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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

AI時代

2017-07-23 13:57:56 | 政治



>2017年5月に刊行された『そろそろ、人工知能の真実を話そう』〈早川書房〉。PHOTOGRAPH BY KAORI NISHIDA
>新しい社会のあり方をIT企業に託していいのか?

思考停止の新しいやり方ですね。

>「インターネットは、情報の民主化というよい結果をもたらした一方、IT企業という新たな権力を生み出しました。そのことに対して、ぬぐいがたい気持ち悪さを覚えたのです」

そうですね。気持ちが悪いですね。

>いわゆるIT企業による「プラットホーム資本主義」に対してガナシア教授が感じた違和感は、次第に大きくなっていった。
>「IT企業は、民主的な手続きから逃れる立場にあります。もちろん、彼らのサーヴィスを使わないということはできますが、それは選挙の投票とは違います。すでに起きている現象として、権力のあり方がIT企業に移り、国家より力を持ち始めてはいないでしょうか」

政治家は、権力をIT企業に渡してはなりませんね。我々の社会には、民主的な権力者が必要です。IT企業は、民主政治へのサービス提供に徹すべきです。

>ガナシア教授が問題視しているのは、決してIT企業そのものではなく、「政治システムとして何が正しいか?」という点である。

民主主義が正しいですね。政治家は政治システムを通してIT企業を利用しなくてはなりませんね。

>「自分たちの生き方を自分たちで選ぶ。そのような市民社会における基本的な権利が脅かされています。これはIT企業の台頭だけでなく、そもそも近代国家における統治の原則が崩れつつあるという背景もあるでしょう」

政治家が意思の内容を実現するために、ITを大いに利用しなければなりませんね。

>ある意味、IT企業が中心となって「新しい社会」がつくられようとしているなか、彼らのAIがわたしたちを“監視”する範囲が、今後ますます広がっていくことは間違いないだろう。もしそのような可能性があるのなら、哲学者がAI時代に果たすべき役割とは何なのか? さらに言えば、来たる未来において、哲学者はどのようなことを考えるべきなのだろうか?

哲学者がAIを駆使しなくてはなりませんね。

>「まず今後100年という時間軸で考えると、政治的に根源的な変化が起きるでしょう。そもそも国家というものが、ポジティヴにも、ネガティヴにも変わってくると思います。さらに言えば、わたしたちが当たり前だと思ってきた古典的な概念もどんどん変わっていくでしょう。たとえば、『友情』という概念はSNSの登場によって再構築されていますし、『通貨』もビットコインの誕生で再定義されています。あるいは『クルマ』も、いまや4つのタイヤがついたパソコンになろうとしています。テクノロジーの進展と未来をどう考えるのか、そこに哲学者も加わらないといけません」

そうですね。同感です。

>「わたしたちはある意味、政治の大転換を目にしています。いまや巨大企業が権力を握りしめ、国家はやせ細ってしまいました。そのような時代に、わたしたちはいかにして権力を監視し、どのような政治システムをつくりあげるべきでしょうか?」

民が権力を手放すのは、恐ろしいことですね。

>繰り返すが、ガナシア教授の問いかけは、決して単なるIT企業批判ではない。もしかするとわたしたちは、AI時代にふさわしい社会システムを考えるうえで、まだ言葉にすらなっていない新しい概念を探しているのかもしれない。そうだとすれば、概念の発明を行う哲学者ほど、力になるものはいないだろう。

そうですね。同感です。いつの時代にも哲学者は必要ですね。我々は考える人にならなくてはならない。AIは現実の鏡であって、非現実の内容 (考え) を主張しない。

>「ルネサンス以降、哲学の分野では、近代化への理想が揺らいでいた」とガナシア教授は著書の終わりで述べている。その一方で、技術者と科学者は、近代化への夢を体現し続けてきたとも。

我々は、目先・手先の技術の進歩に気を奪われていましたね。だが、我々には夢が無い。夢は自分の頭を使って見るものです。

>しかし、流れは完全に変わった。「テクノロジーの進化が、必ずしも人類を幸せにするわけではない」という悲観論が出ているいまだからこそ、哲学者は希望を語り、人々の視線を上げるべきではないか。言うまでもなく「希望」は、目指したい未来から逆算して、蓋然性の高い議論を積み重ねて生まれるものである。

そうですね。「テクノロジーの進化が、必ずしも人類を幸せにするわけではない」ということですね。テクノロジーなら殺人マシンもできる。
‘我々はどこから来たか’。’我々は何者であるか’。’我々はどこに行くのか’。の過去・現在・未来に関する哲学の命題は、今も昔も変わりませんね。

>…さて、ガナシア教授の未来への洞察を学んだいま、わたしたち一人ひとりがこれから考えなければいけない「問い」を記して筆を置くことにしよう──わたしたちは、どのような未来を目指したいだろうか?

我々一人ひとりが、自己の哲学を持つことが必要ですね。民主主義の世の中において、未来社会の内容に人民の支持を得て、協力して実現して行くことになるでしょう。



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文明の毒素

2017-07-23 04:32:41 | 文化

>日本の近代化と中国・朝鮮半島の近代化とでは、どこが決定的に異なるのか。日本の近代化は江戸時代に始まり、猛烈に西欧に学んだ明治時代で完成した。中国・朝鮮は近代化を頑なに拒み、西欧に学ばなかった。国家の上層部が中華思想の虜となって、西欧文明を無視するか、強烈な拒絶反応を示したからだ。

日本人にとっては、中国文化も西洋文化も外来文化であることに変わりはないのでがね。中国人にとっては西洋文化のみが外来文化ですからね。
横文字文化は、漢文になりにくいですね。漢字は、漢人 (中国人) の考えを伝えるために造られた文字ですし、非漢字圏の文化を伝えるための漢字を中国人はつくらないですからね。
漢文は、横文字文明を無視します。
日本人は、自己の消化力を使って外来文化を消化吸収しますが、中国人にはその消化酵素が無い。だから、強烈な拒絶反応を示しますね。

>中国の政治システムの基本は、絶対主権者としての皇帝、皇帝の手足となって土地と人民を支配する官僚、官僚を選抜する科挙制度という三点セットであった。これを正当化するイデオロギーとなるのは、儒教とその発展形である朱子学である。このシステムをまるごと導入したのは、高麗時代以来の朝鮮半島だ。

三点セットは、漢字と共にある。だから、漢字圏の人々は中国の政治システムから逃れられないですね。

>この一元化構造は官僚層による凄まじい汚職、腐敗をもたらす。彼らの民間に対する徹底的な収奪の伝統はいまも健在である。官僚の知識と教養の中核となる「四書五経」62万字は、産業化・近代化を生む土壌としての「科学の精神」が入り込む余地がない。なぜなら「論理的思考」と「実証的考察」が殆どないからだ。

漢字圏の人々は非現実である世界観を持っていない。現実がすべてである。
科学は一種の嘘である。勝手に考えた非現実の内容に現実の内容を組み合わせて矛盾を排除して仕上げた作り話である。
「論理的思考」とは、非現実の内容から矛盾を排除する知的作業である。
「実証的考察」とは、現実の内容を非現実の内容に組み込む知的作業である。
現実の世界は一つであるが、非現実の世界は、過去・現在・未来と三種類ある。世界観は非現実の内容である。
非現実の世界を念頭に置いて、現実のあり方を批判し制御すると、文明国になる。非現実の内容を現実の内容として実現し進歩する。
中国人のように現実がすべてであると確信すると、人間は傲慢になり恣意に対するブレーキが利かない。それで、汚職、腐敗は止まらない。

>中国と朝鮮は、結局「中華文明の毒素」によって、未来への可能性を殺されたということになる。日本も中華文明から多大な影響を受けたが、慎重な取捨選択を行ない、主体的かつ賢明な判断をした。その結果、明治時代において、日本はこのアジアでいち早く西欧と肩を並べる近代文明国家になったのだ。

「中華文明の毒素」とは、現実がすべてであると確信することの傲慢な態度である。日本人も無哲学・能天気であるが、序列社会の中においても向上心が生かされる仕組みを保持していた。だから、ブランド・ネイムのある国が出来た。


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