二ヶ月ほど前、コロンビア生まれの世界的作家、ガルシア・マルケスが亡くなったというニュースを耳にしました。
ガルシア・マルケス、そして『百年の孤独』という名前くらいは聞いた事がありましたが、僕は読んだ事がありませんでした。近所の方と話をしている時にたまたまその話題になったのですが、その方がすぐに『百年の孤独』を貸して下さったのです。
50年近く前に出版され、今まで何度もブームが起きたであろう世界的名作について今さら騒ぎ立てるのも恥ずかしい話なのですが…。とんでもない衝撃を受けました。
『百年の孤独』はマコンドという架空の村が舞台で、その村を創建した一族の歴史と村の盛衰をおよそ百年に渡り綴った大長編です。
物語の詳細は省きますが(というか不可能)、コップの水の中に大量の砂糖を入れてグルグルとかき回し、やがて砂糖が溶けていくまでの様子を静かに見守っているような小説でした。
故にもし思春期に読んでいたら、「時代という大きな流れの中では一個人の感情や行動など、どうあがいてもやがて消えゆくコップの砂糖粒のようなものだ」という、変な諦念や虚脱感に襲われてしまったかもしれません。
しかし三十も過ぎてから読んだおかげで、「コップの中でグルグルとかき回される砂糖粒はどうあがいてもその力に抗う事は出来ないかもしれないが、やがて出来あがる砂糖水を構成する小さな一要素くらいにはなる事が出来るのだ」という、むしろ優しさに近いような印象を受けました。
時代の進化と共に技術や環境がどんなに進歩しようとも、そこに生きる人間の愚かさや欲望や運命は相変わらず同じ事の繰り返しなのだと思います。しかしその全く同じ営みの繰り返しをガルシア・マルケスが驚くべき緻密さで描写すると、不思議とそこに感動のようなものが生まれてくる。これこそ、マジックリアリズムという事なのでしょう。
つまり『百年の孤独』は溶けていくコップの中の砂糖を客観的に眺めると同時に、グルグルと回り続ける砂糖自身の視点も持ち合わせている。この事に僕は深い感銘を受けたのです。
(※そしてその視点は何となく、村上春樹のエルサレム賞での有名な『壁と卵』のスピーチに通じているのかもしれない。)
さて、何故このような拙い読書感想文を当ブログで綴っているのかというと…。
僕は常々、「もしかしたら、“片手袋を写真に撮る”という行為自体はそれほどオリジナリティがある行為ではないかもしれない」と思っているんです。事実神戸ビエンナーレ以降、「私も撮ってます!」という連絡を幾つか頂きましたし、路上に片方だけ落ちている手袋の事を気にしている人は結構いると思うんです。
肝心なのはむしろ、「片手袋を通じてどのように世界を見るか?世界をどのように切り取るか?」という事の方なんですよね(なんか壮大な話になってしまっているような気がしますが…)。
その際に、溶かされていく砂糖からの視点、卵の視点。これを忘れないようにしたい、と思った次第であります。
思わぬ所にもヒントが隠されているのが、片手袋研究の面白味ですよね!まあ、ガルシア・マルケスは天国で「おい!『百年の孤独』と片手袋、全く関係ねーから!」と怒ってるかもしれませんが。