オールドヨットマンの残日録・ZANJITSUROKU

相模湾に育てられて60余年、ヨットレースや仲間との思い出を大切に、これからの日々を健康で明るく楽しく、絵日記に綴ろう。

富士山レース@沼津

2013-08-26 11:34:02 | 日記
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 8月25日(日)富士山に見守られる海面でヨットレース、という趣旨で「富士山レース」が沼津で開催されました。 世界文化遺産に登録されたのを機に、ということから始まったけれど、昨年までは「タモリカップ」の名で行われていたものです。
 私と我がチームのダイゴロー選手は、ここ何年かこの沼津のレースに参加していて、今回もいつもの船「青雲Ⅹ」に誘われ、前日からおじゃま虫になって楽しいひとときを過ごすことができました。
 青雲グループは、自作艇からスタートした沼津ではその名も知られたSG本兄弟のチームで、古くは関東のレースにも参戦して花の大島レースで優勝したこともあります。  静浦のいちばん奥の多比ヨットクラブに艇を置いている。 お兄さんの素敵な43ftの隣に弟の尖んがった25ft艇が置いてあり、兄艇に宿泊し弟艇でレースに参加するのが常です。 手入れの行き届いた兄艇は、サロンにオーディオ・TV・銘酒、IHクッキングの設備が完備していて、とても居心地がいい。  弟艇はというと、マジック25というクラスで5人乗艇でそのうちの3人がトラピーズに乗ってブッ飛んでいく、という両極端な組合せです。 オーストラリアと香港では盛んにレースが行われているとか・・。
 SG本さんがスキッパー、私はメイントリム、ダイゴローはトラピーズ。それに素敵な親娘がトラピーズにぶら下がります。
娘さんのMHさんは高校ヨット部時代に海外遠征の経験の持ち主、このメンバーで一昨年のタモリカップでは総合優勝を果たしています。(エッヘン!)

 今回のレースは、あいにく雨で微風、ブッ飛んでいく場面はありませんでした。 前半はビリ争い、マーク回航後の後半は振れ回る風・ブローをうまく拾って中団艇の前に出ることができました、が時すでに遅し・・・。巨大なジェネカーも活躍の場面がありません。   雨でレース中の写真がないのが残念です。 大砲は多比ヨットクラブ前にあるシンボル、実際に撃ったことがあるらしい。

 表彰式・パーティでは、自分たちのレースをもう一度自分たちの手で創ろう、という活気があり、パーティにもいろいろ工夫が施されていて、沼津のヨットマンの気骨を強く感じました。

 前夜のオーナーシェフの美味しいイタリア料理とワイン、尖ンがった船でのレース、素敵な仲間と楽しく過ごすことができました。 次回は10月、ジムに通ってトレーニングをしないと・・・・。

 

クルージング・2013

2013-08-19 15:40:50 | 日記
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 暑い暑いこの夏、私の短いクルージングが終わった。 7月からずっと休みだった仕事が、8月20日から再開することになり、1レグだけの乗船になった。 
 8月16日(金)出港届提出、燃料確保、インペラ交換。燃料フィルタはヨセフがチェックしておいてくれた。8月17日(土)朝5時出港。南からの微風、機走で7kt、下田に向ける。 川奈ホテルまで4時間、順調々々。 稲取あたりから少しは吹かれるかと思っていたが、風は変わらず。 爪木から神子元にかけて強い追い潮・対地9ktを記録、12時半には下田港に入った。
 今回のクルージングには大きな楽しみがあった。 長年、計画しながら実現しなかった、清水港のPATIとミートして合同で宴会をすることにしていた。 PATIはSS木・G司が乗る、言わば兄弟船で、彼らは新島からの帰り道、我々と前後して下田に入ってきた。 早速、私たちを訪問してくれて、今宵の宴の打合せ、5時30分スタートが決まった。  食料品・氷などを買い、昭和湯へ。 さっぱりとしてから、おなじみ「いわさ」へと向かう。 そこから先はもう、ヨットマン同志のいつもどおりだが、私は嬉しくて仕方がなかった。 PATIにはGちゃん、我々チームにSW田選手がいて和気あいあい、話が弾んでいた。二人は1992年のハワイKENWOODCUPで選考に漏れた、というか、人数枠の関係で私が選考しなかったというのが正しい言い方になる。 その二人が20数年後もこうしてヨットを続けていて、この下田で一緒に酒を呑んでいる。 何と素晴らしいことか、私にとっては罪の意識を和らげてくれる感動ものだ。 翌日の朝食はPATIが準備してくれることとなり、お開きとなったが、GちゃんとSW田選手が二人でお互いのチームの財布を開いてお会計をしていたのが印象的だった。 
 翌朝、約束どおりPATIに横着けして「美味しい日本の朝ごはん」をいただいた。 食生活はPATIのほうが数段上である、という事実、我がチームの食に改善の余地あり、という反省はあったが、短くも楽しい私のクルージングは終わった。
 PATIは次の目的地「妻良・子浦」へ我らのRydeenは「新島」へと向かい、私は伊豆急行の電車に乗った。 いい夏休みになった。

銀座~花火大会の反省会へ

2013-08-19 09:36:40 | 日記
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 8月14日(水)、東京湾花火大会の警備にあたった仲間と反省会をやろう、ということになった。旧盆の真っ最中だったが、忘れないうちに、ということでこの日になった。 せっかく東京まで行くのだから、少し早めに行って懐かしの銀座でも歩いてみようと・・・。  銀座はサラリーマン生活最後の12年を過ごした会社があり、楽しい思い出がある街だ。 有楽町から四丁目の三越へ出て、そこから裏道を新橋へと向かった。 銀座の楽しみは裏通りにあると思う。 表通りの松坂屋は閉店していたが、美味しいやきとり屋、絶品のおでん屋、文人・画家が好む蕎麦屋さんなどは健在だった。 明治の初めに国策として創られた煉瓦街は1万5千平米もあったとか、その一部が記念碑として金春通りに保存されている。 2年前までいた街を確かめるように歩いて新橋にでた。 待合わせ時刻には全員の顔が揃った。 お盆と急な話ということもあり、今日は4人、AoxxグループのKW島さん、フリーライターのKNさん、元内閣府のSG崎さん、と私。 新橋烏森口の店に納まった。 反省点については、既にペーパーにして中央区役所のほうに提出してあったが、その再確認、熱のこもった意見が百出し、杯が進んだ。同じ仕事の仲間として考え方を合わせておきたいという気持ちがあり、人の話をよく聞いてくれる人たちだ。 あっというまに午後11を過ぎ、各々の電車に向かったが、よく話し、よく聞いたせいか、呑んだ量のわりにはシャンとしていた。 この仕事の仲間は、現職・前職を含めて「異色の集まり」で話の興味は尽きない。

東京湾花火大会の裏方

2013-08-11 12:26:40 | 日記
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8月10日(土)第25回東京湾大華火祭が催され、今年も裏方のお手伝いをさせてもらった。私自身は2回目で、先日中央区役所での事前会議にも出席したが、港湾関係の会社・組合、観光協会、町会連合、各政党など、たいへんな数の会社・団体の協力により、実行委員会が組織・運営され、12000発が打上げられた。
 私は海上警備と観覧船の誘導・安全確保を担当した。 当日は3時に家を車で出発、5時に辰巳を出港、6時15分業務開始~夜11までの長丁場である。 私の乗る船は48ft・250hpの作業補助船で38人乗り、当日は二人乗務、長い一日になるのでパートナーを気心の知れたM編集長にお願いした。 6時に本部から当日の標識・備品・無線機2台・お弁当を積込み早速、霞のかかった海面へ。 7時、花火を打上げる台船が引船に引かれてやってきた。 大きな台船が3ケ所にアンカーで固定され、周囲をブイで囲むと、保安エリアとなって航行禁止区域となる。 始めの仕事は、この保安エリアの警備で、通行しようとする船にマイクで知らせる。 中には無理やり通ろうとするレジャー船がいるが、先まわりして頭を押さえることもある。 根拠として、港則法37条に基く京浜港長の公示により規制区域となっています、という説明を用意しておいた。  午後、観覧船の指定エリアがブイで設定され、それぞれABCDEと小型船に区切られる。 午後3時、保安エリアの警備を他船に引継ぎ、小型船エリアに移動した。

 海上での花火観賞は、協賛していただく額でA~Eに区切られ、Aの大型船からDが屋形船、Eが一般プレジャーボートとなっていて、それぞれの標識旗を揚げるが、標識旗を持たない船は小型船エリアを案内する。  小型船エリアの警備を7艇でチームを作って案内・誘導するが、私の船がその指揮船に指定されたので、案内・誘導のほか、他船との無線連絡、本部との連絡など、食事をする間もない大忙し、通称「テンテコ」ってやつだ。 案の定、観覧エリア外の航路にアンカーを下ろしてビールを飲みながら花火を待っている船がある。 近づいて、ここでは観覧できないと説明するが、ガンとして動こうとしない。罵声を浴びせてくるが淡々と説明し、本部に連絡。 警察の船が3艇で取り囲んで移動させた。 結構ハードな仕事だけれど、こんなところで昔の経験が役にたち、警察と本部からご苦労様といわれ、少し「ヤッタゼ感」を感じることができた。
Dエリアで花火を見る、と言っていた恵比寿にあるヨット関連A社のA社長から電話があったが、回線の混雑か話はできなかった。

 午後6時50分、打上げ開始。 周囲の歓声・どよめき・拍手にもかかわらず、花火なぞ見ているヒマがない。 次々とくる観覧船を誘導して、指定の位置にアンカーを下ろしてもらうが、アンカーに慣れていない船が多く、ハラハラしながら様子をみて安全確認をしていく。  午後8時10分、あっという間に花火は修了、今度はお帰りの誘導で「ゆっくりお帰りください」を繰り返す。「おうちに帰るまでが花火大会で~す」とやってトラブルにならないよう7艇で叫びつづけた。 
疲れとともに空腹・のどの渇きを感じ、水を一本ガブ飲みした。 
 やがて観覧艇はいなくなり最終確認、本部に戻っていったが、ここでは備品類を返しにきた関係者の船でゴッタ返していて、帰港したのが夜11時、片付けて、半分居眠り運転で家に着いたのが午前1時半、シャワーに飛び込み遅い遅い夕食となった。 今日一日でどれくらいの汗をかいたのだろう、などと考えながら長い一日を振返った。

 あの暑い日差しの中、1台の台船の上に80人、3台で200人以上の花火師が朝から準備をしていて、大量の氷、弁当や飲み物が次々と運び込まれていった。 台船は鉄板でできている、世の中には凄い仕事があるものだと驚き感心した。