gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

空回り

2017-07-03 21:32:04 | 日本語脳
>今は流行らなくなりましたが、昔、学校で、夢を持ちなさいと言われたことがある人は多いと思います。

私もあります。’いつでも夢を’ という歌までありました。

>今思えば、言っている教師側も聞いている生徒側も実際何を言っているのか理解しないまま、空っぽの言葉だけが繰り返されていたことがよく判ります。

夢とは、見ることはできても、触れることは出来ないものでしょう。はかないものですね。これは、日本人の伝統的な夢の考え方です。

>夢とは一体なんだったのでしょうか。

民族によりその内容は違うのでしょうね。

>よく「夢を持て」という言葉を聞きます。ただ漫然とその日を過ごすよりも、将来の夢を持っていることは、やりがいにつながっていきます。その夢と志とは似ていますが、意味合いには多少の違いがあるように思われます。>「私の夢は家を建てることです」とは言いますが、「私の志は家を建てることです」とは言いません。

‘志す’ (こころざす) とは、’思い立つこと’ でしょう。

> 夢は個人的な願望ですが、志は世のため人のためという願いが込められています。「~がほしい」「~がしたい」という夢を語る人は多いのですが、高い志を持って生きている人はどれだけいるでしょう。

かつてアメリカに、人種差別撤廃の夢を語った有名な牧師もいましたね。

>お金や物、地位や名誉を得ることだけを願うのは寂しい気がします。

それは、現実しか知らない人でしょう。今だけ、金だけ、自分だけの処世術に従って生きている人でしょう。浅薄な人ですね。

> 地球環境や世界平和のためとまでいかなくても、少しでも身の回りの人たちの役に立ちたいという願いをもって生きていけるといいと思います。そこから生きがいが生まれてくることでしょう。【道を求める:和田善明師】

各人が移行すべき未来の世界の内容を脳裏に描くべきですね。内容は非現実でありますから、奥が深いです。



>私たちがかつて夢という言葉を使っていて、漠然とどこか違うと思いながらもそれが何処から来るものか判らなかったと思います。

西洋人と日本人では、夢が違いますね。彼らは、未来時制の文章内容を使って夢を描きます。日本語には、未来時制はありません。ですから、この種の夢は理解できません。

>引用した文章読むと「夢」という言葉が極めて個人的なものだということがよくわかります。

生理現象の夢は個人的なものでありますが、哲学の夢は大同の夢になる可能性があります。世界観の有無が前者と後者の違いになっています。
大同になった内容には、小異を捨てて協力する同志が得られる可能性がでてきます。夢は現実を動かして正夢になるでしょう。希望が湧いてきます。

>そしてそれは「個人主義」や「自己実現」同様に自我全盛の時代の、従って空回りが必然の言葉だったからこそ違和感があったのだということが今になって思い至る気がします。

我々一人ひとりに個人の哲学が必要ではありませんか。一人ひとりの哲学を護るためには個人主義が必要ですね。
哲学を語るためには、言語に時制というものが必要です。日本語文法には、時制というものがありません。
ですから、翻訳文化は空回りします。



.








重箱の隅

2017-07-03 11:16:34 | 教育
>リンクより引用。
> ***

>つい先日、あるwebマーケティング会社の方々から、 「社外の専門家を雇ったのだけど、本当にうんざりした」という話を聴いた。>「なぜ?」とお聞きすると、「とにかく仕事ができないので、チームの雰囲気を悪くする。」という。>しかし、当然ながら「仕事ができない専門家をなぜ雇ったのか?」というギモンが浮かぶだろう。> 私はそれを聞いた。すると彼らは、 「いや、知識だけはすっごいあるんですよね。分析ツールとか、統計とか。異常なほど詳しい。本も出したりしている。」

この専門家は暗記もので鍛えたのですね。

>「なるほど。ではなぜ「仕事ができない」と感じたのですか?」> 「その人さ、問題を指摘するだけで、全然改善案を出せない専門家なんですよ。」> 「そういうことですか。」> 「例えば、webサイトを見て、あそこが悪い、ここもダメ、っていう指摘はめちゃめちゃうるさいんですよ。でも、「じゃあどうすれば改善しますか?」と聞くと、何も出てこない。」

論客は、ああでもなければこうでもないと力説する。では、どうであるかということになるが、自分はどうであるかを決して言わない。自分には、考えが無いからである。

> 「なるほどw」> 「しかも、異常に細かい部分にこだわるんです。サイトの全体設計の話をしている時に、ボタンの位置やレポートのフォーマットの話とか、「今そこじゃねーだろ」って、ツッコミたくなるわけですよ。」

小異を捨てて、大同につくことが事態の進展を図ります。議場に大同を示す人がいなければ、小異の議論から抜け出すことは難しい。

> ******

>そういえば、私も同じような経験をしたことがある。
>ある営業業務改善のためのミーティングで、「引き合いの分析」をしていたときのこと。> 過去数カ月分にわたる、引き合いの一覧表を、まだ若い管理職がグループの皆に配布し、「受注率を上げたいと思っているのだけど、過去の失注したお客さんに何か傾向はないか」と訊ねた。>すると、一人のベテラン営業マンがすかさず「ここの漢字がまちがってますね」「このシート見にくいですよね」と、表のフォーマットにケチを付け始めた。>その管理職は落ち着いて、「何が見にくいですか?」と聞いたが、そのベテランは「いや、見る人のことを考えたら、もうすこしスッキリさせるでしょ」というだけ。> 管理職は「具体的に何処を直せば良いですか?」と聞くのだが、そこに意見は言わない。

論客は、ああでもなければこうでもないと力説する。では、どうであるかということになるが、自分はどうであるかを決して言わない。自分には、考えが無いからである。

>その若い管理職は内心はイラッときていたと思うが、表情には出さずに、 「フォーマットは後で直します。失注したお客さんについて気づいたことは……」と再度皆に聴き直す。>しかし、先ほどのベテランは再び、「あ、このお客さんの担当、別の人ですよ」と、本筋とは関係のない指摘をする。皆はうんざりしており、場の雰囲気は酷いものになってしまった。

小異を捨てて、大同につくことが事態の進展を図ります。議場に大同を示す人がいなければ、小異の議論から抜け出すことは難しい。

> ******

>このような人、どの会社にも何人かはいるのではないだろうか。

日本人の教育方法の効果によるものですね。暗記ものは、現実の内容を暗記する。現実は見ればわかる。
考えの内容は、非現実である。だから、一人ひとりが違っている。見ることが出来ない。話を聞いて理解しなければならない。このような創造力を育てる学習は、我が国にはない。
我が国では、全て異口同音になる正解を要求している。常識が発達する。人手不足はあっても、頭脳不足は生じていない。

> 傾向として、 「40、50代」 「知識だけはあるが、成果につながる本質的な話ができない」 「プライドが高く、人のやっていることに対して指摘は多いが、自分の意見は(批判されたくないので)出さない」 「男性」という属性があるので、わたしは彼らを「重箱の隅おじさん」と呼ぶ。

暗記ものの勉強で鍛えてきた人でしょうね。従って、序列順位は高くてプライドがある。序列社会のどこに行っても幅を利かせている。困りものですね。

>もちろん、これはオジサンに限るものではないが、何となくそう言う傾向は見て取れる。>で、その「webマーケティングの専門家の方、どうしたんですか?」> 「役に立たないだけでなく、会議のジャマをするんで切っちゃいました。皆の気分を悪くするだけの人なら、知識があっても邪魔ですよね。」

折角の知識が邪魔をしているのですね。



.