>100万円の寄付があったこと、大阪府庁や政権各部局が異例のスピードと価格で決済を繰り返したこと、籠池流に云うなら安陪総理の姿が見えてから神風が吹いたこと、庶民の9割はこれらひとつ繋がりで理解している。
そうですね。関係のありそうな事柄ばかりですね。
>それを打ち消すには、廃棄したとするメモの提出と関係者への聞き取りが求められる。>破棄したとか、無かったと突っ張る限り政治と官僚不信は増幅される。>介入の事実が有れば総理大臣も国会議員も辞めると安陪首相が大言壮語した以上、国家機関の関係者は開き直って強弁するしかない。>国民を愚弄する強弁を繰り返すから、国の民心はどんどん膿んでいく。
そうですね。安倍首相の人気も落ちています。
>日本社会の寄り合いの歴史を振り返れば、江戸期の郷村集落から江戸幕府の老中など幕閣の会議にまで、そして昭和期の戦後であっても、自己主張や多数決を避けて粘り強く構成員の賛同を諮る合議体運営であった。
日本人には意思が無いのであるから、自己主張はできませんね。
意思は未来時制の文章内容ですが、日本語には時制というものがありません。それで、日本人には意思が無い。我が国には意思の内容を尋ねる者もなければ、主張する者もいないです。だから我が国には、個人主義が無い。意思のない世界は自然そのものに見えています。人々は事の成り行きを粘り強く待っています。
>みなが賛同出来るまで粘り強く合議体の運営に勤める以上、相手の立場や心中も大切にしていたに違いない。
本人には意思はないが、恣意がある。意思は文章内容にならないから、意味もなければ矛盾も有りません。ただ、腹の底にたまります。だから、談合を繰り返して腹の探り合いをしなくてはならないのです。文章にならないものは、議会・議論にはなじみません。
>人の心を推し量る(忖度)のは、共同体の一員として大切な参加姿勢であったに違いない。
以心伝心・不立文字の伝統に従って、忖度 (推察) は共同体に重要な役割を果たしてきました。
>日本人に固有ないわゆる忖度とは、縄文気質に根ざした仁義信が前提にあるのではなかろうか。
持前の縄文気質で輸入文化の真似をするのは難しいですね。横文字文化は、正確性が必要とされる言語で表現され、伝達される情報は言葉の中で全て提示さますからね。
>だから民主主義/個人主義を信奉する外国人記者クラブの面々は、忖度の翻訳に苦労したということだろう。
我が国においては、民主主義は衆愚政治、個人主義は利己主義になりますね。
>そして官僚が拠りどころとする日本の行政法は世界に冠たるザル法と云われ、法の解釈やその執行範囲は官僚の裁量権がとても大きいといわれる。
日本人には意思はありませんが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) があります。恣意は文章になりません。腹の中にたまっています。バラバラな単語 (小言・片言・独り言) による裁量権により生きてきます。日本人は、曖昧な言語を使って仕事をしています。責任者は、言葉以外に状況や文脈も情報を伝達します。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。それだから、’言った、言わない’、の話で言い争いになる。伝達される情報は言葉の中で全て提示されています、でなければ議論は決着しません。これは、我が文化の ‘身から出た錆’ でしょうね。
>だから忖度による権限行使の範囲が広い、その屁理屈や言い逃れの狡猾さが官僚の能力評価軸ともなってしまう。
そうですね。話に筋が通らないから、人間としての信頼度が低い。屁理屈・言い逃れ・狡猾では立つ瀬がない。哲学が無く、持ち前の処世術を駆使して切り盛りすれば、’今だけ・金だけ・自分だけ’ の結果となる。現実にとっぷりと浸かった人生ですね。
> 縄文気質に根ざした「人の心を推し量る」日本人の心のあり様と、日本官僚の裁量権の大きさが重なり合い、今回の事件が生み出されたのであろう。
そうですね。日本語と縄文気質とは大いに関係が有りますね。
>マスコミを牛耳った一強政権といわれる安陪首相側近のお友達事業に対し、ゴマスリ官僚の悪しき「忖度」はこの事件だけに止まっているとは思えない。
そうですね。これは日本文化そのものを表しているのでしょうね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
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そうですね。関係のありそうな事柄ばかりですね。
>それを打ち消すには、廃棄したとするメモの提出と関係者への聞き取りが求められる。>破棄したとか、無かったと突っ張る限り政治と官僚不信は増幅される。>介入の事実が有れば総理大臣も国会議員も辞めると安陪首相が大言壮語した以上、国家機関の関係者は開き直って強弁するしかない。>国民を愚弄する強弁を繰り返すから、国の民心はどんどん膿んでいく。
そうですね。安倍首相の人気も落ちています。
>日本社会の寄り合いの歴史を振り返れば、江戸期の郷村集落から江戸幕府の老中など幕閣の会議にまで、そして昭和期の戦後であっても、自己主張や多数決を避けて粘り強く構成員の賛同を諮る合議体運営であった。
日本人には意思が無いのであるから、自己主張はできませんね。
意思は未来時制の文章内容ですが、日本語には時制というものがありません。それで、日本人には意思が無い。我が国には意思の内容を尋ねる者もなければ、主張する者もいないです。だから我が国には、個人主義が無い。意思のない世界は自然そのものに見えています。人々は事の成り行きを粘り強く待っています。
>みなが賛同出来るまで粘り強く合議体の運営に勤める以上、相手の立場や心中も大切にしていたに違いない。
本人には意思はないが、恣意がある。意思は文章内容にならないから、意味もなければ矛盾も有りません。ただ、腹の底にたまります。だから、談合を繰り返して腹の探り合いをしなくてはならないのです。文章にならないものは、議会・議論にはなじみません。
>人の心を推し量る(忖度)のは、共同体の一員として大切な参加姿勢であったに違いない。
以心伝心・不立文字の伝統に従って、忖度 (推察) は共同体に重要な役割を果たしてきました。
>日本人に固有ないわゆる忖度とは、縄文気質に根ざした仁義信が前提にあるのではなかろうか。
持前の縄文気質で輸入文化の真似をするのは難しいですね。横文字文化は、正確性が必要とされる言語で表現され、伝達される情報は言葉の中で全て提示さますからね。
>だから民主主義/個人主義を信奉する外国人記者クラブの面々は、忖度の翻訳に苦労したということだろう。
我が国においては、民主主義は衆愚政治、個人主義は利己主義になりますね。
>そして官僚が拠りどころとする日本の行政法は世界に冠たるザル法と云われ、法の解釈やその執行範囲は官僚の裁量権がとても大きいといわれる。
日本人には意思はありませんが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) があります。恣意は文章になりません。腹の中にたまっています。バラバラな単語 (小言・片言・独り言) による裁量権により生きてきます。日本人は、曖昧な言語を使って仕事をしています。責任者は、言葉以外に状況や文脈も情報を伝達します。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。それだから、’言った、言わない’、の話で言い争いになる。伝達される情報は言葉の中で全て提示されています、でなければ議論は決着しません。これは、我が文化の ‘身から出た錆’ でしょうね。
>だから忖度による権限行使の範囲が広い、その屁理屈や言い逃れの狡猾さが官僚の能力評価軸ともなってしまう。
そうですね。話に筋が通らないから、人間としての信頼度が低い。屁理屈・言い逃れ・狡猾では立つ瀬がない。哲学が無く、持ち前の処世術を駆使して切り盛りすれば、’今だけ・金だけ・自分だけ’ の結果となる。現実にとっぷりと浸かった人生ですね。
> 縄文気質に根ざした「人の心を推し量る」日本人の心のあり様と、日本官僚の裁量権の大きさが重なり合い、今回の事件が生み出されたのであろう。
そうですね。日本語と縄文気質とは大いに関係が有りますね。
>マスコミを牛耳った一強政権といわれる安陪首相側近のお友達事業に対し、ゴマスリ官僚の悪しき「忖度」はこの事件だけに止まっているとは思えない。
そうですね。これは日本文化そのものを表しているのでしょうね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
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