>「日本/権力構造の謎」(カレル・ヴァン・ウォフレン著、早川書房)を読んでます。(略) >「何故に日本人は権力に対して、トコトン従順なのか?」と言う疑問に応えてくれています。(略) >私が今一番感じている言葉は、「儒教をベースにした”服従の哲学”」が日本人の意識の底にあること。
そうでしょうね。
>そして、中国のように”革命につながる天命思想”が欠如していること。どちらかと言うと、朝鮮・韓国のコテコテの儒教思想の”二番煎じ”が日本人の生活哲学にあること。
日本語・韓国語には言葉遣い(階称) があります。上とみるか、下とみるかの判断は、強迫観念の域にまで達しています。中国語には階称がありません。中国人は、親に向かって名前を呼び捨てにします。
>韓流(王朝物)で、必ず、問題が発生したときに、臣下が一番に発する言葉が”私を殺して下さい”である。「親に孝、君に忠」が色濃く出ている、”服従哲学”である。
上下社会においては、‘これしかない’ といった感じですね。
>私も長年サラリーマン生活をして来たが、結局はインフォーマルな”人間関係”で事を解決することが多かった。>それも理屈抜きの”主従的な関係”を活用することも多かった。それが嫌で仕方なかったが、やむを得なかった。
日本のような《高文脈文化》の特徴としましては、言葉以外に状況や文脈も情報を伝達します。重要な情報でも言葉に表現されないことがあります。 曖昧な言語を使用します。一般的な共通認識に基づくことを述べます。 双方の合意に基づいた契約でも状況によって柔軟に変更されることがあります。感情的に恣意決定されます。沈黙は不快ではありません。等があります。
>「日本/権力構造の謎」は、本当に日本人の意識の底にある、行動原理、生活哲学を的確にえぐり出している。
>今、福島原発事故で、とてつもない災厄に見舞われている”日本人”、海外(本当は日本のマスメデイア)から”冷静で秩序を乱さない行動”と褒められている。>一方、無能無策で、公然と犯罪的行為を繰り返す菅政権、これにも”冷静?”な日本人。
日本人の冷静さは、どちらも同根でしょうね。意思のあるところに方法がある。(Where there’s a will, there’s a way.) 意思の無いところには、解決方法は無い。意思は未来時制の文章内容でありますが、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人は意思が無い。それで、日本人には解決方法がない。無為無策でいる。座して死を待つことになる。
>これらは、私たちの意識の根底に、”服従の哲学”が染みついているからなのだ。決して是認できることではない。
我々は、言語を使って考えますからね。階称を上手に使うためには、序列判断に熟達しなくてはなりません。だから、服従の哲学は体に染みつきます。
>また、同署では、”服従の哲学”が繰り返し染みつくように、日本社会の仕組み”システム”が作られている、と言う。
日本人の社会は、序列社会ですからね。日本国の体制と日本語には、服従の哲学が織り込まれています。
>それは、国民に真実を知らさないこと、異を唱える人間を仲間外れに(或いは抹殺)すること。
日本語は曖昧な言語ですからね。言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがあります。民は知らしむべからず、よらしむべし。教育機関は、ご唱和の練習にいとまがありません。
>そして、権力者と国民の関係は、”権力者の慈悲で、国民が恩恵を享ける”関係である。決して、権利・義務の関係ではない。ルール遵守の法治主義でもなく”恣意的な超法規主義”。>法律無視で、傲慢な、菅政権や官僚たち、行政の振舞を見れば納得がいく。
日本人の人間関係は上下関係であって、対等な関係ではありませんからね。
>現在、”服従の哲学”を有効ならしめているのが、権力による”情報独占”と”超法規的な生殺与奪権”である。本質的には”システム”(官僚等)独裁である。>直接的な”服従の哲学”の推進者は、官僚支配のもと、マスメデイアと検察(裁判所はオプション?)だろう。>”服従の哲学”から抜け出す第一歩は、”真実を知る””公然と意義を唱える””行動する”だろう、と思う。(略)
そうでしょうね。曖昧な言語を使うのは好ましくない。意議を唱えるのには自己の世界観が必要です。行動するのには意思が必要ですね。
>我々も”静かな日本人”のまやかしに乗ることなく、”意義を唱え””繋がり””行動”を広げていきましょう!
我々は自己の世界観を持ち、お互いに世界観比べをして、未来社会の合意点に達して、その建設に大同団結して行きましょう。そうすれば、夢も希望も出てきます。それには、日本語脳は適切ではない。日本語・英語の二刀流で行きましょう。
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そうでしょうね。
>そして、中国のように”革命につながる天命思想”が欠如していること。どちらかと言うと、朝鮮・韓国のコテコテの儒教思想の”二番煎じ”が日本人の生活哲学にあること。
日本語・韓国語には言葉遣い(階称) があります。上とみるか、下とみるかの判断は、強迫観念の域にまで達しています。中国語には階称がありません。中国人は、親に向かって名前を呼び捨てにします。
>韓流(王朝物)で、必ず、問題が発生したときに、臣下が一番に発する言葉が”私を殺して下さい”である。「親に孝、君に忠」が色濃く出ている、”服従哲学”である。
上下社会においては、‘これしかない’ といった感じですね。
>私も長年サラリーマン生活をして来たが、結局はインフォーマルな”人間関係”で事を解決することが多かった。>それも理屈抜きの”主従的な関係”を活用することも多かった。それが嫌で仕方なかったが、やむを得なかった。
日本のような《高文脈文化》の特徴としましては、言葉以外に状況や文脈も情報を伝達します。重要な情報でも言葉に表現されないことがあります。 曖昧な言語を使用します。一般的な共通認識に基づくことを述べます。 双方の合意に基づいた契約でも状況によって柔軟に変更されることがあります。感情的に恣意決定されます。沈黙は不快ではありません。等があります。
>「日本/権力構造の謎」は、本当に日本人の意識の底にある、行動原理、生活哲学を的確にえぐり出している。
>今、福島原発事故で、とてつもない災厄に見舞われている”日本人”、海外(本当は日本のマスメデイア)から”冷静で秩序を乱さない行動”と褒められている。>一方、無能無策で、公然と犯罪的行為を繰り返す菅政権、これにも”冷静?”な日本人。
日本人の冷静さは、どちらも同根でしょうね。意思のあるところに方法がある。(Where there’s a will, there’s a way.) 意思の無いところには、解決方法は無い。意思は未来時制の文章内容でありますが、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人は意思が無い。それで、日本人には解決方法がない。無為無策でいる。座して死を待つことになる。
>これらは、私たちの意識の根底に、”服従の哲学”が染みついているからなのだ。決して是認できることではない。
我々は、言語を使って考えますからね。階称を上手に使うためには、序列判断に熟達しなくてはなりません。だから、服従の哲学は体に染みつきます。
>また、同署では、”服従の哲学”が繰り返し染みつくように、日本社会の仕組み”システム”が作られている、と言う。
日本人の社会は、序列社会ですからね。日本国の体制と日本語には、服従の哲学が織り込まれています。
>それは、国民に真実を知らさないこと、異を唱える人間を仲間外れに(或いは抹殺)すること。
日本語は曖昧な言語ですからね。言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがあります。民は知らしむべからず、よらしむべし。教育機関は、ご唱和の練習にいとまがありません。
>そして、権力者と国民の関係は、”権力者の慈悲で、国民が恩恵を享ける”関係である。決して、権利・義務の関係ではない。ルール遵守の法治主義でもなく”恣意的な超法規主義”。>法律無視で、傲慢な、菅政権や官僚たち、行政の振舞を見れば納得がいく。
日本人の人間関係は上下関係であって、対等な関係ではありませんからね。
>現在、”服従の哲学”を有効ならしめているのが、権力による”情報独占”と”超法規的な生殺与奪権”である。本質的には”システム”(官僚等)独裁である。>直接的な”服従の哲学”の推進者は、官僚支配のもと、マスメデイアと検察(裁判所はオプション?)だろう。>”服従の哲学”から抜け出す第一歩は、”真実を知る””公然と意義を唱える””行動する”だろう、と思う。(略)
そうでしょうね。曖昧な言語を使うのは好ましくない。意議を唱えるのには自己の世界観が必要です。行動するのには意思が必要ですね。
>我々も”静かな日本人”のまやかしに乗ることなく、”意義を唱え””繋がり””行動”を広げていきましょう!
我々は自己の世界観を持ち、お互いに世界観比べをして、未来社会の合意点に達して、その建設に大同団結して行きましょう。そうすれば、夢も希望も出てきます。それには、日本語脳は適切ではない。日本語・英語の二刀流で行きましょう。
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