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暑い暑いこの夏、私の短いクルージングが終わった。 7月からずっと休みだった仕事が、8月20日から再開することになり、1レグだけの乗船になった。
8月16日(金)出港届提出、燃料確保、インペラ交換。燃料フィルタはヨセフがチェックしておいてくれた。8月17日(土)朝5時出港。南からの微風、機走で7kt、下田に向ける。 川奈ホテルまで4時間、順調々々。 稲取あたりから少しは吹かれるかと思っていたが、風は変わらず。 爪木から神子元にかけて強い追い潮・対地9ktを記録、12時半には下田港に入った。
今回のクルージングには大きな楽しみがあった。 長年、計画しながら実現しなかった、清水港のPATIとミートして合同で宴会をすることにしていた。 PATIはSS木・G司が乗る、言わば兄弟船で、彼らは新島からの帰り道、我々と前後して下田に入ってきた。 早速、私たちを訪問してくれて、今宵の宴の打合せ、5時30分スタートが決まった。 食料品・氷などを買い、昭和湯へ。 さっぱりとしてから、おなじみ「いわさ」へと向かう。 そこから先はもう、ヨットマン同志のいつもどおりだが、私は嬉しくて仕方がなかった。 PATIにはGちゃん、我々チームにSW田選手がいて和気あいあい、話が弾んでいた。二人は1992年のハワイKENWOODCUPで選考に漏れた、というか、人数枠の関係で私が選考しなかったというのが正しい言い方になる。 その二人が20数年後もこうしてヨットを続けていて、この下田で一緒に酒を呑んでいる。 何と素晴らしいことか、私にとっては罪の意識を和らげてくれる感動ものだ。 翌日の朝食はPATIが準備してくれることとなり、お開きとなったが、GちゃんとSW田選手が二人でお互いのチームの財布を開いてお会計をしていたのが印象的だった。
翌朝、約束どおりPATIに横着けして「美味しい日本の朝ごはん」をいただいた。 食生活はPATIのほうが数段上である、という事実、我がチームの食に改善の余地あり、という反省はあったが、短くも楽しい私のクルージングは終わった。
PATIは次の目的地「妻良・子浦」へ我らのRydeenは「新島」へと向かい、私は伊豆急行の電車に乗った。 いい夏休みになった。
暑い暑いこの夏、私の短いクルージングが終わった。 7月からずっと休みだった仕事が、8月20日から再開することになり、1レグだけの乗船になった。
8月16日(金)出港届提出、燃料確保、インペラ交換。燃料フィルタはヨセフがチェックしておいてくれた。8月17日(土)朝5時出港。南からの微風、機走で7kt、下田に向ける。 川奈ホテルまで4時間、順調々々。 稲取あたりから少しは吹かれるかと思っていたが、風は変わらず。 爪木から神子元にかけて強い追い潮・対地9ktを記録、12時半には下田港に入った。
今回のクルージングには大きな楽しみがあった。 長年、計画しながら実現しなかった、清水港のPATIとミートして合同で宴会をすることにしていた。 PATIはSS木・G司が乗る、言わば兄弟船で、彼らは新島からの帰り道、我々と前後して下田に入ってきた。 早速、私たちを訪問してくれて、今宵の宴の打合せ、5時30分スタートが決まった。 食料品・氷などを買い、昭和湯へ。 さっぱりとしてから、おなじみ「いわさ」へと向かう。 そこから先はもう、ヨットマン同志のいつもどおりだが、私は嬉しくて仕方がなかった。 PATIにはGちゃん、我々チームにSW田選手がいて和気あいあい、話が弾んでいた。二人は1992年のハワイKENWOODCUPで選考に漏れた、というか、人数枠の関係で私が選考しなかったというのが正しい言い方になる。 その二人が20数年後もこうしてヨットを続けていて、この下田で一緒に酒を呑んでいる。 何と素晴らしいことか、私にとっては罪の意識を和らげてくれる感動ものだ。 翌日の朝食はPATIが準備してくれることとなり、お開きとなったが、GちゃんとSW田選手が二人でお互いのチームの財布を開いてお会計をしていたのが印象的だった。
翌朝、約束どおりPATIに横着けして「美味しい日本の朝ごはん」をいただいた。 食生活はPATIのほうが数段上である、という事実、我がチームの食に改善の余地あり、という反省はあったが、短くも楽しい私のクルージングは終わった。
PATIは次の目的地「妻良・子浦」へ我らのRydeenは「新島」へと向かい、私は伊豆急行の電車に乗った。 いい夏休みになった。