神なる冬

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[SF] SFマガジン2013年8月号

2013-07-09 23:35:27 | SF

『S-Fマガジン 2013年8月号』 (早川書房)

 

特集は「日本ファンタジイの現在」。

ファンタジーではなく、ファンタジイなのがハヤカワのこだわり。掲載作は、異世界ファンタジイから怪談っぽい話、ちょっと不思議な話まで様々。

そういえば国産ファンタジイはあまり読んでいなくて、日本ファンタジイ必読作家の中でちゃんと呼んでいるのは小野不由美くらい。

しかし、ここで紹介されているファンタジイ作家と、いわゆるSF作家の違いというのはいったいなんなのだろうか。

SFの定義は科学的であるかどうかと言われるが、特に日本のSFはまったく科学的(疑似科学も含め)でないものも多い。それは(主に)海外ファンタジイの受け皿としてSF界が機能したという歴史的経緯もあるのだろう。

有名な藤子不二雄の「SFとはすこしふしぎの略」という言葉が象徴するように、かつては日本SFと日本ファンタジイの垣根は低く、曖昧であった。

ところが、こうやって日本ファンタジイ作家として紹介される人たちを見ると、SF作家として紹介される人は少なく、比較的棲み分けができているような気がする。例えば、柴田よしきはどう考えてもファンタジイ作家に分類した方がいいような気がするのに、ここでは名前が上がらないとか。

90年代SF冬の時代時に、ファンタジイ界というのがSF界とは別にできてしまったということがあるのだろうか。出版社やレーベルの違いにそれが表れているかもしてない。

ただ、ここに掲載された小説を読む限り、敢えてファンタジイ特集ではなくてもSFマガジンに載ることが不自然では無いように思える。そういう意味では、作家レベルではなく作品レベルでは、SFとファンタジイの親和性は依然として高く、垣根も曖昧なままなのだろう。

ただし、これらの作品は、科学的ではないにしても、論理的であり、その世界の中では合理的な話であるので、そこがSFとの親和性につながっているのだと思う。つまり、ちょっと不思議なことがあっても、ストンと腑に落ちるというか、納得のいく結末が描かれる。納得がいく理由の一部にはもちろん、文化共有の結果である「お約束」があることは間違いない。少なくとも自分は、そういう腑に落ちる感覚というものを好むし、そこにSFとファンタジイの大きな差は感じられない。(そう思うなら、もっとファンタジイを読めということになるが)

ここで、論理的一貫性や、合理性が無くなると、また違う話になるんじゃないか。不条理ものとか、理不尽なオカルトとか。実際のところ、ファンタジイ側では、そのあたりのところはどう考えているんでしょうかね。


「春告鳥」 乾石智子
設定を理解するまでに時間がかかり、物語に入り込むまでに戸惑った。よく構成された世界を楽しむというよりは、登場人物たちの心情を思い計って楽しむ小説。あー、いるいる、こういうやつ。みたいな感じ。

「チョコレートとあぶらあげ Helsingin Repot」 勝山海百合
作中には敢えて詳しく語られない大きな背景がある。お守りを支社と称するのがクスッときた。北欧描写との比較によって、日本とは何か、日本文化とは何かという大きなテーマにつながる掌編。

「廃園の昼餐」 西崎憲
胎児の頃は全治だったという不思議な設定で語られる家族史と世界観。

『フェアリー・キャッチ[前篇]』 中村弦
そんなに長くないのに、なぜか前篇。これが一番、翻訳SF風。

「モデル」 松永天馬
生きる広告であるモデルのまこと。資本主義という宗教。広告主という神様。ステマも何もかもすっ飛ばして、“神様”のいうがまま、なすがまま。現代社会の戯画だが、これを醜悪とみるか、華麗とみるか。