>なぜならば、答えが決まっていない事を教える力が今の学校先生にはないからである。 >答えが一つだけ決まっている事だから、試験もできるし、指導もできる。
そうですね。現実は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。楽ちんである。正解はただ一つである。
>答えが沢山ある。>極端な話、学校の先生は、二つある事は教えられない。>教えられないから受け付けないのである。>しかし、世の中は、答えが一つしかないような事柄の方が希なのである。
そうですね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。議論・対話をわが国でも普及させよう。
考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。内容は幾らでもあるから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。自己実現が難しい。
>迷い迷って自分なりの答えを出し、その答えに従って責任を持って生きていく。>教えなければならないのは、予め用意された答えではなく、生き方なのである。
そうですね。日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には他力本願・神頼み。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
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>答えがいくつもある、なにが正解なのか定まっていない。>そんな現実の中で決断し、行動すること、自らの決断には責任を持ち、誤りがあれば正し、さらに前進していく。まさに生き方そのもの。
そうですね。日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。
意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。
‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)
‘兎角、この世は無責任’ という事か。
>しかし最も大切な成長期に、強制的に「指示待ち人間」になるよう訓練されているのが現実です。
そうですね。日本人には意思がない。だから、指示待ち人間になるしかないでしょう。
>それは小学校から徹底的に仕込まれます。 >教育は人の生き方、社会の在り方に影響する根底的な課題です。
そうですね。日本語の文法の中に我々の生活の問題がありますね。それが社会の在り方に影響を与えていますね。
>今こそ自ら問題を発掘し、答えを出し、実現していくことが求められています。
そうですね。国の総力を挙げてわが国の教育の問題を発掘し、その答え見つけて実現する必要がありますね。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。時制を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観を持つことも出来、それに基づいた批判も可能になります。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。留学して英語で日常会話が話せるようにすることも必要ですね。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
>投稿者 hoiku : 2020年09月18日 TweetList
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