>今は流行らなくなりましたが、昔、学校で、夢を持ちなさいと言われたことがある人は多いと思います。
私もあります。’いつでも夢を’ という歌までありました。
>今思えば、言っている教師側も聞いている生徒側も実際何を言っているのか理解しないまま、空っぽの言葉だけが繰り返されていたことがよく判ります。
夢とは、見ることはできても、触れることは出来ないものでしょう。はかないものですね。これは、日本人の伝統的な夢の考え方です。
>夢とは一体なんだったのでしょうか。
民族によりその内容は違うのでしょうね。
>よく「夢を持て」という言葉を聞きます。ただ漫然とその日を過ごすよりも、将来の夢を持っていることは、やりがいにつながっていきます。その夢と志とは似ていますが、意味合いには多少の違いがあるように思われます。>「私の夢は家を建てることです」とは言いますが、「私の志は家を建てることです」とは言いません。
‘志す’ (こころざす) とは、’思い立つこと’ でしょう。
> 夢は個人的な願望ですが、志は世のため人のためという願いが込められています。「~がほしい」「~がしたい」という夢を語る人は多いのですが、高い志を持って生きている人はどれだけいるでしょう。
かつてアメリカに、人種差別撤廃の夢を語った有名な牧師もいましたね。
>お金や物、地位や名誉を得ることだけを願うのは寂しい気がします。
それは、現実しか知らない人でしょう。今だけ、金だけ、自分だけの処世術に従って生きている人でしょう。浅薄な人ですね。
> 地球環境や世界平和のためとまでいかなくても、少しでも身の回りの人たちの役に立ちたいという願いをもって生きていけるといいと思います。そこから生きがいが生まれてくることでしょう。【道を求める:和田善明師】
各人が移行すべき未来の世界の内容を脳裏に描くべきですね。内容は非現実でありますから、奥が深いです。
>私たちがかつて夢という言葉を使っていて、漠然とどこか違うと思いながらもそれが何処から来るものか判らなかったと思います。
西洋人と日本人では、夢が違いますね。彼らは、未来時制の文章内容を使って夢を描きます。日本語には、未来時制はありません。ですから、この種の夢は理解できません。
>引用した文章読むと「夢」という言葉が極めて個人的なものだということがよくわかります。
生理現象の夢は個人的なものでありますが、哲学の夢は大同の夢になる可能性があります。世界観の有無が前者と後者の違いになっています。
大同になった内容には、小異を捨てて協力する同志が得られる可能性がでてきます。夢は現実を動かして正夢になるでしょう。希望が湧いてきます。
>そしてそれは「個人主義」や「自己実現」同様に自我全盛の時代の、従って空回りが必然の言葉だったからこそ違和感があったのだということが今になって思い至る気がします。
我々一人ひとりに個人の哲学が必要ではありませんか。一人ひとりの哲学を護るためには個人主義が必要ですね。
哲学を語るためには、言語に時制というものが必要です。日本語文法には、時制というものがありません。
ですから、翻訳文化は空回りします。
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私もあります。’いつでも夢を’ という歌までありました。
>今思えば、言っている教師側も聞いている生徒側も実際何を言っているのか理解しないまま、空っぽの言葉だけが繰り返されていたことがよく判ります。
夢とは、見ることはできても、触れることは出来ないものでしょう。はかないものですね。これは、日本人の伝統的な夢の考え方です。
>夢とは一体なんだったのでしょうか。
民族によりその内容は違うのでしょうね。
>よく「夢を持て」という言葉を聞きます。ただ漫然とその日を過ごすよりも、将来の夢を持っていることは、やりがいにつながっていきます。その夢と志とは似ていますが、意味合いには多少の違いがあるように思われます。>「私の夢は家を建てることです」とは言いますが、「私の志は家を建てることです」とは言いません。
‘志す’ (こころざす) とは、’思い立つこと’ でしょう。
> 夢は個人的な願望ですが、志は世のため人のためという願いが込められています。「~がほしい」「~がしたい」という夢を語る人は多いのですが、高い志を持って生きている人はどれだけいるでしょう。
かつてアメリカに、人種差別撤廃の夢を語った有名な牧師もいましたね。
>お金や物、地位や名誉を得ることだけを願うのは寂しい気がします。
それは、現実しか知らない人でしょう。今だけ、金だけ、自分だけの処世術に従って生きている人でしょう。浅薄な人ですね。
> 地球環境や世界平和のためとまでいかなくても、少しでも身の回りの人たちの役に立ちたいという願いをもって生きていけるといいと思います。そこから生きがいが生まれてくることでしょう。【道を求める:和田善明師】
各人が移行すべき未来の世界の内容を脳裏に描くべきですね。内容は非現実でありますから、奥が深いです。
>私たちがかつて夢という言葉を使っていて、漠然とどこか違うと思いながらもそれが何処から来るものか判らなかったと思います。
西洋人と日本人では、夢が違いますね。彼らは、未来時制の文章内容を使って夢を描きます。日本語には、未来時制はありません。ですから、この種の夢は理解できません。
>引用した文章読むと「夢」という言葉が極めて個人的なものだということがよくわかります。
生理現象の夢は個人的なものでありますが、哲学の夢は大同の夢になる可能性があります。世界観の有無が前者と後者の違いになっています。
大同になった内容には、小異を捨てて協力する同志が得られる可能性がでてきます。夢は現実を動かして正夢になるでしょう。希望が湧いてきます。
>そしてそれは「個人主義」や「自己実現」同様に自我全盛の時代の、従って空回りが必然の言葉だったからこそ違和感があったのだということが今になって思い至る気がします。
我々一人ひとりに個人の哲学が必要ではありませんか。一人ひとりの哲学を護るためには個人主義が必要ですね。
哲学を語るためには、言語に時制というものが必要です。日本語文法には、時制というものがありません。
ですから、翻訳文化は空回りします。
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