1970年代から80年代、日本の外洋ヨットレースが最も熱い時代だったと思います。
沖縄返還をきっかけに始まった「沖縄~東京」レース、1978年に相模湾・佐島で開催された「クォータートン世界選手権」と前哨戦の選考レース。
そして各艇の海外レースへのチャレンジなどなど。
「神子元島レースには60艇、鳥羽パールレースには150を超える艇が参加した時代です。
頼りになるヨットマンのことを「アイツは潮ッ気のあるヤツだ」などとささやかれていました。
その熱い時代を相模湾で過ごした私、当時は夢中でしたが今は幸せないい時代を過ごしたと感謝しています。
その「沖縄~東京レース」、私的には第2回から第6回まで連続5回参加しました。(第1回は本部運営)
サトちゃんとは、1978年の第4回と1980年の第5回を一緒の船に乗りました。
そしてそして、2回とも「総合優勝」を果たしたのです。
サトちゃんはもとよりセーリングのプロ、私の主な仕事は、天気と気圧の動きに注意をはらうことと、海上保安庁との定時無線交信(ロールコール)の結果、ライバル艇の位置を確認・海図上にプロットすることでした。
あまり喜怒哀楽を表に出さない人でしたが、さすがに優勝の時はうれしそうでしたね。
おかげで3カ月間毎日「乾杯・乾杯」の連続で浴びるように呑んだものです。
その「沖縄~東京レース」以降、一段と二人の距離が縮まったように思います。
困ったときはサトちゃん、何かにつけてサトちゃんになりました。
亡くなって3週間がたち、今は感謝の気持ちでいっぱいです。
「サトちゃん、ありがとう」 ゆっくりと休んでください。
沖縄返還をきっかけに始まった「沖縄~東京」レース、1978年に相模湾・佐島で開催された「クォータートン世界選手権」と前哨戦の選考レース。
そして各艇の海外レースへのチャレンジなどなど。
「神子元島レースには60艇、鳥羽パールレースには150を超える艇が参加した時代です。
頼りになるヨットマンのことを「アイツは潮ッ気のあるヤツだ」などとささやかれていました。
その熱い時代を相模湾で過ごした私、当時は夢中でしたが今は幸せないい時代を過ごしたと感謝しています。
その「沖縄~東京レース」、私的には第2回から第6回まで連続5回参加しました。(第1回は本部運営)
サトちゃんとは、1978年の第4回と1980年の第5回を一緒の船に乗りました。
そしてそして、2回とも「総合優勝」を果たしたのです。
サトちゃんはもとよりセーリングのプロ、私の主な仕事は、天気と気圧の動きに注意をはらうことと、海上保安庁との定時無線交信(ロールコール)の結果、ライバル艇の位置を確認・海図上にプロットすることでした。
あまり喜怒哀楽を表に出さない人でしたが、さすがに優勝の時はうれしそうでしたね。
おかげで3カ月間毎日「乾杯・乾杯」の連続で浴びるように呑んだものです。
その「沖縄~東京レース」以降、一段と二人の距離が縮まったように思います。
困ったときはサトちゃん、何かにつけてサトちゃんになりました。
亡くなって3週間がたち、今は感謝の気持ちでいっぱいです。
「サトちゃん、ありがとう」 ゆっくりと休んでください。
偶然ネットでサトちゃんに関するブログを見つけて
ビックリしております。
私は45年以上前の学生時代サトちゃんにお世話になりました。訃報は風の知らせで聞いておりましたが、写真を拝見し懐かしさでいっぱいです。学生時代にシンキロウというホランド3/4tで沖縄レースに出たのは良い思い出です。たしか1978年だったと思います。優勝はしてないですが・・・。(途中リタイアで鳥羽に入りました) ほんとに懐かしいです。では シンジ 67歳