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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本人の教育 2/2

2020-09-20 14:31:49 | 文化

 

各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy.

哲学とは考えの事である。政治に関する考えは政治哲学になる。歴史に関する考えは歴史哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

日本人には考えがない。それは思考を停止しているからである。だから、日本人は、無哲学・能天気の人間になっている。  

思考停止している人間に対する教育は必然的に詰め込み教育になっている。知識を詰め込まれた人間は、受け売り専門の人になる以外にない。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実 (考え) の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。Seeing is believing. 楽ちんである。正解はただ一つである。

非現実・考えは頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。だから、日本語を使って英米流の高等教育に成果を上げることは難しい。   

 

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) を励行することにより日本人は、序列人間になっている。序列人間は序列社会 (上下社会・縦社会) を作って生活している。そして、縦割りの弊害をも味わっている。序列の形成には、通常、勝負の成績が用いられる。昔は勝負によって身分制度が定まった。だが、民は身分による制度の固定を好まなかった。明治維新の身分制度の廃止の後は、立身出世の世の中になって民は勢いづきました。近年では偏差値なども都合の良い上下判断の資料とされていますから、受験競争ばかりが激化して人間性が失われている。序列順位ばかりか注目されて、その意義が等閑視されています。しかし、序列人間にはこの混乱は手の施しようもない。

日本人の礼儀作法は、序列作法に基づいている。だから、序列なきところに礼儀なしである。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を良く心得ている必要がある。人を見損なってはならないからである。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。

日本人は奥ゆかしい(深い考えがあるようにみえる)。実は、奥 (考え) がない。だから、浅薄である。日本人には、儀式 (作法) ばかりがあって、教義 (考え) というものがない。だから、子供の時には宮参り。結婚式はキリスト教。葬式は仏式でやる。全ての行為は、気分・雰囲気で決められている。気分・雰囲気が理性をしのいでいるところが、日本人の玉に瑕である。米国人が黒人蔑視の言葉を禁じているように、日本人も上位・下位の者に対する言葉遣いの差を禁じると理屈の通る社会への変革を呼び起こすことができるでしょうね。

 

 

 

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日本人の教育 1/2

2020-09-20 13:47:19 | 文化

物事の優劣を論ずるときには比較法を使います。現実 対 現実の内容を比較します。

それ以外に西洋人には、現実 対 非現実の比較法もあります。

現実は千変万化します。ですから、現実 対 現実の比較結果は絶えず変化します。

非現実 (考え) の内容は変化しません。ですから西洋人は非現実の内容を自己主張として絶対化できます。絶対神の住む世界を示すことも可能です。

日本人には現実があって非現実がありません。ですから、日本人には相対があって絶対がない。

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)

ですから、現実 対 現実の比較に専念しなくてはなりません。だから、上と見るか、下と見るかの判断だけになります。ともすれば、封建的な世の中になります。そして、自説に力を入れるためにあらぬことか現実の内容を絶対化します。  

 山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、日本人の現実を絶対化する有様について述べています。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と書いています。自己の結論が次々と変わるので日本人は相手からの信頼が得られません。ですから、わが国には信念の人が見当たりません。

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)   

 

非現実の内容は、時制のある文章により表されます。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表されます。その内容は世界観と言われています。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態でありますが、人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行きます。自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になります。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになります。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。過去から現在へ、そして現在から未来への移動は想定外になっています。ですから、日本人が新しい世界を切り開くことはあり得ないことです。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容を垂れ流します。ですから、個性がなくわが国には有力紙が育ちません。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。日本人が国際社会に貢献する度合いも限られている。  

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。時制を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観を持つことも出来、批判もできます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。留学して英語で日常会話が話せるようにすることが必要ですね。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

 

 

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