gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

派閥の連合政権 2/2

2020-09-06 15:10:53 | 文化

 

あるのは人間序列の内容ばかりですね。残念ながら政治哲学がない。

非現実 (考え) の内容は、英語では時制 (tense) のある文章により表されます。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表されます。その内容は世界観 (world) と言われています。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態であるが、人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行くことになります。

‘あるべき姿’ (things as they should be) は非現実の内容であり、 ‘今ある姿’ (things as they are) は現実の内容である。非現実の内容は、過去の世界から見た未来 (過去未来) の内容として表現されます。現実は、実況放送・現状報告の内容であります。

自己の考えの内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になることができます。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。

日本語には時制がありません。ですから、日本人には世界観がありません。そして、日本人には批判精神がない。政治家もマスコミもただ現実を垂れ流します。子供の作文のようなものです。現実の内容には個性がない。だから、候補者選びもただの肉体の選出になります。本人にも相手にも何を考えているのかわからないから、相手からも信頼されません。協力者が得られないので、社会に貢献する度合いが限られています。  

 

> (中略)

> 【総裁へのステップと内閣改造で存在感】

>  自民党結成の55年保守合同そのものが吉田自由党と鳩山日本民主党の2大潮流があり、党そのものが最初から一つの政党というより派閥(実質的政党)の「保守連合」の趣がありました。  

 

一つに束ねられた縦割りの構造ですね。  

 

>一般に吉田系が「ハト」(穏健)、鳩山系が「タカ」(強硬)とみなされてきています。 >  こうした政策的な違いに加えて派閥は1947年から93年まで続いた衆議院議員総選挙で採用されていた中選挙区制(1つの選挙区からおおむね3人から5人を選出)が存在感を増す理由となっていました。>55年体制から93年の総選挙で敗れるまで自民党は83年~86年の新自由クラブとの連立を除いて単独与党でした。 

 

一強多弱の状態でしたね。  

 

>過半数維持のためには3人区で1人ではダメで2人当選を目指します。>4人区、5人区となるとさらに当選者を増やさなければなりません。>同じ選挙区で自民党同士が争うわけです。

 

政治哲学がない人達には、政治音痴の戦いが必要になりますね。   

 

> (中略)

>  中選挙区制度下の自民党は政権が行き詰まるとカラーの異なる別派閥の領袖を立ててイメージを変えるという疑似政権交代をしばしばやってきました。 

 

祭りごとには気分・雰囲気の転換が必要ですね。  

 

>タカ派の岸内閣が60年安保条約改定と引き換えに辞任するとハト派の池田勇人氏に代わったり、田中首相(佐藤派の流れ)が金銭スキャンダルで追われた際には「クリーン三木」として清潔イメージがあった三木氏を押したりといった具合です。 >田中氏と福田氏のようにガチンコ対決で生きるか死ぬかの抗争を展開した例もあります。  

 

無哲学・能天気の戦いですね。日本人は建設的な協力ができませんね。   

 

>  いずれにせよある領袖が総裁(単独政権下ではイコール首相)になると他派閥は少しでも内閣に自派の議員を押し込もうとします。 >総裁(=首相)もある程度は飲まないと足下が不安定になるので各派閥の推薦リストに沿って受け入れてきました。 >内閣改造も同じで当選回数を重ねた「適齢期」の議員を内閣に入れてバランスを取ります。 >この手法は述べ約150人もの大臣を「製造」した吉田氏以来の伝統でした  

 

現実にとっぷりと浸かった戦いですね。このような状態では先の見える戦いにはなりませんね。わが国の先行きが思いやられます。教育を改革して偉大な政治家と有権者を育てよう。  

我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制のある考えの幅を広げる必要がありますね。さすれば、我々は自己の意思の表現も可能になり、自己の世界観も公表が可能になります。国際的にも日本人対する理解が増して、未来社会の建設にも協力者が得られます。かくして、我々は人類の進歩に大きく貢献することになるでしょう。  

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)   

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)    

 

>(後略) 

 

 

.

 

 

 

 

 


派閥の連合政権 1/2

2020-09-06 14:46:44 | 文化

 

>354356 特殊な集合体「自民党派閥」の変遷と実体  >匿名希望          20/03/08 PM05 【印刷用へ】 

>かつての自民党は、派閥の連合政権であり、党内で政権争いをしていると言われました。  

 

そうですね。わが国の政治家に政治哲学がない。 ‘我らは何処に向かうのか’ の疑問に答える人がいない。

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)  

 

> 1990年代は、その構造的体質から来る腐敗や金権政治が蔓延し、結果として国民の信頼を失い、小選挙区制が導入させるに及んでその力は大きく減衰しました。 

 

日本人には非現実 (考え) というものがない。だから日本人は、現実にトコトン執着し、処世術を駆使することになります。  

 

>しかしその後の政治は、劇場型の大衆迎合政治が横行し目先的な人気取りに走る政権が乱立します。  

 

民主政治下の政治家には人気が大切ですからね。   

 

> 昭和の政治史を彩った、長期的な国益と強烈な指導力を発揮する巨大な政治家は、その後現れていません。  

 

日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力が不足している。困った時には他力本願・神頼み。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)    

 

>かつての派閥政治とはどのようなものだったのか。 >その功罪は何か。

 

日本人は、思考停止の状態にある。だが、議員は序列 (派閥) に名前を連ねれば、語る内容は序列の領袖が用意してくれる。だから、あとは受け売り専門の人となるだけでよい。この場合、自分の考えはあって無用のものである。これは楽ちんである。これがわが国の政治の現状である。  

 

> 「iRONNNA」さんの記事を紹介します。 >リンク

>(前略)

>  自民党の派閥といえば、中選挙区(後述)時代は一つの政党に匹敵するぐらいの力を持っていて「領袖」と俗称される派閥トップへの就任が総裁へのステップだった時代もありました。

 

そうですね。

 日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断無くしては日本語の会話は話せない。かくして、’ものの上下’ の考えは人間序列 (派閥) への観念と発展する。  

‘上と見るか・下と見るか’ の判断には、勝負の成績が用いられる。敗者は、敗者の態度により礼を正さなくてはならない。だから、下位の者は恥をかく。これはわが国の ‘恥の文化’ の始まりである。今日では、偏差値なども都合の良い序列判断の資料となっている。

日本人の礼儀作法は、序列感に基づいている。だから、序列のない外国においては、日本人は礼儀なしである。

礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表れに過ぎない。個人的精神的な意味合いがない。だから、日本人の尊敬にも浅薄さが付きまとう。

日本人は奥ゆかしい(深い考えがあるようにみえる)。実は、奥 (考え) がない。だから、その中身は浅薄である。

 

>そこで、自民党の派閥とはいかなる歴史があり、実体はどうなのか?について、改めて振り返ってみます。 

 

考察の価値がありますね。  

 

> 【今いくつある? 自民党の派閥】

>  「派閥」は非公式で私的な集団で主に自民党内のグループを指します。 >一般の会社でもよく「派閥」という言葉が用いられますが、事務所まで設けて独自活動するケースはみられないので「自民党の派閥」は特殊な集合体です。  

 

派閥は序列の一形態ですね。わが国は序列社会で成り立っていて、万世一系の天皇から子供社会のガキ大将まで縦割りの構造になっています。   

 

>  また「派閥」はたいてい表向きは政策集団を装っていて対外的にはそちらの名称を名乗るのが普通です。  

 

そうですね。しかし、人間序列が存在すれば、その看板は内容とはそれほど関係がありませんね。  

 

>岸田派の「宏池会」のように。多くは定例会を木曜日に開きます。  

 

序列関係にある者同士は、お互いに日本語の言葉を交わしやすいですからね。こうした環境においては、部外者は自然に阻害されます。だから、我々は島国根性になりやすい。  

 

> (中略)

> 【主な派閥の歴史とそれぞれのカラー】

> 戦後の2大保守政党であった吉田茂氏が率いた自由党と鳩山一郎氏の日本民主党が1955年に合同して自民党が誕生しました。 >派閥の源流は吉田系と鳩山系、および日本民主党の前身にあたる改進党の三木武夫氏の流れが加わります。 >吉田系(自由党系)の後継が後に首相となった池田勇人氏と佐藤栄作氏の池田派と佐藤派。 >鳩山系(日本民主党系) 

 

 

.

 

 


幼児的 2/2

2020-09-06 00:41:37 | 文化

 

>ルース・ベネディクトは、『菊と刀(The Chrysanthemum And the Sword)』で、恩を着せられることによる義理が、日本人の意識を強く制約していることを指摘した。  

 

そうですね。わが国は義理と人情の世界ですからね。序列があれば、下位の者は上位の者に恩を着る (庇護を受ける)ことになります。義理 (序列関係による義務) が生じます。義理立てが強く日本人の意識を制約していますね。    

 

(略)

> 『菊と刀』は、日本の文化と欧米の文化の違いを「恥の文化」と「罪の文化」の違いとして説明したことでも有名である。  

 

そうですね。

わが国は序列社会ですから、下と見られたものには ‘恥’ がありますね。

欧米は意思を働らかせる能動的な社会ですから、個人に加害者意識があって ‘罪’ の意識に苛まれています。  

 

>日本の経営者が「世間をお騒がせして、まことに申し訳ありません」と言って辞職するのは、日本の文化が恥の文化だからである。 

 

そうですね。失敗は日本人の恥ですね。  

 

>罪の文化の視点からすれば、罪がないのなら辞職する必要はないということになるが、恥の文化の視点からすれば、世間を騒がせて恥ずかしいということが、引っ込む口実として認められる。 

 

そうですね。

英米の社会では、人が罪を感じれば行為者は有罪になります。 

わが国では人間に意思がない。だから、全ての行為に責任が生じない。責任のない行為には罪もない。  

 

> 恥とは、他者という鏡に映し出された醜い自我に対する不安の感情である。>その際、醜いかどうかに普遍的な基準はない。

 

絶対基準が立てられないから、比較は相対基準になりますね。  

 

>周りが色白のお嬢さんばかりなら、一人だけガングロ・ヤマンバでいることは恥ずかしいことだし、周りが不良少女ばかりならば、一人だけ良い子ぶりっ子でいることは恥ずかしい。  

 

人の振り見て我がふり直せ’ ですかね。没個性的を求める感情ですね。個人主義の対極にありますね。  

 

>このように、恥は、鏡像的な他者との相対的な関係で決まる、浮き上がることを恐れる感情に過ぎない。  

 

出る杭は打たれる’ ですかね。   

 

>これに対して、罪は、超越的で普遍的な規範に違反したときの意識である。

 

そうですね。加害者意識が高じると罪の意識になりますね。素人の陪審員でも判断できるのが罪の意識ですね。     

 

>罪の文化の人は、もし自分が正しいことをしていると確信しているならば、周囲から笑われても、恥ずかしいとは思わずに、むしろ周囲が無知なのだと考える。  

 

そうですね。あくまでも個人判断が中心ですね。わが国には、   

周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)   

 

>日本人には、唯一神から与えられた、超越的で普遍的な規範はない。

 

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)      

 

>だから、しばしば主義主張に節操がない。  

 

そうですね。

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)      

 

>かつて鬼畜米英を叫んでいた日本人が、一転して親米的になったのを見て、マッカーサーは、日本人の精神年齢が12歳だと言ったが、このように、罪の文化から見れば、恥の文化は幼児的に見える。  

 

恥の文化には基準が立てられない。それは感情ですから。  

 

>アリストテレスも、『ニコマコス倫理学』の中で、恥は「若年者にふさわしい感情」だと書いている。  

 

恥は感情ですね。  

 

>なぜ日本人は幼児的なのか②~「甘え」の構造~へ続く。 

>281587 なぜ日本人は幼児的なのか②~「甘え」の構造~  >mosimobox ( 20代 鹿児島 会社員 )  13/09/26 PM03 【印刷用へ】 

>なぜ日本人は幼児的なのか①~日本文化のネオテニー的性格~の続きです。

> 日本文化の幼児性を、もっと直截に「甘え」という言葉で指摘したのが、土居健郎の『「甘え」の構造』である。 >もちろん、甘えるという現象は、日本人だけに見られるわけではない。 >どこの国でも、幼児は母親に甘えるものだ。 

 

そうですね。アニマルにも見られますね。   

 

>だが、日本では、幼児がいつまでも母親に甘え続けることができるのに対して、多くの国では、子供たちは、父親によって、精神的な乳離れを強要される。 

 

インディペンデント’ (自主・独立) は、アメリカ人の子供に対する褒め言葉ですね。  

 

>では、なぜ日本人は、母親に甘え続けることが許されるのだろうか。 

 

それは母親が自分の幼児に対して自分への帰属意識を強く求めているからでしょう。そこには ‘あるべき姿’ (things as they should be) が存在しません。   

 

>なぜ、日本の文化は幼児的な段階に留まっているのか。  

 

それは日本人が自国に対して強い帰属意識を抱いているからでしょう。  

 

(略)

 

 

.

 

 


幼児的 1/2

2020-09-06 00:20:37 | 文化

 

>281586 なぜ日本人は幼児的なのか①~日本文化のネオテニー的性格~  >mosimobox ( 20代 会社員 )  13/09/26 PM03 【印刷用へ】 

>日本人、文化の特殊性を子育てに引き続きネオテニー(幼児性)という切り口で調べてみました。 > 以下、 システム論アーカイブリンクより引用します。

> ***以下引用***

>ウーパールーパーのように、幼生の特徴を残したまま成体になる個体を、生物学ではネオテニー [neoteny] と呼んでいる。     [uparupa: メキシコ原産の両生類のサンショウウオの仲間]

>日本という国は、経済的には大人になったが、文化的・精神的には幼児のままであり、その意味で、ネオテニー国家だということもできる。

 

早くまともな大人になりたいですね。   

 

>  生物学者や人類学者によれば、全人類の中ではモンゴロイドが、全類人猿の中ではヒトが、最もネオテニーの特徴を持つとのことである。 >だから、ネオテニーとして特徴づけることは、必ずしも貶めることにはならない。

 

しかし、こと文化的・精神的については貶められたくないですね。  

 

>これまで、日本文化の特殊性について様々な議論がなされてきたが、以下、代表的な古典的見解を取り上げて、それらがすべて、ネオテニーの属性(幼児性)であることを確認しよう。 > 中根千枝は、『タテ社会の人間関係』の中で、日本の社会をタテ社会として特徴付け、欧米型のヨコ社会と対比した。 >「あなたの職業は?」と聞かれて、例えば「システム・エンジニアです」と答える社会はヨコ社会で、「松下の社員です」と答える社会はタテ社会である。 

 

そうですね。日本人は自己の属する序列に対する帰属意識を強く持っていますね。   

 

>日本では、スペシャリストが複数の会社を相手に才能を売り歩くという雇用形態よりも、一つの会社に定年まで所属して、様々なポジションをこなすという雇用形態のほうが主流である。 

 

そうですね。日本人は序列メンタリティ (考え方) の持ち主ですからね。日本は序列社会でできています。序列人間は序列社会の中で働き甲斐がある。それは義理 (序列関係より生じる義務) を果たすことができるからである。義理堅い男の働きぶりを見れば周囲の者の話しの仕方も変わってくる。それが当人に満足感を与えることになる。

日本語には、階称・言葉遣いというものがある。だから、日本人は ‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な上下判断を必要としています。上下判断を体系的に考えると人間序列が見えてきます。そのように考えるのが序列人間というものです。  


>
少なくともこの本が出版された1977年ごろまでは、日本は完全なタテ社会だった。 > 中根が注意を促しているように、タテ社会にヨコの関係がないわけではない。 >「場」による集団内部に限定されたヨコの関係ならある。>だから、中根が言う「タテ社会」とは、「ウチ」と「ソト」の区別にこだわる「ウチ社会」である。 

 

日本語には敬語というものがあります。わが国の人は、相対敬語を使いますから自己の序列の内外を鋭く区別しますね。韓国語にも敬語があります。韓国は絶対敬語を使いますから、内外の区別はありませんね。自分の親の動作・振る舞に対しても敬語を使って表現します。  

 

>「ウチ社会」は、「ウチ」という言葉が示しているように、家をモデルにした社会である。 

 

そうですね。’うち’ は内側であり、家の内側の意味ですね。  

 

>どの文化でも、家族という集団は、利益追求のための機能的集団(ゲゼルシャフト)ではなくて、愛の共同体(ゲマインシャフト)である。

 

そうですね。愛の共同体は、アニマルも同じですね。   

 

>ただ、多くの文化では、子供たちは、ゲマインシャフトから追い出されて、ゲゼルシャフトの中で大人として成熟していくのに対して、日本人は、いつまでもゲマインシャフトの温情主義的なぬくもりの中に留まろうとする。 >戦前の日本政府は、国“家”を、天皇を家長とする家族に喩えた。  

 

八紘一宇’ (全世界を一つにまとめて一家のように和合させること。) ですね。第二次大戦のとき 日本が国家の理念として打ち出し、海外進出を正当化するスローガンとして用いました。   

 

>戦後、国家のイデオロギーが崩壊すると、日本人は、会社に家庭的なゲマインシャフトを求めた。  

 

わが国は、会社も家庭も序列制ですからね。ものの上下が日本語によりあらゆる所で制度化されていますね。’親しき中にも礼儀あり’ ですかね。日本人の礼儀は序列作法でできていますね。     

 

>そして、人見知りする幼児のように、日本人は、共同体内部では親密な人間関係を築きながら、よそ者に対しては、引っ込み思案な態度を示す。  

 

内弁慶ですね。序列関係が決まっている相手には話がしやすいが、決まっていない相手には引っ込み思案な態度を示しますね。     

 

 

 

.