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折れた竜骨

2013-07-27 09:36:46 | SF

『折れた竜骨』 米澤穂信 (創元推理文庫)

 

SFとファンタジーは楽しみの軸が異なる。それと同様に、ミステリとSF・ファンタジーの楽しみの軸も異なる。ミステリとの比較においては、SFもファンタジーも似たようなものなのかもしれない。

SFはIFの物語と言われる。「もし、○○だったら」という仮定から、「××できる」というアイディアを積み重ねて物語は発散していき、読者の想像もしえない世界を見せる。

一方、ミステリ(もしかしたら、本格ミステリだけかもしれない)は、「もし、○○だったら」という仮定によって、「××できない」を積み重ねていく。これにより、条件が狭められ、隠された真実に至る。

そんなミステリとSF・ファンタジーの違いをグルグルと考えさせられるような作品だった。

解説では「ハイ・ファンタジー」と言われているが、あとがきでも著者が「ハイファンタジーではなく」としっかり否定しているように、これは中世歴史ファンタジーではあっても、「ハイ・ファンタジー」ではありえない。なぜならというのも面倒くさい、阿呆なことを言うなレベル。

それ以上に、しっかりとミステリだ。特に、後半残り四分の一ぐらいまでは、魔法、魔術といったファンタジー要素が、いかにも謎解き問題のためだけに与えられた仮定、制限にしか見えない。

まるで、算数の文章問題における「太郎君は時速10Kmで走ります」的なレベル。時速10Kmで走るのだから、時速5Kmではありえないのだよ。なるほど。イメージ的にはそんな感じ。

全編がそれだけで、最後に円卓で謎解きをしておしまいであれば、どんなにミステリとして評価されていても、俺にとっては、いわゆる壁投げ本だっただろう。

しかし、困ったことに、最後の最後に生まれた師匠と弟子の物語はあまりに感動的すぎて、すべてを許せた。

ミステリでありながら、ファンタジー。それは、なんでもありの魔法が存在する世界で読者への挑戦としての謎解きを成立させたことへではなく、あくまでも謎解きミステリでありながら、最後の最後にこの結末を持ってきたという物語の語り部としての手腕を讃える言葉であると思う。

とはいえ、誰も〈走狗〉ではありえない状況ではなく、誰もが〈走狗〉かもしれないという疑心暗鬼の元で、あの結末を迎えた方が、ファンタジーとしては、面白い物語になったのではないか。この展開だと、どうしても謎解き部分が邪魔に見えてしまう。

ところで、〈走狗〉の設定を導入することにより、真犯人、つまり、魔術師エドリックに〈走狗〉を依頼したのは誰か、という視点が無くなってしまっているのはいいのだろうか。これでは、領主ローレントは謎解きのためだけに殺されたようなものではないか!

ついでに、冒頭の衛兵エドウィーを殺したのも誰だかわかりませんが。彼も、孤島という密室に穴をあけるためだけに殺されたわけ?
やっぱり、俺にはミステリは合わないようだ。素直にSF読みに戻ろう。