1月17日にサトちゃんが亡くなってから2週間、ずっとサトちゃんのことを考えていました。
思い出などという安易な言葉ではいい表せない50数年です。
ここ何年か、私の顔を見るたび、電話するたびに「おいでよ」と誘ってくれた「座間味レース」、ポスターも彼がくれました。
サトちゃんと私は第1回座間味レース(1978年)一緒に乗って優勝しました。
5年前彼が沖縄に移り住んでから毎年お誘いをしてくれたのですが・・・。。
ちなみに、このレースの本部運営はO蔭兄がやっています。
今年のレースには行こうと思っています、彼の散骨のためにも。
20代の後半から30代半ばにかけて一緒に乗っていた「旭Ⅱ」(S&S36)です。
この写真は相模湾ポイントレース、スタートから葉山のマークまでダントツでした。
復路のスピンランでは、ニュージーランドの「クリス・ボウサイド」の乗る「サンバードⅡ」にやられてしまいました。
この写真は、故岡本甫さんの撮影、「舵誌」にも大きく掲載され、また、劇画ゴルゴ13のワンシーンにもこれと同じ絵がでていました。
数年前、舵社がカレンダーにしたもので捨てられません。
この艇では、サトちゃんのほかKCCの通称ゲゲ、ブッシュ、現在はセールメーカーのIG嵐選手たちと多くのレースに出場、「神子元レース」などでも優勝、油壷時代の思い出がたくさん詰まっています。
今から30年近く前、私が勤務していた会社の記念行事で、社員だけで海外ヨットレースに参加するという企画が持ち上がり、私がチームキャプテンとして任された時のこと。
ヨットが初めての社員も含めて2年間トレーニングをしましたが、サトちゃんには技術的なこと・精神的なことも含めてずっと助けてもらいました。
ときにはやさしく、ときには「バカヤロー」と言ってひ弱なチームを強くしようとしてくれたのです。
そして1992年のハワイ「ケンウッドカップ」には同行してくれて、3日間帆走しつづける「カウラレース」には一緒に乗ってもらいました。
そしてその「カウラレース」はニュージーランド・オーストラリアチームを抑えてクラス優勝でした。
3年前東京で、海の仲間「のこさん」(アオレレチーム)のお別れ会のとき、彼は沖縄から花を贈ってくれたのです。
明るい「のこさん」のイメージに合わせて「ひまわりを」と指定したのはサトちゃん自身だそうです。
これからも思い出すたびに紹介しようと思います。
思い出などという安易な言葉ではいい表せない50数年です。
ここ何年か、私の顔を見るたび、電話するたびに「おいでよ」と誘ってくれた「座間味レース」、ポスターも彼がくれました。
サトちゃんと私は第1回座間味レース(1978年)一緒に乗って優勝しました。
5年前彼が沖縄に移り住んでから毎年お誘いをしてくれたのですが・・・。。
ちなみに、このレースの本部運営はO蔭兄がやっています。
今年のレースには行こうと思っています、彼の散骨のためにも。
20代の後半から30代半ばにかけて一緒に乗っていた「旭Ⅱ」(S&S36)です。
この写真は相模湾ポイントレース、スタートから葉山のマークまでダントツでした。
復路のスピンランでは、ニュージーランドの「クリス・ボウサイド」の乗る「サンバードⅡ」にやられてしまいました。
この写真は、故岡本甫さんの撮影、「舵誌」にも大きく掲載され、また、劇画ゴルゴ13のワンシーンにもこれと同じ絵がでていました。
数年前、舵社がカレンダーにしたもので捨てられません。
この艇では、サトちゃんのほかKCCの通称ゲゲ、ブッシュ、現在はセールメーカーのIG嵐選手たちと多くのレースに出場、「神子元レース」などでも優勝、油壷時代の思い出がたくさん詰まっています。
今から30年近く前、私が勤務していた会社の記念行事で、社員だけで海外ヨットレースに参加するという企画が持ち上がり、私がチームキャプテンとして任された時のこと。
ヨットが初めての社員も含めて2年間トレーニングをしましたが、サトちゃんには技術的なこと・精神的なことも含めてずっと助けてもらいました。
ときにはやさしく、ときには「バカヤロー」と言ってひ弱なチームを強くしようとしてくれたのです。
そして1992年のハワイ「ケンウッドカップ」には同行してくれて、3日間帆走しつづける「カウラレース」には一緒に乗ってもらいました。
そしてその「カウラレース」はニュージーランド・オーストラリアチームを抑えてクラス優勝でした。
3年前東京で、海の仲間「のこさん」(アオレレチーム)のお別れ会のとき、彼は沖縄から花を贈ってくれたのです。
明るい「のこさん」のイメージに合わせて「ひまわりを」と指定したのはサトちゃん自身だそうです。
これからも思い出すたびに紹介しようと思います。