オールドヨットマンの残日録・ZANJITSUROKU

相模湾に育てられて60余年、ヨットレースや仲間との思い出を大切に、これからの日々を健康で明るく楽しく、絵日記に綴ろう。

2013忘年会シーズンに突入

2013-11-28 13:05:07 | 日記
 11月27日(水)、今年最初の忘年会が横浜であった。「ケンノスケカップレース」の忘年会、これにヨット塾、お茶の会の「戯風」のメンバーが加わった。 ヨットデザイナー林賢之輔さんを教祖と仰ぐ方々の集まりで、今年でレースは18回、忘年会は5回目を数える。 遠く仙台や静岡から泊りがけで駆けつける人もいて、45名が集まり、ブログ「あうんの日記」のK里さんの司会で始まった。 

 林さんは、ご存知のとおり日本を代表するヨット設計者の一人で、日本チャレンジチームにも在籍、J-SAFの計測・技術の責任者を務められ、今春、その功労により表彰もされた。
 林さん設計の艇は質実剛健、長距離航海者に絶大な信頼があり、昨今の輸入艇とは一味も二味も違う。このため中古艇が市場に出回ることはなく、あっても右から左へ、人から人へ受け継がれていく。

 私が20代の半ば、ようやくレース艇のクルーになった頃、何レースか一緒に乗りいろいろ教えていただいた。先日、林さんのお宅を訪ねた際、一枚のパネル写真を見せていただいた。 林さん、渡邊タクさん、IG嵐選手などとともに私が写っていて、40数年前を懐かしく思い出した。 その後、私はアチコチの艇へ、林さんはご自身の事務所を構えられ別々となったが、遠くから私の活動を見ていてくださったようだ。 一昨年からヨット塾のお手伝いをさせていたただいている。

 林さんは一見、静かで優しそうだが、意志が強く、ガンコなところもあり、時にはズバリと叱ってくれる、私にとって大きな存在です。 酒を愛し、お茶を好み、人を大切にする。 加藤さん、渡邊タクさんが向こうへ行ってしまった今、いい先輩に巡り会えた、と感じているところです。


3人トラピーズのカッ飛び艇、不発に終わる

2013-11-24 21:32:15 | 日記
新しいチャンネル

 11月24日(日)沼津フリートの最終戦が行われ、前日、沼津に向かった。 今回はダイゴロー選手が所用で来れず、旧友のSK井選手が参加、青雲グループSG本兄弟オーナーの艇で呑もうということになった。 グルメシェフのSG本っちゃんの「ブイヤベース」をメインにビールで乾杯、ワインへと、楽しい夜が進んでいく。 夜、いい風が吹いていた。

 昔、新橋ヨットクラブというグループがあった。 新橋の「石狩」という店の大将・故亀谷さんとともに熱くヨットレースを語り合い、JSAFの前身NORCでレースを企画したり運営した仲間たちだ。 その仲間のSG本っちゃん、SK井選手、そして私が一緒に乗るということで、昔話に花が咲いた。 そこへ隣の艇の石GMさんが登場、彼は沖縄レースで「チサト」のクルーで、SG本、SK井と一緒に乗り組んでいたので、沖縄レースの話でまた盛り上がった。

 さて、翌日のレースは・・・。 若くて美人のSN田さんとその父上とともにレース海面に向かう。 10時30分、あるかなしかの風の中スタート、大瀬崎沖の第一マークを目指した。 微風の中、絶好のポジションをキープ、トップ回航か・・。
 しかし、風は定まらず振れまわり、第一マークは回ったもののタイムリミット、残念な結果となった。
 私はNo.1トラピーズの担当だったが一度もハイクアウトすることはなかった。

 SG本兄艇は42ftの素敵なクルージング艇、弟艇はマジック25という5人乗り3人トラピースという尖んがった艇、この組合せが素晴らしいではありませんか。
 70歳までトラピーズを目標に、また来年チャレンジしたいと考えているところであります。
 

 

荒川を溯る

2013-11-07 20:19:22 | 日記
新しいチャンネル

 東京港の小型船の仕事に就いて3年目に入った。 東京港といっても範囲は広く、新都心エリアの運河、隅田川・荒川などの河川も含まれている。実際に運河や川を航行する船舶は多い。 遊覧船・屋形船から、建設工事の資材を運ぶ船、工事に関わるクレーン船、パワーショベル(ゆんぼ)を積んだ船などなど・・・。 昨年から今年にかけて隅田川沿いの中学の建て直し工事があり、3ケ月ほど通ったこともある。 

 今回、縁あって荒川を溯る仕事になった。 夢の島ヨットハーバー前を通って荒川河口に出る。 そこには首都高速湾岸線の橋である荒川湾岸橋があり、南は東京湾、北は荒川である。 葛西橋・船堀橋などいくつもの橋や鉄橋をくぐって上がっていく。  川幅は結構広いが岸近くは浅いので真ん中を航行する。
 20kmほど上がると岩淵水門がある。 隅田川のはじまりの水門だが、もともと隅田川が荒川で、今の荒川は明治43年の大洪水を契機に大正から昭和の初期にかけて人力で造られたものだそうだ。 荒川と呼ばれるぐらいだから暴れ川でたびたび水害をもたらしていたらしい。 そこで20年もの歳月をかけて荒川放水路を造ったという。 ブルドーザなどなかった時代、膨大な工事であったことが想像できる。 決断・実行したスケールの大きな政治家がいた、ということか、などと考えながら上がっていった。 25km上がった戸田橋近辺が今回の目的地で、ゆったりとしたのどかな風景がそこにあった。