アオサギもいつも多摩川にいる大形の野鳥です。鳴き声は余りよい響きではありません。
バレンタインデーに孫から貰ったお手製のクッキーやチョコレート、そのお返しの日が14日という。そのいわれはよく分からないでいるが、女房の意見では「小遣いでよいのでは」といっていたが、昨日孫を連れ出して、映画鑑賞に出かけてくれた。そこで孫の意見を聞いてチョコレートをプレゼント用に購入してくれた。自分はメッセージカードに一言書いて孫に手渡した。
いつも思うのであるが、お返しは意外と気を使うものである。頂き物はありがたいが、そのお返しは、世間相場なるものがあっても、相場自体が示されているわけではなく、双方の関係が関係するので、その都度悩むことになる。誕生祝いや、結婚式のご祝儀は一方通行なのでさほど気を使わなくても済むが、毎年欠かさず送っているお中元やお歳暮は同じものというわけにはいかず、大量に送ってくる分厚いカタログを見て、選ぶのも億劫になってきた。
欠礼の葉書も送られてきても、時間が過ぎ、その時期になると忘れてしまい、同じ事が繰り返される。上司などでは、退職後3~5年は続けることにしているが、ご健在であれば、先立たれてしまうまでと思うところである。親類も多くが無くなり、それを機に欠礼することにしているが、これも双方の関係の深さであろう。
プレゼントはいくつになっても嬉しいもので、頂いたときの感動を大切にしている。送る側であっても、受け取って頂く相手にとって、意外性や、必要な物等を考える余裕は人生を豊かにしてくれる。余り律儀に考える必要はないのであろう。プレゼントは、本来、お返しを期待するものではないのであろう。宗教性が裏にあり、喜捨することは仏教、イスラム教やキリスト教世界では日常行為として定着している。
プレゼントが形を変えて、災害義援金や、ボランティア活動に通じることは、人類の知恵を凝縮した行為である。東日本大震災時には生活必需品に至るまで被災地に送られた方が多い。そこには宗教的な意味ではなく、自然発生的に我が国が誇る相手の身になって出来ることをするという相互扶助の考え方であった。
戦後、70年を迎えようとしている。戦争による被災地で被害に遭われた民間人への戦後補償という考え方が新たに発生している。戦争がもたらした国難から脱した今、生き残った者の意識がそこへ至ったことは大変意義深く、「お陰様で」という想いは生存者の被災者へのお返しであり、美徳といっても良いであろう。
カモメが数羽飛来します。河口まで15キロメートルぐらいありますが、このところ必ず数羽来ています。たぶんマルタウグイの遡上に合わせてくるのでしょうか?
年度末に近づく時期、国民健康保険は効かないが、年金生活者に対しても健康診断を窓口負担額1200円で受診案内が年度当初、市の健康福祉局地域福祉部保険年金課から郵送される。早く受診すればよいのであるが、年度末ギリギリの受診が続いている。
受診項目は、身体検診、身体計測、血圧測定、血液検査と尿検査である。一定の基準に該当すれば、貧血検査、眼底検査、心電図の健診が行われる。この他にガン検診についても別料金が発生するが、受診可能である。特に市民であれば、子宮ガン健診は20歳以上、他のガン検診は40歳以上となっている。その他の健診には肝炎ウイルス検査、骨粗鬆症検診、歯周病検診がある。健康な生活を送るためには年に1度の検診を受けることは大切であるが、現職の時の成人病検診を最後にガン検診までは行ってこなかった。
現職の時の成人病検診は、職場で指定された病院があり、そこに申し込んで受診した。始めの頃は武蔵小杉駅前にあった総合病院であったが、人間ドックを独立して行っていた。1泊することで検診項目は終わる1泊二日コースであった。スリッパには「人間ドッグ患者用」と書かれてあった。黙っていれば良かったが、どうも気になって婦長さんに申し上げた。
「別棟で人間ドック用に使うのであれば、スリッパに何も書かなくても良いのではないか、ドッグとあるが、ドックの間違えで、患者用とはどうしてなの?」と質問した。質問の意味が分からなかったようで、「ドッグは犬、患者になるかは検診の結果次第で、始めから患者と決めるのは如何なものか」と説明した。ようやく判ったようで、翌年受診したときには何も書かれていなかった。
その後転勤で別の病院で受診をしたが、半日で総ての検査項目が終わるコースに切り替えた。相変わらず1泊2日コースを受ける同僚は多かったが、検査にかこつけて、平素の疲れを取る場であったようである。眼底検査で目がかすむ状態ではあったが、検査翌日には検査結果の説明だけであったので、さほど病院と自宅とが離れていなかったため、半日コースで自分は十分であったと記憶している。
一度大腸検査を行ったことがあり、その結果、ポリープが複数個発見され、摘出したが、良性であったため、安心したことがある。当時と比べ、検査機器も精度が高まっているので、億劫がらずに健診をお進めしたい。
行動の規範として道徳感や善悪の基準のことであるが、道徳とは何か、善悪の基準を何に求めるべきかを通して社会的存在として人間の在り方を研究するのが倫理学である。倫理感、倫理的などの言葉で表すが、倫理をわきまえて行動するかどうかはその社会の成熟度によって、また、時代背景によっても変わってくる。道徳は社会生活の秩序を保つために一人一人が守るべき行動の規準のことである。
学生時代に担当の教授から、「教養がないなー、そんなことでは娑婆では許してくれないぞ!」などと叱られたものであるが、今になって言わんとしたことがよく分かるようになった。要は倫理感に乏しかったのかも知れない。社会の規範は、その社会にはいることによって、自ずと理解できるのであるが、最近の世相は倫理に欠ける凶悪な犯罪が止むことを知らずで、政治家の政治資金規制法を逸脱する行為、高齢者を狙うオレオレ詐欺や振り込み詐欺、ストーカーやDV(ドメスティックバイオレンス)、誘拐、薬物依存による交通災害等々、数えるときりがない犯罪は、何れも社会常識からかけ離れ、利己的な行為であり、全く倫理に欠ける社会人として恥ずべき行為である。
倫理と良く混同されるのが論理である。論理学では、正しい判断や認識を得るためにものの考え方のパターンを研究する学問で、与えられた条件から正しい結論が得られるための考え方の筋道、すなわち論理を展開することである。永田町の論理、論理の飛躍等と使われる。また、現象を合理的・統一的に解釈する上で認められる因果関係のことも言う。
論理的に物事を考える方法を論法と言うが、よく使われる三段論法に代表される。論理的と言えば、前提とそれから導き出される結論との間に筋道が認められて、納得がいく様子のことである。日頃から文章に接することが多いが、物事を直感的に捉えることは大変大事であり、その通りなのであるが、果たして発信する側の意図まで十分にくみ取っているかは疑問である。
時間が許せば、論理的に考えてみると良いと思う。目的は何であるか、誰に向けての発信か、前後の文脈から論理の飛躍がないか等4W1Hで検証する必要がある。更に全体を通じて起承転結が明確で有れば申し分ない。
偶然であったが他に見るべきテレビ番組も無かったため、チャンネルを変えていたところ、辻調理専門学校の初代校長であった辻静雄氏(1933年生まれ、1993年3月2日没)の特集(昭和偉人伝)が放映されていた。BS朝日午後9時からの2時間番組であった。自分が見たのは辻静雄氏の部分で、途中からであったが、大変興味をそそられる内容であった。
結論から申し上げると、教育の在り方としての神髄を実践した生き様は多いに称讃されるべきで、模索が続く学校教育の今後の在り方に対し、示唆に富んでいたことである。辻氏は早稲田大学文学部フランス語学科を卒業後、新聞記者をしていて、結婚されていたが、奥様の御尊父が辻調理学校の創設者であり、新たに設置する調理専門学校を任されるようになった。
専門性を必要とする学校であるため、一からフランス料理を学ぶことから始め、我が国では数少ない調理専門学校に作り上げた。番組では成功に至るまでのご苦労話が殆どであったが、一流のフランス料理シェフをフランスから招き、講師とすることや、指導員訓練にも手がける。食材も一流の食材を海外から調達し、惜しげもなく教材に使い、1指導員には10人の受講生が付くとする少数精鋭の学級編成を行い、自らもフランス料理をフランスへの留学で体得する。自費でサロンを作り、著名人を集めて、受講生の実戦訓練の場としたこと等、数多くの教育訓練上の工夫と人材育成を行ってきている。その間に多くの著作に手がけ、将に留学で体験したレシピに基づく教育訓練がなされ、卒業生は1万5千人に上り、揺るぎない一流の調理学校に仕上げた。
感銘を受けた点は、受講生の訓練終了後の目的がはっきりしていること、教育訓練の場が実践であり、実物教材で、現場の一流の指導者を抱え、指導体制が強固であり、即就職に結びついていることである。調理師等の職場では古くから技(わざ)は盗んで獲得するものであるとの不文律があったが、その脱却のため、タブーとされた手の内を示すことによって、この悪癖を取り除いたことである。
更に、職業人としてのマナー、知識、技能、技術をマスターすることで、人は更なる挑戦と人間性の向上に目標ができ、終わりのないことを強調されていた。将にその通りで、多くの企業での企業内訓練の衰退が決して我が国の将来を明るくしないのは確かなことである。大半の地方大学が地域に根を下ろした実践教育の場となるように、早急な変革を期待したい。このことは過疎化に良策がない現状の打破に、職住接近という一石を投じることになる。
放課後であったが、些細なことから相手と対面した。相手の術にはまり、言いがかりを付けてきたため、手を出したことが一度だけあった。相手の顔面へパンチが炸裂した。メガネを掛けていたため、メガネが割れて、相手は顔面血だらけとなった。担任が飛んできて、全面的に暴力を振るった自分が悪いと判断され、しばらくの間、自宅謹慎となった。相手の傷はたいしたことはなかったのであるが、以後、自分にはちょっかいを出すことはなくなった。話によれば、この中学で兄貴が番長であったそうである。これでは根本的な問題は解決しないのである。
幸い、いじめは現在では大きな社会問題となっている。自分が生徒であった当時であってもそのような状態であり、現在ではもっと凶悪な状況が生まれている。教職員・スクールカウンセラー等も、警察とのパイプを強くし、学校だけで解決できるとしないで、犯罪を未然に防止する手だてを行うべきで、英断を持って対処しなければ、逆恨みによるいじめはエスカレートし、いじめの連鎖は続くことになる。
転勤族に申し上げたい。ご子息やご令嬢が、いじめられている徴候が少しでもあれば、見過ごさず、即刻学校や学校を管轄する教育委員会へ相談し、改善しなければ警察に申し出て、いじめの芽を摘む努力を、自らが行う必要がある。泣き寝入りをすれば状況はますます悪くなり、我が子が、不登校、引きこもりや精神障害になることをお伝えしたい。
数十年前のことを申し上げたが、ではその後の悪ガキはどのようになったかといえば、加害者の立場は、被害者になったものもいる。歳を重ねても親分肌を続けている者もいるが、周りで見る目は異なり、反社会的な犯罪に走る者、負債を抱え、倒産した者等末路は淋しい限りであり、掛ける言葉もないが、若くして起こしたことの重大さを反省しているように思える節が無いわけではない。だが、残念ながら、性格は簡単には変えられない。
社会からはもっと厳しい制裁があった者もいる。己の若かりし過ちは若気の至りだけでは済まされない。友達を失い、信頼関係まで失う生き方を余儀なくされているように見える。因果は巡るで、覆水盆に返らずの格言通り、過去に起こしたいじめ等の加害は正当化できるわけもない。
いじめにあった被害者が、生涯忘れることなく、受けたこころの傷の重さは、加害者である本人には気づかなくても、決して消えることはない。その場限りなどでは決して無く、55年過ぎた今でも、心に焼き付いているのであるから、加害者も被害者も心の傷は消すことが不可能で、単純な話ではないことを付け加えておきたい。(このシリーズ最終回です)
なかなか撮影できなかったオオバンの足(弁足)をカメラに収めました。通常見かけるオオバンは水面が多く、足を見ることは出来ませんでした。今回浅瀬で撮れました。ツル目クイナ科なので水草を歩けるように、それにしても大きな足です。
今思い出すとこれほど理不尽な話はない。転校を余儀なくされるということである。自分も父親の転勤に伴い、小学校3回中学校2回の転校を経験した。異分子が入ってきたら拒絶されるのは世の常である。義務教育に学区制が引かれていた時期であった。小学校の複数校が中学校に集約されるが、入学する生徒と在校生とは、遊び仲間や、兄弟、姉妹がいる場合もある。地域においては何らかの接触があるため、顔なじみであるが、転校生の場合は同級生であっても見知らぬ者ばかりであり、四面楚歌の状況にある。
先ずは、転校生は言葉になまりやアクセントが異なるため、会話で苦労する。服装や髪型(地方は丸刈りが殆どであった。)、持ち物等学校毎に違いがある。昼食も異なり、弁当持参か給食なのかでの違いもある。母親が朝早く起きてこしらえた弁当ですら勝手に喰われるのである。異なることによるねたみか、排除の洗礼を受ける。
特に判断が付かないのは人間関係である。中学生ともなると、ボス的存在の悪ガキが必ずといって良い程いるのが当たり前で、ヤクザ組織ではないが、ボスを中心に、取り巻き連中がいる。対抗グループもあり、教職員の判らないところで、いじめや、けんかが絶えない。人生の縮図ではあるが、当然、悪ガキどもは地域の不良グループとの関係もあり、グループ同士が拮抗していれば大きな騒ぎにはならないが、何かの理由でバランスが崩れると、勢力地図が塗り替えられるのは大人の世界と変わりがない。
「眼(ガン」を付けた」「肩が触った」「からかわれた」等些細なことでけんかを引き起こされ、それが契機となって、いじめやグループ同士のけんかにまで発展する場合があり、刃物や、チェーンなどの武器となるものも所持し、時として殺傷沙汰となる場合もある。そこには、教職員が入る余地はない。中学生といえども大人顔負けの悪辣な行動が繰り広げられる。
けんかが高じて、痣や血を流し、骨折などすれば、外見が変わるため、教員の目にとまるが、原因が何であれ、けんか両成敗で、職員は深入りしない。そこには表面に現れることは極僅かで、転校生やおとなしい生徒など弱い立場の者が犠牲を強いられる。転校当初から様々なちょっかいに手を焼くが、我慢し、子供ながらこらえたが、心胆を嘗める繰り返しが続く。手を出せばこちらの負けである。(次回へ続きます)
「文化の意味」で申し上げたかったことは、特定集団ばかりではなく、偶像を崇拝する宗教はイスラム教を除き、キリスト教、仏教、ヒンズー教等殆どの宗教が内包しているため、対立関係にある点を申し上げたかったのである。イスラム教の偶像崇拝を否定することに、問題の所在があるように思える。しかしながら、7世紀に誕生したイスラム教と他の宗教とは対立を内在しながらも、21世紀に至るまで表面的には共存してきたように見えるが、そうではなかったことである。イスラム教だけでなく、一神教や他の宗教・宗派でも、存在を強固にするための戦略では、異教徒に対する改宗や抱え込みに力を持って制圧した歴史を持つことを忘れてはならない。
文化の側面から考察したのであるが、信教という自由性と破壊行為が結びつかなかったからである。今回、二律背反で結論としたが、これでは武力闘争に発展することの真の理由としては弱い様な気がする。何故に、イスラム国、タリバンやアルカイダなどの過激派といわれる戦闘集団が勢力を増すのであろうか、世界各地に飛び火したテロと称される破壊行為が遂行されるのであろうか、疑問が湧いてくる。
仮説として考えなければならないことは、宗教戦争に名を借りた別の戦略がある。例えば、利害関係、戦略兵器の効果実験、特定国の支援、埋蔵資源の確保、ホロコースト、それぞれの関与者の保身、戦略地図の塗り替え、民族の優位性、過去の怨念・復讐等。それぞれは紛争の終結による記録として、いずれ明確化されなければならない。有志連合においても、参戦する目的は国によって異なり、自国の平和の維持だけではない、利害関係があると思われる。なぜならば、国際連合に加盟している諸国が、協議し、その結論として、紛争の解決に動いていないからである。
各国が認めるとされる国際法(国際連合憲章、国際連合平和維持活動に対する協力に関する法律等)が尊重され、機能していれば問題の解決に向けてのテーブルは用意され、何らかの交渉で答えは見いだされる。今世紀に入り、宗教対立と思われる紛争は激化の様相を呈し、中東地域ばかりではなく、アフリカ諸国にも飛び火し、戦闘状態となっている。紛争の相手は国同士ではなく、イスラム教過激派と呼ばれる武装集団やイスラム国に賛同する組織である。そのことが問題解決を難しくしているのかも知れない。
我が国においても信教の自由は基本的な人権として憲法で保障されている。同様に政治の場に宗教を持ち込むことも禁止している。勿論、宗教による犯罪やテロ行為は如何に教義上の理由があり、正当化されてもオウム真理教サリン事件が示すように、厳罰に処せられる。時同じくして、国会で憲法第9条に係わる改憲論が進んでいる。自衛隊が行う平和維持のための積極的な関与であるが、これも我が国にとっては大変重い判断をしなければならない局面となることが予想されている。