gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本語のローマ字化

2017-07-08 23:09:56 | 政治
>1945年(昭和20年)に敗戦した日本。その時に母国語である日本語を失いかねない危機に陥った経験があるようです。その戦争で玉砕覚悟で参戦した日本国民は、正しい情報を得ていないから=漢字という難しい言語を日本国民が理解できないからとアメリカ側は考え、全てをローマ字表記に変えたらよいという動きがあったようですが、当時の日本国民の識字率の高さが母国語である日本語の存続を守ったという話があるようです。

言語というものは本来、話すもの聞くものとして生まれたものですから、識字とは直接関係が無いのではありませんか。

> 日本の世界一リンクより
>□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
>戦争中、玉砕するまで戦い抜いた日本人を見たアメリカ人は、「日本人は間違った情報を伝えられていて、正しい情報を得ていないに違いない。なぜなら、新聞などがあのように難しい漢字を使って書いてある。あれが民衆に読めるはずはない。事実を知らないから、あんな死に物狂いの戦い方をするのだ。だから、日本に民主主義を行き渡らせるには、情報をきちんと与えなければいけない。そのためには漢字という悪魔の文字を使わせておいてはいけない」と考えた。<『日本語の教室』(大野晋 岩波新書)より>

漢字は、非漢字圏の人たちには難解ですね。漢字表記で挫折する初学者が多いですね。中国語や日本語が母語として多くの人に話されているにもかかわらず、第二言語として重要な地位を占めていないのはそのせいでしょう。

>日本語の改革を初めに提起したのは、GHQの民間情報教育局(CIE)のキング・ホール少佐だった。彼は、「漢字はエリートと大衆の調整弁であり、漢字の持つ特異性によって情報はコントロールされ、民主主義は広がらない」と考えていた。

昔、西洋で、ラテン語が聖職者と民衆の間を隔てていたことがありましたね。あれをキング少佐は思い出したのかもしれませんね。

>朝日新聞社などの新聞社も「漢字を廃止してローマ字に」と唱えた。当時の新聞は活版印刷で、かなや漢字の活字をひとつずつ埋め込んでいく作業量が多く、コスト削減のために少ない数で済むアルファベットを採用したかったからだ。また、戦前から存在した日本語をかな文字やローマ字にしようと考える勢力もこの動きに呼応し、日本語は危機を迎えた。「フランス語を日本の公用語にせよ」という暴論まで日本人作家からとびだした。

フランス語がどれほどの言語なのですかね。’漢字を廃するのは日本語の危機’ というのも、問題の本質をついていないような気がします。お変わりがなければ、それで天下泰平ということですかね。

>1946(昭和21)年3月、マッカーサーの要請により、アメリカ教育使節団が来日した。
>使節団はアメリカの教育制度の専門家27人だったが、日本の歴史文化に精通していたわけではなかった。25日ほどで日本を視察し、報告書で「日本語は漢字やかなを使わず、ローマ字にせよ」と勧告した。「ローマ字による表記は、識字率を高めるので、民主主義を増進できる」というのが、彼らの考えだった。

当時は日本がまだ国際化していなかったし、万事が無理解の状態にあったのでしょうね。

>1948年8月、CIEは「日本語のローマ字化」を実行するにあたり、日本人がどれくらい漢字の読み書きができるか調査を行なった。調査地点は270ヶ所の全国の市町村で、15歳~64歳の1万7千百人が調査対象になった。調査対象となれば、炭焼きのお婆さんでもジープで連れ出して日本語のテストをさせたという。
>調査の結果、テストの平均点は78.3点で、日本人は97.9%という高い識字率を誇っていることが判明した。テストで満点を取った者は4.4%で、ケアレスミスで間違えたのではないかという者で満点と認めてもよいという者が1.8%いた。合計すると6.2%(約500万人)が満点という好成績だった。

よくできましたね。すると、我々の非民主的な原因はまだほかにあると考えなくてはなりませんね。我々は、もともと没個性的ですからね。

>CIEはこの結果に驚き、日本の教育水準の高さに感嘆し、「日本人の識字率の高さが証明された」との判断が大勢を占めた。CIEの教育・宗教課長だったハロルド・ヘンダーソンは日本の禅や詩歌を愛する知日家で、ローマ字化推進論者のホール少佐の意見を抑えた。ホールがヘンダーソンの後継者として課長になると見られていたが、他のポストに移され、日本語のローマ字化の企みは潰えた。「アメリカ教育使節団報告書」は、教育勅語の廃止、六三制義務教育、PTA導入、教員組合の組織の自由などを勧告した。

残念なことでしたね。評価の観点が違いますね。

>戦後の日本の教育はこの勧告に基づいて行なわれていったが、唯一、実現されなかったのが「日本語のローマ字化」だった。圧倒的な識字率の高さが母国語の存続を守ったのである。<『国語施策百年史』(文化庁、ぎょうせい)より>

日本語は人類にとって価値ある言語です。ですから、中国人以外の非漢字圏の人たちにもぜひ日本語を習得してもらいたいですね。日本語をローマ字表記にすれば、彼らの我が国に於ける研修結果を高めることでしょう。日本語の音読が日本語の会話能力を飛躍的に向上させるでしょう。研修生が日本人と自由に話し合うことにより我が国の文化に対する理解を深めることができ、我が国は外国に対する大きな影響力を持つ国になることでしょう。我が国がカナ漢字表の識字率を誇っていては、時代遅れになるでしょう。我が国の政治家は、時代を先取りする必要がありますね。
>□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


.




難しい言語

2017-07-08 15:12:10 | 日本語脳
>「語彙とカバー率」という比較があるそうだ。「カバー率は、おおまかに言えば、ある語彙数でその言語をどの程度理解できるかを示している」リンク
>代表的な言語について理解可能になる必要語彙数は「フランス語では頻度順上位1000語、英語、スペイン語はもとより、ロシア語、中国語、朝鮮語でも2000語を知っていれば約8割理解できるが、日本語では同じ水準になるのに上位5000語が必要になる。上位3000語をマスターすれば、フランス語、英語、スペイン語では約9割が理解できるが、日本語では同じ水準になるのに上位1万語が必要になる。」のだそうだ。必要語彙数が多いという意味で、日本語が「難しい言語」という外国人は多いという。

日本語は易しいという人と、難しいという人がいますね。その違いは、文章構文か語彙数かの観点の違いに因るものでしょうね。

> 一方、日本語の特徴は「語らない言語」だ。古来から多くを語らないことを決してマイナス評価しない。言わずとも通じる事は言う必要がない。だから言わない。この判断に乏しい人は、時に「無粋」とか「空気を読めない」などと評価される。逆に、表面的には寡黙だが内面に厚い人情をもつ人(たとえば高倉健)は、その行動から察してプラス評価される。

日本人の精神活動の内容は、文章・言説では表すことが出来ないと言われています。その活動は心からこころへと伝えられるものであるそうです。以心伝心・不立文字ということでしょうか。師は ‘見て覚えろ’ と言います。正しい考えとその理解という次元の教育ではない。

>そうなると「多くを語らぬ日本語を理解するのに、多くの語彙力を必要とするのは何故か?」という疑問が生じる。

日本語は、ばらばらな単語 (小言・片言・独り言) で発せられることが多いから、その対応に多くの語彙力を必要とするのでしょう。

>リンクによると、  ・外国語を取り入れ易いので語彙が増える(カタカナ語) ・心理内容を表す感情関係の語が非常に豊かである ・擬情語(イライラ、ムシャクシャ、ヤキモキなど)が多い、 などがあるそうだ。

そうでしょうね。なるほどと思います。連想ゲームのようなものでしょう。正確なことはわからない。期待もできない。

>特に、心理内容を表す感情語が多いのが特徴という。たとえば「悔しい」に相当するフランス語、「もったいない」「さりげなく」「無心に」「あやかりたい」に相当するアメリカ英語、「懐かしい」に相当するドイツ語は、いずれも存在しないといった具合だ。

私にも思い当たる節がありますね。’勿体なない’、’もったいない’ と言って日本を歩く外国人を見たことがあります。日本人を見ると、’頑張って’ と声をかける外国人もいます。自分たちの国では、そんなことは言っていない。

>そうなると、日本語を理解するのに多くの語彙力を必要とするのは、他の言語と理解のポイントが異なるから、という仮説が成り立ちそうだ。

そうでしょうね。言語の利用目的が違います。

>すなわち、日本語は、意思疎通の力点が「感情」におかれている。そのうえで、感情とは「その気持ちわかる~」といった具合に共感することが理解に等しい働きをもっている。そして、感情とは“機微”という言葉があるように微妙な変化をもつ。互いに共感=同じ気持ちになるためには、微妙な変化に相当する多くの語彙が必要、ということになるのではないか。

そうでしょうね。 山本七平は「『空気』の研究」のなかで、感情の共感と論理の理解の違いを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

>我々日本人にとって、共感が成立しないもしくは拒んだ状態の会話は、どれだけ饒舌に語っても表面的な会話と感じられる。他方、言葉は少なくても、共感が成立した会話は深いと感じられ記憶に残る。

阿吽の呼吸ですか。共感の成立は、仁王・狛犬などに似たところがあります。

>このように考えると、日本語を理解するには語彙力は二の次の課題と思えてきた。最も重要なのは、互いに共感できるか、相手を無条件に肯定視できるか、ということではないか。共感する感情に相当する語彙は必要であるものの、それは共感することを助ける(固定する)ものであって、第一義ではない。

なれ合いが必要ということになりますね。お友達内閣の様なものか。広い心を示すことは難しいでしょうね。

>・・・語彙力以前の問題となると、いよいよ欧米人には理解できないかもしれない。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。英米人は、考えの内容を理解しようと努力しますからね。東は東、西は西では、どうしようもない。日本語と英語の両方の勉強が必要ですね。今の地球は英語の世界ですから、特に日本人の方に英語の勉強が必要ということになるでしょう。





.