鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

文化の意味

2015年03月09日 00時00分01秒 | 提言

 過激化集団のイスラム国がイラクのハトラ遺跡、古代メソポタミアの文化遺産等を破壊しているという。偶像崇拝を禁止するイスラム教義に反するということが理由らしいが、定かなことは判らない。ユネスコの世界文化遺産は歴史を知る上でも未来に残す人類の宝として大切にされなければならないと誰しも思っていたところである。アルカイダが数年前に行ったとされるミャンマー、バーミヤン遺跡の石仏破壊は記憶に新しいが、同様な破壊行為は決して許されることではない。破壊すればその遺産の復元は難しく、残すべき文化は再現できないからである。

 

 文化とは人間集団の構成員に共通する価値観を反映した物心両面にかかわる活動の様式や総体のことで、それによって作り出されたものである。狭義では、生産活動と必ずしも直結しない真善美の追求、知識や知恵の伝達、感動を与える等の高度な精神活動も含む。すなわち、学問・芸術・宗教・教育・出版などの領域をいう。いわゆる精神文化である。広義では日本猿が海岸で芋を洗う行為など、高等動物が後天的に特定の生活様式を獲得することも含める場合がある。

 

 文化が人間にとって如何に大切で、日常と係わりがあるかがよく分かるが、人類は文明の物質的な恩恵を最大限利用してきていて、文化生活、文化住宅等快適さ、至便な状態のことを指すこともある。

 

 宗教活動の一環とされる偶像崇拝の禁止をどのように捉えるかは判断の分かれるところであり、二律背反(同一の前提から導き出される二つの判断が矛盾して両立しないこと)として何処かに矛盾性を持つと考えられる。アラビア語で偶像のことをサナム・ワサンというが、イスラム教では偶像崇拝を禁止している。サナムは石材、木材、金属素材を持った身体を持つ偶像をいい、ワサンは画像などを含める。

 

 ムハンマドがメッカを征服する前のアラビアには多くの部族がいたが、中には偶像を崇拝していたようで、理念的なイスラム法では異教徒の中に偶像崇拝者や多神教徒に対し、改宗するまでがジハード(聖戦)とされている。遺跡等を破壊する行為が、偶像崇拝を戒める聖戦であるとする排他的な宗教観が排除できなければ、今後も破壊行為が正当化される危険性がある。

 

 穏健派といえども宗教を指導する立場にある者や、法学者がどのように判断しているのか破壊行為だけを制する話ではないことは自明の理である。


偏見と風評被害

2015年03月08日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 世の中には最もらしい話や偏見に充ちた考えや言動が随所に見られる。誠に残念なことであるが、一度信じた話や宣伝等はその真意を知るまでは、なかなか改められないことも事実で、風評などもその類である。偏見は公正を欠く見解のことで、いわれ無き偏見を打破しなければならない。風評は良くない噂(うわさ)のことで、そこに居ない人を話題にし、あれこれということであるが、どちらも、事実かどうか疑わしいので、興味本位に行われ、言いふらすから始末が悪い。

 

 特に事件があると、対岸の火事ではないが、他人の不幸を話題にし、偏見や風評を話す者も多い。閉鎖社会で有ればあるほど、話題に欠くのであろう。陰口を言うことを常としている機会に出くわすこともある。噂をすれば影とやらで、いわれている人がひょっこり現れ、話題を変えて、居づらくなり、そそくさとその場を去る。見苦しい話であり、いわれた人にとっては苦汁を嘗める思いであろう。これでは人間関係は決して良くならない。

 

 東北、北関東を襲った震災後、4年が過ぎようとしている。、津波で稼働が停止した原子力発電所は、放射能汚染を引き起こし、未だ残留放射能の除去や、原子力本体の撤去に多大な労力が投入されている。しかしながら、汚染水の海洋への流出問題、汚染で削り取った残土の貯蔵等、解決できていない問題も多い。汚染基準以下の被爆地で生産された農作物や、安全の範囲にある海産物等は、風評被害に遭い易く、思うように復興に繋がっていないようである。

 

 更には、復興予算の未消化の状況が公表され、この原因は、2020年に開催予定となっている東京オリンピック開催に係わる建設との競合があるようで、建設資材の高騰と建設に従事する作業員の不足であるといわれている。汚染された土地の残土処理は、作業員に蓄積する被爆もある。優先させるべき工事も発注できなければ予算執行できない。

 

 偏見・風評被害は、情報不足がもたらす世界なので、関係自治体等が正しい実態を繰り返し伝える必要があるし、理解が深まり多くの人々が納得できれば、収束に向かう。一方、工事の遅延は国家政策として積極的な政府の介入無しには改善できないであろう。

 

 川崎区の多摩川河川敷で起きた、未成年者による殺害事件の捜査は完全には終わっていないが、被害者の家庭が母子世帯であったことで、子供との接触時間が少なかったこと等、事件の発生の前兆を捉えられなかったことが悔やまれる。総ての母子家庭に対する偏見を持たないように気を付けて推移を見たい。


啓蟄の日

2015年03月07日 00時00分01秒 | 提言

 季節を表すのに地中の虫が冬眠から覚め、地上に這い出してくる日のことを啓蟄(けいちつ)といっている。何とも微笑ましい。地域によっては積雪が多かったために、雪下ろしや雪崩など、雪国ならではの対策に始終していて、それどころではないのかも知れないが、春の気配を感じることは出来る。

 

 啓蟄は二十四節気の一つで、1年間を春夏秋冬の季節に分け、それを3月に分ける。更に一月を半分(15日)に節気と中気を割り当てている。中国伝来の陰暦で、季節を区分するために用いていた。我が国でも季節に関する天気予報等で使われている。啓蟄は、太陽暦で今年は3月6日であり、年によって数日前後する。

 

 二十四節気の始めの節気は正月節で、二月は二月節啓蟄、三月節清明などと名前が付いている。中気は正月中雨水、二月中春分、三月中穀雨である。この二十四節気は太陽の位置を地球の定点から見た場合に、春分を0度とし、黄道上を15度ずつ24等分すると360度で一周するため、1年を二十四節気とするのは合理性がある。

 

 ノンビリしていると感じるが、啓蟄を眠りから覚め、活動開始の契機として、仕事を始めるという意味もあるようで、それは兎も角、我が国の会計年度や学校制度の春に新学期が始まり、3月末学期を終える3学期制は、正月を新学期としなかったのは、何か意味があるのであろう。四季と人間の活動サイクルが関係しているようで、新学期を啓蟄から受け入れ準備を始めると丁度4月が新学期としたのは偶然だけではないようである。

 

 自然界の1年のサイクルは体調にも影響し、時計がない時代においても、体内時計があり、生誕や死亡、恋愛、日々の睡眠や生活リズムなど、人類誕生から太陽の日の出、日の入り、月の満ち欠けと多いに関係があるようである。陰暦がそのリズムに合っているといわれ、現在でも例えば、魚種による捕獲時期、樹木の伐採、種まきの時期や刈り取りなど漁業や農業には欠くことが出来ない。

 

 病は気からというが、精神的な意味と捉えがちであるが、自然のリズムを基にした二十四節気が中国で誕生し、長い歴史を持っていたことを考えると自然のリズムに戻すことが病から逃れ、健康を取り戻す秘訣のように感じている。あながち、二十四節気は現代に使えないと排除する必要はないのかも知れない。


トリミング

2015年03月06日 00時00分01秒 | マニュアル

 野鳥の写真では望遠レンズを使うため、写した画像は画面全体の一部の場合が多く、余分な部分を切り取って、構図を決めなければならない。この操作をトリミングといっている。最近では、ペットの犬など毛を刈り込み、形を整えることにも使われている。

 

 トリミングを行うには、画像をパソコンに取り込んだ後、専用ソフトを使って画像編集する。通常、カメラ本体に内蔵しているメモリーに撮影された画像が、JPEGファイルとして記憶される。プロ撮影者ではRAWファイルとして記憶する場合もあるが、プリントするデータはJPEGなので、印刷する場合にはJPEGにする。

 

 画像編集機能の一部を紹介すると、階調、赤目補正、トリミング、アスペクト比、モノクロ変換、彩度調整、リサイズ等がある。今回はトリミングについて考えてみたい。基本的なことであるので、芸術性を極端に重点に置いた操作ではない一般的なことを述べたい。取り込んだ画像を1:1の大きさ(原画)にするとトリミングの限界が判る。画像を原画データ以上に引き延ばすことはしない。この段階でピントが合っているか合っていないかをチェックし、合っていないものは削除する。

 

 画像に白飛び(ハレーション:フィルムに入射した光が強すぎ、受光素子のデータが消える現象)が起こっているものは編集不可能なので、これも削除する。逆に画面が暗すぎる場合も露光が足りないため、編集が難しい。逆光で撮った画像(コントラストが強くなりすぎる)も難しい。

 

 トリミングするときの注意点は、まず、画像が傾斜していないことである。強調すべき画像を中心に置き過ぎない。日の丸画像といわれている物で、左右、上下の中心から若干位置を変える。窮屈すぎる画像は周りに余裕を持たせる。目線を意識する。目線の方向は広めにする。変化を付ける。黄金分割を意識し、画像の配分を考える。奥行きも大切な要素であるが、望遠レンズを使うと遠近感が無くなる。

 

 使用するレンズによって歪んで見えることもあり、魚眼レンズのような画像は、好みにもよるが多用しない方がよい。広角レンズの画像も歪みやすい。

 

 要は、画像の構図の取り方であるトリミングを行うことによって、目的とする被写体の使用目的、表現をどのようにするかの結果を想定して行う。この操作も回数を重ねることによって、芸術性も増し、自分らしさを表現できるようになる。


甕(かめ)の共鳴

2015年03月05日 00時00分01秒 | 紹介

 水琴窟に関連する事で思い出したが、音を増幅させることはアンプの機能であり、波長を大きくすることが出来る。イコライザーやフィルターは、音が持つ様々の周波数を操作し、人間にとって雑音として嫌われる音はカットする。良い音は増幅し、最適な音に加工できる。波長毎に操作することになる。残響(エコー)にも関係する。

 

 波長が共鳴することはマイクロフォンをアンプやスピーカーなど近づけると、金属的な高音が発生する場合があり、ハウリングと呼んでいる。家屋の中にいて、上空をヘリコプターやジェット機が横切ると、爆音で、水屋の扉や、窓ガラスが共振する。気持ちがよいものではないが、音は空気の震動を引き起こし、波長となって伝播していることが判る。

 

 祖父が職業軍人であり、祖父に教わり、幼少期から剣道を始めた。中学・高校と続けていて、途中で止めたが、今でも時々運動のためと思って、素振り用木刀を振ることがある。剣道場の床は板張りで、床下には甕が埋めてある。剣道は竹刀を振りかざし、相手の面を狙って打ち込むが、併せて足は床面に対し踏み込む。このときの音は、床下の甕に届き、反響するといわれている。

 

 同様なことは能舞台でも使われている。能は幻想な雰囲気を醸し、舞と語りと謡曲が奏でる世界である。舞手の足裁きは独特で、足拍子を執る。このときの音は、本舞台下に埋めてある複数の大甕による音響効果を高める働きをするようである。また、本舞台だけでなく、舞手が出入りする本舞台までの橋掛かりにも設置されている。

 

 良く写真撮影に行く神代植物園は名刹の深大寺と接していて、境内にある鐘楼は、火災によって消失し、今あるのは、明治期に再建されたものである。この鐘楼の基壇の上にはやはり、大甕が埋まっているとのことである。銅製の鐘はそれ自体が共鳴するように作られていて表面の凹凸模様が発生する音の周波数を広げる。鐘と同じ甕形が、地中にあり、共鳴の効果を作っていると思われる。

 

 科学の実験で良く出てくるヘルムホルツの共鳴器があるが、空洞を持つ物が共鳴することは実験済みである。多くの楽器なども共鳴することや共振することによる音質の変化は名器という世界を産んできた。アンプがない時代、古代劇場では壁に壺を埋め込んだという。音の性質をどのようにして、誰が考えついたのか、古人に対し、想いを馳せるばかりでなく、音の世界は誠に奥が深い。


水琴窟

2015年03月04日 00時00分01秒 | 紹介

 江戸時代初期の作庭家で、小堀遠州が考案したとされている。小堀遠州は、徳川家康に仕え、近江小室に1万石を与えられた大名であり、茶の湯を古田織部に学び、遠州派を開いたことでも知られている。また庭園としては、大徳寺の孤蓬庵や桂離宮も手がけている。

 

 水琴窟という名称の語源は確かな記録はないが、洞水門(とうすいもん)伏鉢水門などと同じ使途で、庭園で使われている。手水鉢や蹲踞(つくばい)の水はけ構造物のことで、そこに風流を入れて考えられたのが水琴窟である。素焼きの甕(かめ)を逆さに伏せ、地中に埋める。底が上面になり小さな穴を中央に開けて、水滴が落ちるようにし、伏せた甕には水面が出来るように工夫したもので、水滴が水面に落ちた音で反響して良い音を奏でる。

 

 この原理は、鍾乳洞の中で、水面に落ちた水滴が反響するのと同じである。水琴窟では甕の容量が小さく、音が小さいため、甕を二重にし、竹筒等で音を地上に誘導することもある。甕の側面に水面を作るため穴を開けて、溜まった水に水滴が落ちるようにし、オーバーフローした水を外に流す。土に埋めてしまうため、数年に何回かは埋まった土砂等を取り除く必要があり、メンテナンスの必要性もある。

 

 手水鉢や蹲踞は俗世を離れて茶室に入る前に必ず露地である茶庭で口をすすぎ、手を清め、心を正すために用いるが、蹲踞は、「そんきょの姿勢:相撲の力士が取り組む前に行う姿勢、旅人が世話になる一宿一飯の挨拶に使われる姿勢、おひかえなすって!」人が膝を曲げてかがみ込む姿勢となるためこの名前が付いている。蹲踞には清水を、割竹を使って引き込む筧(かけい)が付いている。

 

 最近では愛好家も多いようで、我が家の庭に水琴窟を埋め込む御仁も多いとか、京都では屋敷の中に坪庭を作るが、そこにも簡易な水琴窟やししおどしを設置していると聞いている。春節で中国、台湾、東南アジア等から観光に来日される外国人が多くなっているようであるが、海外に誇れる我が国の生活習慣、文化、伝統等も知って貰う良い機会でもある。

 

 水滴の醸し出す音色や竹筒が水の作用によって、石に当たる響きは、何とも心を落ち着かせる効果があるようで、一時の清涼感を味わうことが出来る。多分これも日本の伝統文化であり、後世に残したい芸術といえるかも知れない。


終の棲家

2015年03月03日 00時00分01秒 | 日記

平成27年3月2日 

 誰しも何れ訪れるこの世との別れは生前にその準備を行っておく必要があるといわれている。そういう自分もことさら深く考えたことはない。この歳になって知人や親戚の不幸に接する機会が増えたように感じるが、卒寿を迎えた叔母が一人住まいの自宅で倒れ、幸いに、知人が訪問した折りに異変に気づき、急遽救急車で、地元の広域病院へ運ばれた。発見が早かったせいか、大病には至らずに済んでいるが、予断は許されない。

 

 数日前に従兄弟に当たる子息からの電話では半身に麻痺が残り、脳の出血は完全には除去できないため、血液が脳を圧迫していることが原因してか、記憶や言動に若干の異常があるとのことであった。この先、しばらくの入院生活が続くことになるが、完治できることを期待している。既に叔父は他界していて、従兄弟がたまに実家へ帰るが、完治した場合であっても車いすの生活が続くことになるであろう。

 

 叔母は以前から現在の自宅を終(つい)の棲家としたいといっていた。万一病となっても広域病院で最後を迎え、周りの者に迷惑を掛けたくないと気丈であったが、本人の言葉通りに進んだとはいえ、親戚として、どうしたものかと推移を静観しているところである。 地域には地域の持つ様々な制度の中で、最善を尽くすことが求められ、対応していることは承知しているが、大切な点は周りが余り口出すことは控えるべきで、どのような支援が出来るのか模索中であり、限られた選択肢しかないのも事実である。

 

 過疎化していて人口が急減している地域も多くなっている。都会においても独居老人が増え、誰も看取ることがないまま他界する人もいる。終の棲家は一人では暮らせない実態がある。喩え、リホームをして、車いすでの生活が出来るように改築したとしても、一人住まいでの車いすの生活では限界がある。公的な介助や支援制度が充実してきたとはいえ、ホスピスのような最後まで看取ることが出来る施設に入らない限り難しい状況である。

 

 以前のブログでは、いざというときのために準備をしておく必要性を紹介したことがあったが、具体的に何をしておくべきか改めて模索中である。人それぞれ考え方は異なるが、残された者への思いは誰しも同じと考え、頭の整理のために書き出してみることから着手しようと思っている。


事件の視点

2015年03月02日 00時00分01秒 | 提言

 

 

 川崎区の多摩川河川敷における中学生殺害事件が起きた。現在、真相解明、原因究明、再発防止策等は警察の調査中であるので、その結果を待つことになるが、誠に悲惨で、犯行に携わった個人又はグループは若年者といえども、厳正な処分が下されることであろう。そうでなければ、死亡した子供が浮かばれない。

 

 死亡した生徒は13歳。地方からの転校生である。この辺りに歪な村社会の痕跡を見ることが出来ると思った。転校生がいじめのターゲットにされるのは今に始まったことではない。自分も親の仕事の関係で、小・中学校時代に何度か転入、転出を経験した一人である。都会であれ地方であれ、転勤が無くならない以上、義務教育中では、転校生の件数は人事異動しない企業に比べ、転勤する家庭は少ないが、全くなくなることはない。

 

 人事異動という制度は、多くの国家公務員・企業や、全国的な組織を持つ企業では採り入れている制度である。県内であっても学区が異なれば移動しなければならない。親に扶養されている生徒は自分の意志にかかわらず発生するわけで、転出や転入を拒否できない立場にある。

 

 しかし、転校した後の環境の中で起こった今回の事件はどう考えればよいのであろうか。制度はあっても、転校生の身の安全まで配慮されているとはいえない状況にあることを知る必要がある。今回の事件は残念であったとされるのは転校生が置かれている村社会の閉鎖性や村八分が多いに関係していると思えるからである。よそ者というラベルを貼られ、頼れる仲間を見つけられ、与えられた環境へ溶け込めればよいが、そうでなければ、いじめに遭うか、登校拒否となり、引きこもるしかない。

 

 今回の事件では、対立するグループ同士の闘争に巻き込まれた可能性も否定できない。地域社会が平穏であれば問題発生も少ないであろうが、仮に、地域内で対立していた場合には大人同士の対立感情は子供にも及び、子供へのいじめも極端になる可能性もある。対立の連鎖は警察沙汰になる場合もあるし、偏見を生み、差別に繋がる感情問題も発生する。

 

 不良グループが、対立している構図では、大人の冷静な行動の余地は少なく、弱肉強食関係を産み、間違った治外法権の中で、仲間意識を増長させ、暴力闘争を繰り返すのである。組織的な暴力は、エスカレートし、殺人事件まで至ってしまう。今回の事件の根底にある村社会の閉鎖性にも、考えを広げて欲しい。犯罪に手を染めた者の断罪と共に、隔離、排除、または更正だけで解決できる類(たぐい)の問題ではないのである。