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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

考える

2017-07-05 17:37:26 | 日本語脳
>人間は、「言葉」によって考えることは間違いありません。

そうですね。我々は文章を作って考えます。

>しかし残念ながら、日本語は厳密で抽象的な表現は得意でないように思います。なので、我々日本人は「考える」ことが苦手なのかもしれません。

日本語は、実況放送・現状報告の内容を伝うるための言語ですからね。現実描写では、考えは描けません。考えは、非現実の内容ですから。

>では、「考える」とはもう少し詳しくいうとどういうことなのでしょうか。考えることは、大きくは二種類に分けられると思います。分析的に考えることと、創造的に考えることです。
> 考える目的は、いろいろな言い方ができると思いますが、私は「意思決定」だと思っています。何かを決めるために考える。その際に、まず分析的に考えた上で、創造的に考えるというステップを踏むのではないでしょうか。

意思は未来時制の文章内容であります。時制は英語にはありますが、日本語にはありません。ですから、日本人は、意思の内容を示すことに難渋しています。自由は、意思の自由を意味します。意思が無ければ、折角の自由にも意味はありません。ですから、我が国では、’不自由を常と思えば不足なし’ となります。 
英語では、’Where there’s a will, there’s a way’ . (意思のあるところに、方法がある) と言いますが、裏を返して言えば、’意思のないところには、方法 (やり方・仕方) がない’ ということになります。仕方がないから、あきらめることになりますが、これは淡泊で、思い切りが良いということでしょうか。

>創造的に考えるということは、「分ける」ことではなく「統合する」ことです。大事なのは、統合する材料をできるだけたくさん頭の引出しにしまっておくこと、そしてそれが必要となった時にタイミングよく引き出して、「つなぐ」ことです。

同感です。統合が大切ですね。マスター・プラン、グランド・デザインの様な内容が必要ですね。

>ジョブズは、有名なスタンフォード大学でのスピーチで、こう言っています。

> 将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。運命、カルマ...、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います。

経験が大切ですね。人生のどこかで実を結びます。

>いろいろなことに興味を持って高いアンテナを張り、たくさんの経験を積む。それを楽しむ、開かれた心を持つ。「考える」ことは人生そのものなのですね。

‘○○の一つ覚え’ では、危機に及んで我々は滅亡します。貴重な経験を役立てるために、我々は ‘考える人’ になる必要がありますね。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)


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歌詠み

2017-07-05 05:49:20 | 日本語脳
(略)

>能は主人公となる「シテ(『羽衣』ならば天女)」と、相手役となる「ワキ(漁師)」の掛け合いで展開しますが、物語が進行すればするほど、会話の「間」が短くなり、共話も増えていきます。ふたりの気持ちは、ふたりを超えて風景になってしまう。会話が進めば進むほど深化し、表層の「こころ」から、深層の「おもひ(思い)」へと移行していきます。>自他の境がだんだん消失していくのです。

そうでしょうね。日本語を使うと没個性的になるでしょうね。

>そして、シテとワキの「共話」が頂点まで盛り上がると、それが地謡(じうたい)という、舞台の横に並ぶコーラスグループに引き継がれます。ふつうならば、地謡はふたりの会話を引き継ぐと思うのですが、両者の会話が地謡に引き継がれた途端、その場の風景のことなどが謡われてしまうのです。>ふたりの思いは自他どころか周囲の風景とも混ざり合い、溶け合ってしまう。個人の意識(こころ)から、集合的な無意識(おもひ)へと変容していくのです。

現実の世界は一つです。ですから、実況放送・現状報告の内容には、個人差がありません。

>これも能だけに限りません。日本人は昔から、感情を個人の中にとどめず、風景と溶け合わせるという心性があったようです。

日本語は、実況放送・現状報告のためにある言語ですからね。つまり、現実描写のための言語です。風景画を描くような言語です。非現実を表すことはできません。非現実を表現しようとすれば、’そんなこと言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’ と現実肯定主義者は言います。話にうつつ (現) を抜かしてはいけないということです。

>私は全国で「寺子屋」を開催しており、毎回様々な世代の方が参加されますが、時々、皆さんと一緒に文部省唱歌を歌ったりします。で、たとえば『朧月夜』を歌う。すると、高齢の方ほど涙を流されることが多いのですが、どこが悲しいんだろうと『朧月夜』の歌詞を読み直してみても、「悲しい」とか「さみしい」とかいうような感情表現はひとつもないのです。歌われている内容は、ただ風景だけです。しかし、歌われる風景によって記憶が呼び起こされ、涙を流す。風景の中には、心の奥底にある感情を刺激する「情の糸口(緒)」、すなわち「情緒」があるからです。

記憶は呼び起こされるが、文章にならない。言葉はバラバラな単語のままである。非現実の内容を文章にするには、時制というものが必要です。時制があれば、過去・現在・未来の三世界の内容が独立した文章になります。現実の世界は一つしかありませんから、この三世界は非現実の内容になります。つまり、個人の世界観です。頭の中にある内容です。考えの内容です。

>月や花は、ただ、そこに存在しています。しかし、それに対して、私たちは何かを感じる。本居宣長はそれを「もののあはれ」と呼びました。「あはれ」とは、見るもの、聞くもの、触れるものに対して心が何かを感じとり、無意識にあふれ出してしまう「あぁ……」という深いため息です。>「もの」というのは、物の怪や物思いという言葉があるように、言語化できない漠然としたものです。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。考え (非現実) には、個人差が有る。それぞれの個人の特徴が考えにあらわれます。文章ができれば、個人の内容を識別できます。個人の違いを大切に保護しようとすれば、個人主義の大切さがわかります。

>思いがかなわない、取り戻すことができない、自分にはどうにもできない。言葉にできない感情や思いを抱えたとき、「身(心と身体)」の底から嘆息(なげき)の声があふれ出し、それを風景に重ね合わせていく。『万葉集』をはじめとする歌集や『奥の細道』などにも、そうした歌や句はたくさん登場します。

文章化できない頭の中の内容は、バラバラな単語のままでとどまっています。ですから、日本人の想いは歌詠みになります。



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