落葉松亭日記

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加瀬英明氏「護憲派は70年前から学んでいない」

2015年03月06日 | 政治・外交
2015年は敗戦後七十周年、激動の昭和史がより露わになってきている。

■「加瀬英明のコラム」メールマガジン 2015年3月4日
http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi

 護憲派は70年前から学んでいない

 昨年、宮内庁により『昭和天皇実録』が、発表された。
 宮内庁が昭和天皇の御生誕から崩御まで、毎日の御動静を、克明に編纂した記録である。
 この3月から20巻に分けて、東京書籍社によって刊行される。

 私は必要があって、宮内庁の『昭和天皇実録』発表資料のなかから、昭和20年から昭和26年4月まで、目を通した。この期間だけで、1315ページにのぼった。
 私が衝撃を受けたのは、昭和20年8月14日の記録だった。
 「午前8時58分、御文庫において参謀総長梅津美治郎に謁を賜い、ソ聯邦の参戦に伴う支那派遣軍総司令官への命令につき上奏を受けられる。なお前夜、陸相阿南惟幾は陸軍省軍務局軍事課長荒尾興功ほか陸軍将校5名よりクーデター計画を聴取し、その決行につき具申を受ける。
 この日午前7時、陸相は軍事課長とともに参謀総長に対し、本日午前10時より開催予定の御前会議の際、隣室まで押しかけ、侍従武官をして天皇を御居間に案内せしめ、他者を監禁せんとするクーデター計画(兵力使用第1案)兵力使用第1案の決行につき同意を求めるが、参謀総長は宮城内に兵を動かすことを非難し、全面的に反対する」
 昭和天皇が、戦争を終結する第2回目の御聖断を下された、御前会議の直前に起ったことだった。

 翌日、阿南陸相は陸相官邸において自決したが、あくまでも本土決戦を断行するために、天皇を拘禁して、クーデターを決行することをはかったが、梅津参謀総長によって阻止されたのだった。
 もし、この時、梅津大将がクーデター計画に同意していたとすれば、その後の日本の進路が大きく変わって、日本が無残に壊滅していただろう
 軍や、朝日新聞をはじめとする新聞は、最後の日まで、「神州不滅」「一億総特攻」と叫んでいた。
 あれから70年。国会では、共産党と社民党が「平和憲法を守れ」と、叫んでいる。敗戦の教訓を、何一つ学んでいないのだ。

 護憲の信者たちは、「平和憲法」があるかぎり、日本が万邦無比の神国であると信じて、「神州不滅」だと唱えている。
 昭和天皇は敗戦から25日後に、まだ日光に疎開していた、皇太子(今上天皇)へ宛てた手紙のなかで、「我が軍人は精神に重きをおきすぎて、科学を忘れた」ことが、「敗因」だったとしたためられている。

 今日でも、日本国民は部族的な性格を備えている。
 同質性が高いとか、家族的な国家であるといわれるが、「外人」ということば1つが示すように、外に対して排他性が強い。そこで、日本人は共同体としての純度がきわめて高いといえるが、部族として原始的な凝固力が強く働いている。
 このような部族性は、日本人の意識の深いところに潜んでいる。

 日本人は長いあいだ外国から隔絶されて、日本のなかで生活を営んできた。そこで自国相対化してみる訓練を欠いてきたと同時に、共同体としての純度が高すぎるために、思想的にも日本のなかだけで通用する尺度を、絶対化しやすいし、外の世界の現実から遊離した、部族的な幻想に囚(とら)われやすい。

【昭和天皇実録公表】ソ連参戦が「ご聖断」の直接原因 終戦でリーダーシップ 抗戦求める陸軍を説得 2014/09/09産経
http://www.sankeibiz.jp/express/news/140909/exc1409090930001-n1.htm

 宮内庁は9日、昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」の内容を公表した。事実として確認された言動や、側近らの謁見日時が時系列で示され、これまで諸説あった終戦の「ご聖断」の経緯が明らかになった。

 昭和天皇が最終的にポツダム宣言受諾を決意したのは、ソ連軍が満州に侵攻したとの情報を得た直後で、ソ連参戦が「ご聖断」の直接原因だったとみられる。実録には幼少期の生活ぶりなども詳細に記され、公表により近現代史研究が大きく進むことになりそうだ。
 実録では、連合国が日本に降伏を求めたポツダム宣言を入手した昭和20(1945)年7月27日から降伏の玉音放送が流れた8月15日までの20日間を36ページにわたり詳述。それによると、昭和天皇は広島に原爆が投下された2日後の8月8日、賜謁した東郷茂徳(しげのり)外相に「なるべく速やかに戦争を終結」させたいとの希望を述べた。

翌9日午前9時37分、ソ連軍が満州侵攻を開始したとの報告を受けると、直後の9時55分、木戸幸一(きど・こういち)内大臣を呼び、戦争終結に向けて鈴木貫太郎首相と「十分に懇談」するよう指示。木戸内大臣から天皇の意向を聞いた鈴木首相は、午前10時30分開催の最高戦争指導会議でポツダム宣言への態度を決定したいと答えた。
 10日午前0時3分、御前会議が開かれ、鈴木首相から「ご聖断」を求められた昭和天皇は、ポツダム宣言受諾を決心したと述べた。

 昭和天皇のポツダム宣言受諾決意の時期には、広島や長崎への原爆投下時、ソ連参戦時など諸説あったが、実録を分析した京都大の伊藤之雄(ゆきお)教授(近現代史)は、広島への原爆投下時では2日後に終戦の意向を閣僚の東郷外相に伝えたのに対し、ソ連参戦時は直後に側近中の側近だった木戸内大臣に指示した点を重視。
 「ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」としている。
実録の記述により、連日の本土空襲や原爆投下などで終戦の意向を強めた昭和天皇が、ソ連参戦で万策尽きたと判断。これ以上の犠牲を広げないため、即時終戦に向けた動きを主導した当時の様子が明らかになったといえる。

 また実録では、幼・少年期の手紙や作文を初めて公開。初出のエピソードも多数盛り込まれた。
 一方、即位後の政治的発言や側近らの謁見内容が明かされないことも多く、編纂(へんさん)方針をめぐり議論を呼びそうだ。

 ≪終戦でリーダーシップ 抗戦求める陸軍を説得≫
 「昭和天皇実録」では、昭和20年8月15日の終戦に向け、昭和天皇がリーダーシップを発揮していた様子が、宮中側近や閣僚らの謁見内容などから改めて浮き彫りになった。昭和天皇は戦時中、陸海軍上層部から連日報告を受けており、悪化する戦況を詳細に把握していたことが、終戦の「ご聖断」に結びついたといえそうだ。

昭和19年9月、最初の意思
 実録の中で、昭和天皇が終戦の意思を最初に明確に示したのは19年9月26日。側近の木戸幸一(きど・こういち)内大臣を呼び、「武装解除又は戦争責任者問題を除外して和平を実現できざるや、領土は如何でもよい」などの言葉を述べた。
 木戸内大臣は、これを極秘事項として重光葵(しげみつ・まもる)外相に伝えた。当時は陸海軍とも戦争継続の意思を強く持っていたが、昭和天皇は慎重に終戦への道を探り始めたといえる。
 沖縄戦で日本軍の組織的戦闘の終了について報告を受けた20年6月20日の夜、皇居に放たれた蛍を1時間も見ていたと、実録は記述する。内面には触れていないが、この時、心中に期するものがあったようだ。

 2日後の6月22日、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳(しげのり)外相、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相、米内(よない)光政海相、梅津美治郎(よしじろう)参謀総長、豊田副武(そえむ)軍令部総長を呼んで懇談会を開催。「戦争の終結についても速やかに具体的研究を遂げ」るよう求めた。実録で昭和天皇が軍の最高幹部に戦争終結の希望を表明した記述はこれが初。ただ当時は、条件付きの終戦を探っていた。

ポツダム宣言受諾を決意
 昭和天皇がポツダム宣言受諾を決意し、明確なリーダーシップを発揮するのは、ソ連参戦の情報を得た8月9日午前からだ。10日未明の御前会議で「ご聖断」を下し、その後も元首相の重臣たちを集めて意見を聴取したり、抗戦派の阿南陸相を説得したりする様子が実録に記されている。
 鈴木内閣発足から終戦までの4カ月間で側近らによる謁見回数は、木戸内大臣が最多の102回、梅津参謀総長が55回、鈴木首相が43回など。和平派と抗戦派の意見が錯綜(さくそう)する中、政府や軍部の内情に通じた木戸内大臣の意見も聞きながら終戦へ筋道をつけた。

 土田宏成(ひろしげ)・神田外語大准教授(日本近現代史)は「昭和天皇が終戦を決断するに至ったのは、大規模な空襲や沖縄戦、原爆投下などの惨禍に衝撃を受け、国民や国家の存続の危機を感じたことも一因と考えられる」と指摘している。(SANKEI EXPRESS)