gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

言語の違い・思考の違い

2020-09-03 21:23:09 | 文化

 

>359853 言語の違いによる「思考」の違い  >柏木悠斗 ( 技術職 )  20/09/03 PM00 

>(リンク)より

> ノーベル文学賞を受賞した小説家である川端康成の「雪国」の書き出し部分をみると、原文(日本語)では >『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。』 >となっている。>これに対して英語訳では >『The train came out of the long tunnel into the snow country.』 >となっている。 

> (英訳:エドワード・ジョージ・サイデンステッカー※) >※「雪国」の英訳版である「Snow Country」を出版した翻訳家

>この英語訳を日本語に訳すと「電車は長いトンネルを出て、雪国へと入った。」となり、主語に重きが置かれている(=主語が文中の主役を果たしている)ことが分かる。

 

そうですね。 ‘There was the snow country when the train came out of the long tunnel.’  は駄目ですかね。  

 

> 英語で文を作成する際には主語(主題・主役)を設定せざるをえないため、ここでは「train(電車)」が主語として設定されている。

 

使用言語が、我々の思考の枠組みを設定しますね。

 

>もっとも、「雪国」の原文(日本語)で描かれているのは「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という“(人が登場しない)情景”であり、電車の行動ではない。 >そのため、主語に重きを置く(=主語を置かざるを得ない)英語では、原文(日本語)が伝える情景を伝えきれていない。 

 

意訳ですからね。読者に違和感を感じさせないような内容にすること必要ですね。  

 

> 英語では文中での対象物同士の関係を明確に区別する(=“行動する主体”と“行動を受ける客体”を区別する)性質上、“二項対立”の概念が生じやすい。 

 

そうですね。英語に比べたら、日本語は ‘受け身・受け身’ の連続体制ですね。   

 

>この二項対立の概念は、文化面でも特徴として現れている。>たとえば、英語圏の宗教観では神と人を明確に対立関係に置くことで一神教の考えが確立され、浸透している。  

 

そうですね。神様の内容は頭の中にいる。人間様の内容は頭の外にいるのですから一神教の考えは確立しますね。    

 

>また、人間関係の中では自身と他者を明確に区別することから、いわゆる個人主義思考が強くなる傾向がある。 

 

そうですね。人人により考えの内容は違いますからね。没個性的にはなりませんね。この状態を守るのが個人主義ですね。   

 

>英語が対象物同士の関係を明確に区別する性質を持つのに対して、日本語は対象物同士の関係を明確に区別する性質を持たず、主語となる“主役”や“主題”、“主格”が不明確のまま文が成り立つ特徴を持つ。

 

そうですね。司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」  

 

>こうした日本語の特徴は、たとえば宗教観では“あらゆるものに神が宿る”とする「八百万の神」といった考え方(=神と人を厳密に区別することのない多神教の考え)にもみられる。

 

一神教の神は人間に対して命令しますね。多神教の神様たちは命令せずに出雲に集まって談合をします。インドの神様たちはどうしているのかしら。  

 

>また、対象物同士の関係を明確に区別する性質を持たないことから、人間関係の中では和や協調を重んじる傾向が文化としてみられる。  

 

自他の区別のない世界においては、人間は特に和や調和を重んじる必要があるのでしょうね。  

 

>このように、言語体系(文法構造)の違いによって、ヒトの思考やヒトによって形成される社会・文化にも違いが生じることになる。 

 

そうですね。人は与えられた言語の枠内において思考しますね。だから、社会・文化の違いが表れますね。       

 

 

.

 

 

 


国語が育てる日本人 

2020-09-03 17:17:32 | 文化

 

>359850 国語が育てる日本人-1  >森羅万象 ( 知命 万象 )  20/09/03 AM09 

>■国際派日本人養成講座 リンク > 国語が育てる日本人 リンク > より引用です。

> ~引用開始~

> 幼年期は大量の語彙を素読で蓄積し、少年期は自分で考える力をとことん伸ばす。

>■1.「言葉は通信手段に過ぎない」!?

>  昨日の国際派日本人養成講座Liveでは、「国語が育てる日本人」編と題して、国語教育が人作りの根幹であることをお話ししました。 >本年度から、小学校5、6年生に英語を正式教科として教えることが始まっていますが、この「改革」の前提にあるのが、「言葉は通信手段」という考え方でしょう。 

 

言語は伝達の手段でありますが、思考の手段でもありますね。  

 

>  たとえば、日本人が中国人に「こんにちは!」と呼びかけようと思ったら、「ハロー!」という英語に訳して声に出します。 >それを聞いた中国人は、「ニーハオ!」と訳して受けとめます。 >二人をつなぐ「ハロー!」という英語は、携帯と携帯をつなぐ通信用電波のようなものだという考えです。 

 

英語は国際的な言語ですね。習得する価値のある言語ですね。  

 

>  英語を覚えれば、こういう国際的コミュニケーションができるようになる、という考えは、それはそれで言語の一面を捉えていますが、言語には人作りのためにもっと深い意味がある、というのが、弊誌の考え方です。

 

思考の手段としての言語の価値も重要ですね。  

 

>■2.母親はなぜ自分の息子を「おにいちゃん」と呼ぶのか?

>  言語は、人間が世界を認識する枠組みを形成します。>たとえば、家族をどう呼ぶか、という点で、日本語は英語とは相当違う言葉を使います。

 

そうですね。   

 

>  母親が2人兄弟のうち、兄の方を「おにいちゃん」と呼んだりします。 >また、父親、すなわち夫を「パパ」と呼びます。 >母親にとって、なぜ自分の子供を「おにいちゃん」と呼び、夫を「パパ」と呼ぶのでしょうか?  >英語を母国語とする人々から見れば、訳が分かりません。 >  こうした呼び方を、「親族用語の原点移動」と解する言語理論があります。 >つまり、母親は家族のうち、もっとも幼いメンバー、すなわち次男に原点を移動し、次男の視点から「おにいちゃん」、「パパ」と呼ぶのです。 >なぜ、こんなややこしい呼び方をわざわざするのでしょう。 >  それは日本語では、長幼の序を大切にしており、一番、若いメンバーを基点にして、長男は「おにいちゃん」、夫は「パパ」と敬意を込めて呼ぶ、というのが、筆者の解釈です。 

 

日本語は、階称 (言葉遣い) というものがあります。日本語の日常会話には、’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な上下判断 (序列判断) が必要です。 

日本人の序列関係は世俗の上下関係であるために、個人の倫理感とは乖離しています。ですから、日本人の挨拶は形式主義に陥っています。

‘上と見るか・下と見るか’ の判断には、牛若丸と弁慶の例にも見られるように、通常勝負の成績が用いられます。近年は偏差値なども都合の良い資料とされています。ですから、日本人は序列の枠にとらわれた生活をしています。

 

>家族の中でも敬意を込めた呼び方をする、という所に、濃やかな人間関係を大切にする日本語の世界観が表れています。  

 

それは、人間序列のある世界観ですね。敬意を込めないと無作法になる世の中ですね。    

 

>  ちなみに、英語では、母親は長男を「ジョン」、次男を「フレッド」、夫を「マーク」などとすべてファーストネームで呼びます。 >そこには親しみはあっても、敬意は籠もっていません。 

 

個人の倫理観に基づかない形式的な敬意は、有って無用のものですね。面従腹背が多くなり誤解のもとにもなりかねませんからね。  

 

>ただし、子供たちは、母は「マミー」、父親は「ダディー」などと、多少の敬意を込めて呼びます。  

 

これらは、敬意とは関係がないでしょうね。  

 

>  このように、日本語を母国語として育つか、英語を母国語として育つのか、によって、世界の捉え方がまるっきり変わってきます。    

 

そうですね。事実を解釈する面において、日本語と英語では非常に違っていますね。    

 

(略)

 

 

.