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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

橋本宏氏 

2020-09-19 13:47:33 | 文化

 

>277629 『学ぶ』中身を本気で考える時機に来ている  >橋本宏 ( 20代 会社員 )  13/06/10 PM10 【印刷用へ】 

>>共同体では、まず第一に、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。(256228

> >「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。その先鋒となったのが、金貸しが生み出した共認支配の専門家たち=学者や評論家やジャーナリストである。彼らは現実と直対することから逃げて、もっぱら書物から学んで専門家となった連中である。(256228

 

民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。 (チャーチル)  

 

> 「学び」は私たちの意識や価値観をかたちづけるものであり、「何を学ぶべきか?」その中身によって、社会の役に立てる意識が生まれるのか? >むしろ社会の弊害にしかならないのか? >その分岐点となる重要な選択です。

 

政治に関する考えは政治哲学になる。歴史に関する考えは歴史哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。 科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

 

> 社会の役に立つ活きた「学び」とは、上記の文章にもあるように、歴史的な外圧状況⇒適応過程の進化の積み重ねと、そこから生まれた先人たちの原理や知恵(経験)です。

>①かつての外圧はどのようなものであったのか?(歴史的事実) 

 

天然痘  

 

>②その外圧を突破するための、原動力(活力源)は何であったのか? 

 

天然痘ワクチンの開発  

 

>③その外圧を突破するための、成功体験(原理)は何であったのか? 

 

WHOの天然痘根絶宣言・1980   

 

> 今、目の前にいる先人であれ、今は亡き先人であれ、私たちが学ぶべき対象は上記のような「現実に起こった壁(課題)」をどのように突破してきたのか?という歴史体験とその構造です。

 

イギリスの医師、エドワード・ジェンナーが開発した種痘による。

 

>また、「学びの深さ」と、次代を予測する仮説思考の豊かさはおそらく比例していると思います。 

 

ポリオ、麻疹も同様にして撲滅可能です。

 

>つまり明確な方針を立案するためには、目の前に起こっている現象だけでなく、近代←人類←生物史に遡って歴史をさらに学んでいくことが、経営者あるいは社会人には求められている能力だと考えられます。  

 

過去にはペストが流行りましたね。  

 

> 一方で、学校教育を始めとする日本の教育システムは、以下のように、現実とはかけ離れた事象を寄せ集めたものであり、社会を閉塞に追いやった元凶ともなっています。  

 

現実直視が必要ですね。   

 

> 平等などの現実にはあり得ない近代観念に基づく「国語や道徳」、実際の環境とは切り離された画一環境による実験から生まれた「科学」、支配階級や金融資本家などの支配の構造を隠している「社会」など、都合の良い観念から作られた知識は社会の弊害にしかなりません。

 

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)      

 

また、受験のための知識の詰め込み教育は、表層的に知識を身につけることであり、社会で必要とされる、ものごとの背景や原理に想いを寄せる能力の弊害にもなっています。 

 

詰め込み教育の本質は処世術 (現実) ですね。世界の学問 (非現実) の振興とは関係ありませんね。  

 

これだけ社会がガタガタになってきている時代の中で、何を学ぶべきか?  私たちは、本気で考えねばならない時機にきていると思います。

 

そうですね。我々は世界観を持つことが必要ですね。 非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実を垂れ流す。だから、個性がない。個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。時制を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

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仮説思考 

2020-09-19 09:48:23 | 文化

 

>358220 完璧な正解よりも「仮説思考」ができる人こそ、アタマを使っている  >匿名希望         20/07/06 PM10 【印刷用へ】 

>リンク より引用しています。

> ***

>■「仮説思考」とは何か

>会社や組織に入って仕事を始めたばかりのときは「わからないことだらけ」のことが多いのではないかと思います。 >突然「◯◯の会議を開催して」とか「××の報告書を書いて」と言われた場合、自分がその分野に経験や知識がないことだらけのところからのスタートになるはずです。>そのような場面ではどのように対応すれば良いでしょうか? >もちろん「まずは情報収集から」ということで、周りの人にどうすればいいか聞きまくったり、ネットで検索したりといったことを始めるのも一つの手です。 

 

いよいよ実力発揮ですね。  

 

>ところがここにも「正解病」のわなが潜んでいます。 > 学生時代の学問の世界とビジネスの世界での決定的な違いの一つが、スピードと正確性に対しての感度です。>学問の世界では「正解がある」場合が多く、時間をどんなにかけてでも正しさを追求する、つまり「100点を取りに行く」場面も多かったと思います。

 

そうですね。正解のある問題は、採点が楽ですからね。出題者は助かりますね。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。 矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる考えも、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。 矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。議論・対話を普及させよう。 考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。幾らでもあるから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。自己実現が難しい。  

 

>ところが「正解がない」ビジネスの場面では、しょせんどれほどのデータを集めようが最終的に「絶対に正しい」という確信が持てる場面のほうが少ないため、たとえ「65点」でもスピードを重視しその時点での最善の結論を出して先に進むことを求められることの方が多いと言えます。 >このように、「その時点における時間と情報で求めうる最善の結論」を仮説といい、常に仮説を持った状態で仕事に取り組む考え方を仮説思考といいます。 > 特に学生時代に試験で優秀な成績を取ることができた優等生だった人ほど陥りやすいわなが「正解病」であり、「完璧主義」です。  

 

そうですね。<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)   

 

>常に十分な情報を集めて完全に自信が持てる状態になってからアウトプットするという考え方で、ある程度やり方や結論が確立された世界においては高い品質につながるという点で長所になるのですが、完成度は低くてもまずはスピーディーに結論を出すことが求められるビジネスの現場ではむしろマイナスに働くために、注意が必要です。 > 完璧主義と正解病は表裏一体で、正解が存在すると信じている人ほど陥りやすいのです。

 

そうですね。

 

(略)

>そもそも正解なんかないと考える人はたとえ10点でも20点でもその場であるもの(つまり仮説)を早い段階で上司に見せながらすり合わせをしつつ作業を進めるので、少なくとも納期寸前に大きな認識のズレが発生することは決してありません。 > 要はスピード>正確性でなるべく早く仮説を持って作業を確認しながら進めることが、正確性>スピードで最後まで答えが出ないという進め方よりも効率的に作業を進められ、ビジネスにおいては圧倒的に有利な場面が多いということです。

 

そうですね。

 

(略)

*** 

 

 

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学校

2020-09-19 03:17:34 | 文化

>main | これからの共同体社会はどのように創られていくのか-15 » >2020年09月17

>学校は『百害あって一利なし』>明治以降の学校教育の歴史を総括すれば、そのように断言できるのではないかと思います。>このように言うと、「えっ、百害ってどんな害?」「一利か二利くらいはあるのでは?」「友達もできるし」と反論の声が聞こえてきそうですね。

>何故学校は『百害あって一利なし』と断言できるか。>大きく3点の事実があります。>にほんブログ村 歴史ブログへ 

 

わが国の学校の運用方法に問題があるということではないでしょうか。  

 

>1つ目は、学校で教える教科の中身が漢字と加減乗除を除き、全く役に立たないから。

(略)

>現に中卒(16歳)の子どもが大卒年齢(22歳)になるまでの6年間、仕事を通じて学んだ姿と、学校に通い社会人になる大卒新人を比べたら、とてつもない能力の開きが出ています。>それは知識や技術だけではありません。>人間関係力や言語能力、危機察知力、創造力など仕事に必要な多様な力が身についています。>また、時代遅れの使えない知識を植え付けられることで、実際に社会に出て全く通用しないばかりか、固定観念が邪魔をして現実が直視できず、その後の成長の妨げになることも多い。 

 

学校は思考を停止している人間に徳目の暗記を強制します。すると受け売り専門の人が育成されます。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

理解は難しいので、忖度 (推察) を発達させて理解の代わりにしています。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。    

 

(略)

>2つ目は、学校により遊びが奪われることです。

(略)

>幼児期のごっこ遊びも典型ですよね。

>子ども達は遊びを通じて、大人になったときに必要な能力を獲得しているのです。

 

そうですね。’ごっこ遊び’ は人畜共通の学習方法ですね。大切な遊びですね。   

 

>この子ども達の成長に欠かせない遊びを学校が奪っているということです。>子ども達の内発的な遊び欠乏に蓋をし勉強を強いることで、成長の機会を奪うばかりでなく、内発的な意欲活力をも奪っていきます。  

 

そうですね。気を付けないといけない点ですね。

   

(略)

>そして3つ目が、言語能力、追求力の衰弱、意欲・活力の衰弱です。

(略)

>明治に学制を布いて以降、学校教育約150年を総括すれば、今の意欲・活力ドン底、追求力・言語能力ドン底の現実を見れば、失敗であったと大きく総括すべきであろうと考えます。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がないから仕方なく無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には他力本願・神頼み。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

何事をするにも受け身になっていますから主体性に欠けていますね。

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを理解する必要がありますね。時制を使った考え方をすれば、我々は自己の意思を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観を持つことも出来ます。さすれば相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

(略)

>posted by KIDA-G at : 2020年09月17日 | コメント (0件) | トラックバック (0)   

 

 

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