったという。父の寝ていた部屋ではまわりの本棚やステレオのスピーカが落ちてきたが幸にも父に当たらずけがもなかったという。屋根の瓦は一部ずれ落ちたが、弟がとりあえずシートをかぶせたという。 
現在午後11時であるが、今なお神戸市内では火災が収まっていないという。避難所には多くの人が毛布をかかえて不安な夜を過ごしている。近畿の死者は1456人になった。出勤のための阪急神戸線、JR京都三石間、神戸電鉄は普通で復旧のめどはたっていない。
 気象庁はこの地震を「平成7年兵庫県南部地震」と命名した。

 1月18日 水曜日 晴れ

 地震から1夜明けた。テレビはしだいに明らかになる被害状況を報じている。死者は2000人を超えた。
 朝8時過ぎ、会社に電話をする。F氏がでたが、被害はさほどでなく棚のものが落ちた程度らしい。鉄道の復旧のめどがたたないのでバイクでの出勤を考えるが、バッテリーがあがってしまい使えない。充電をするためGSにもっていくが定休日、バイク店も休みでどうしようもない。

 神戸市内はほぼ鎮火し被災者に対する救護がはじめられている。自衛隊の出動も始まった。
 断水のためペットボトルや焼け残った鍋を持って給水を受ける市民の列が映し出されている。
 午後2時過ぎ、ラーメンで腹をすこし満たし、元気がでたところでもう一度充電器を探しにでかけることにした。北五葉のキッコリーにあった。11800円。会社OBのMさんに出会う。被害はたいしたことはなく、断水している他はいまのところ問題はないという。鈴蘭台公園の水道に市民が水を汲みに来ている。我が家では断水していないので不思議に思いながら帰宅した。家の前でKの友達のHさんに出会う。Nさんのところに水をもらいにいくところだという。家に帰りKにそのことを言い水道を出してみるともう出ない。つまり、今までは給水タンクの備蓄の水をいつまでもあると信じて使っていたのだ。そうと解っていれば、昨夜風呂に入らず貯めておいたのにと悔やまれたがもう遅い。

夜7時頃になって水道局の給水車が小学校の近くにきているという広報車がやってきた。ペットボトル、やかん、水筒を持って列に加わる。冷え込みは厳しく、途中Kが家に長男のジャンパーや私のウィンドブレーカを取りに帰ってくれた。順番がまわってきて我々が入れてもらったあと給水車の水が空になった。3300リットル入のタンクであるからそんなに大勢に配給出来るわけではない。
後の車は30分後になるという。帰宅すると10時半であった。明日は、バッテリーが回復すればバイクで汲みにいくことにする。
 テレビの被害情報は更に拡大し死者は2594人になった。

 1月19日 木曜日 晴れ

 地震から3日目を迎えた。まだ時折余震がきてドキッとする。朝は冷え込みが厳しい。Kは近所の主婦仲間と買いだしにいった。充電したバッテリーをバイクに取り付ける。エンジンがかかるかどうか危ぶんでいたが何とか回った。ガソリンとタイヤのエアーを入れたいがスタンドは乗用車の列がすでに延々と伸びており待っていられない。もう1軒まわってみようと思い「しあわせの村」あたりまで行く。ここのスタンドにも延々と列が出来、最後尾はどこかと走っても行き着かない。おそらく1km以上はあるだろう。あきらめ引き返す。

先ほどの先頭には3時から販売と貼紙がしてある。取り敢えずバイク店によって空気を入れる。飲料水用のポリタンクを買いにホームセンターにゆくが今日は半分閉め列が出来ている。済んだ人は大きなポリバケツを抱えて出てくる。ここもだめと鈴蘭台に向かう。バイクを置いて駅付近を歩く。駅には不通のお知らせが貼ってあり、鈴蘭台以遠は開通したことを知らせている。ダイエーは一部だけ開けており、多くの人の列が出来、買い物を済ませた人は野菜やトイレットペーパーを抱えている。米穀店にいってみたが米はなく午後3時以降に来てくれという。
八百屋にも人の列が出来、自由に並ばなくても買えるのは菓子、化粧品ぐらいのものである。結局何も買わずに家に帰る。

小学校横の公園の水道が出るという広報車のアナウンスがあった。石油用のポリタンクを一部切取りビニール袋を敷き入れ物を作る。長男と二人でバケツ、ペットボトル、ポリタンクを持って入れに行った。20リットル入ともなると重たく休み休み持って帰った。
Kが帰ってきた。水を使わなくてもよいようにポリエチレン製のおかず入れや割箸、パン、バナナ、米、ジュース、コーヒー、竹輪、かまぼこ、ぎょうざ、キャベツなどを買ってきた。Nさんの自動車に便乗させてもらったらしい。

 子供たちは21日まで休校や休園である。もっぱらTVゲームで過ごしている。
 テレビは被災地の復旧状況を伝えている。阪急は大阪から西宮北口まで通じた。大阪方面から大きなリュックを背負った人々が被災地の知り合いに救援物資を届けるため電車内は輸送列車のようであると報じている。焼け野原のようになった神戸付近の鉄道が完全に復旧するのは数カ月から1、2年かかるという。会社(尼崎)までの通勤手段がない。福知山線が開通しているというので明日、三田まわりで会社に行ってみることにする。

 兵庫県南部地震の死者は3600人近くになった。体育館や、小学校の校庭など420箇所で避難生活を余儀なくされている人は27万人という。国道2号線や43号線は渋滞で思うように救援物資を運ぶ自動車が通れないという。大阪では2号線に入る一般車両は止められているが、兵庫県内では監視する警察の人員が足りないため止められず交通渋滞が起こっているという。

 電気やガスはあるものの水道が止まり、調理や風呂に入れず洗面もできない。当分、水を運びあげたり、買い物に並んだりする慎ましい不便な生活を強いられるが子供たちにもよい経験になったであろう。激しい直下型地震で一瞬にして便利で現代的な生活が破壊され、天が下した警告のようにも感じられる。
 夜のニュースでは、世界各国の地震についての反応を紹介している。韓国の新聞は、こんな状態でも暴動や略奪が起きないのは驚異だといっている。日本に対する見方がうかがえ興味深い。

 午後10時過ぎ、Kが「水が出た」と叫んだ。最初は赤い水であったがありがたい。懸命にこの時間も復旧作業に従事されている方に素直に感謝の気持ちが出る。普段当たり前のように思っていたことが今さらのように、大切にしなければと感じられた。

 1月20日 金曜日 晴れ

 地震から4日目。神戸電鉄の北部方面 行が開通しているので地震以来初めて出勤する。
 8時49分発 鈴蘭台
 10時8分発 JR三田
 10時40分発 阪急宝塚発
 会社には12時5分到着した。3時間以上かかった。三田から阪急塚口まではラッシュアワーなみで、特に十三からは西宮北口へ救援物資を持った乗客がおおく1台やりすごさなければならないほどだった。神戸から大阪方面へ向かうにはこれしかない。列車を使った通勤はまず無理だとわかった。料金も、神戸電鉄が500円、JR三田から宝塚までが310円、阪急宝塚から塚口までが200円、計1010円かかる。
 会社の社員関係で気の毒にも数名の死者がでていた。長田区在住者と西宮在住者であった。また長田区のM君の父上が死亡され、葬儀が23日の朝8時30分から三木市志染の自由が丘で行われるので参列を依頼された。
 会社の被害はたいしたことはなかったが、工場内の土間にヒビが入り、液状化現象で水が上がってきているところがあった。神戸以遠の社員はまだ出勤してきていない。
 退社後、実家に寄った。今後、会社への交通手段が正常に戻るまで下宿させてもらう相談のつもりでいったが、弟家族の家がかなり痛んでおり、いずれ今の家を出て実家へ帰るだろうこともあり、無理であることがわかった。会社の手当てしてくれる宿泊施設を利用するかバイクで通勤するしかない。
 夕食をご馳走になり、来たルートで帰宅した。家には午前0時まえに着いた。


もうすっかり忘れていたことが、細々と書かれていた。
関東大震災(1923年)から91年、南海地震(1946年)から68年経過した。
大地震がいつ起きてもおかしくない周期に入っており、大阪、和歌山では防災訓練が行われているようだ。
自分の対策としては限られており、せいぜい寝るところには本棚や箪笥がなく、落ちてくるものを置かないことぐらいだ。

時あたかも都知事選が始まっている。争点は「脱原発」だそうな。唯一、田母神氏が「防災」を謳っているが、マスコミは前の二者のみ、田母神氏を蚊帳の外に扱っている。なんとも変な世の中だ。