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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

植松努氏 2/2

2020-09-16 22:26:56 | 文化

 

>だから僕は、自分にできることをします。  

 

自主独立の教育法ですね。ご成功を祈ります。  

 

> 僕の経験と、僕の思考を、子ども達に伝えます。 >やがて、その子達が、社会の主力になっていきます。 >そのとき、社会が変わるかも知れない、と思っています。

 

それは革命的な教育法でしょうね。成功の確信はないのですか。     

 

>10年、15年かかるでしょう。>だからこそ、やり続けるしかありません。 

 

具体的にはどのようにしてやるのですか。  

 

>国を支えるのは、人間1人1人の能力です。 

 

そうですね。個人の個性を重視した教育が必要ですね。個人主義の徹底が必要ですね。   

 

> 大人が、子どもを、自分たちの理解の範囲内に留め置くと、 子ども達は大人以下の存在にしかならないです。>それを繰り返すと、社会は衰退していきます。 

 

そうですね。それは、負のスパイラルですね。  

 

>いままでの日本では、人口増加が、その衰退を隠していただけです。

 

そうですね。わが国には ‘人手不足’ はあっても、’頭脳不足’ の話はついに聞かれませんでしたね。頭脳の事には関心のない人たちばかりですかね。      

 

>これからは、大人が、子ども達を、自分の理解の向こう側に押し上げる必要があります。>ていうか、ようするに、 (1)夢と希望を奪わない

 

そうですね。わが国には何でもあるが夢と希望がない。昔の人はこの現象を ‘時代閉塞’ と呼んでいました。否定の文章でいえば ‘夢と希望’ がない。肯定でいえば ‘時代閉塞’ があるということになります。要するに、その意味する内容は日本人の ‘未来が閉ざされている’ ということの指摘です。 

非現実の内容は、英語では時制 (tense) のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表されます。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態であります。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。しかるに、日本語の文法には時制がありません。だから、日本人には世界観がない。過去から現在へ、そして現在から未来への移動は日本人の脳裏では想定外になっている。だから、’時代閉塞’ があり ‘夢と希望’ がありません。

 

(2)あきらめかたをおしえない。だけでいいです。>この二つを、がんばっていくしかない、と思います。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制というものがないので、日本人には意思がない。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思はなく仕方がないので無為無策でいる。諦観になりますね。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力が不足している。困った時には他力本願・神頼み。

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく) 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における ‘時制’ の有用性を十分理解して利用する必要がありますね。さすれば、自己の世界観を持つことができるので、諦観の人になることはありません。また、自己の意思を社会に対して明らかにすることにより、責任ある人間としての信頼を得ることができます。国際社会において協力者を得て未来社会の建設に励む機会が得られます。かくして、我々は人類の進歩に多大な貢献することが可能になります。

 

 

 

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植松努氏 1/2

2020-09-16 21:54:30 | 文化

 

>353215 子どもたちのために、大人がすべきこと。 >北口真穂 ( 25 会社員 )  20/01/28 PM10 【印刷用へ】  >リンク [植松務のブログ]   

>先日、講演のあとの質疑応答で、> 子どもから「なぜ、子ども達を支えようとするのか」と質問されました。

 

それは未来の社会が子供の双肩にかかっているからでしょうね。  

 

>話を聞いてくれた子の中で、植松電機のマグネットを買う人は、まずいないでしょう。>だから、植松電機のコマーシャルとしての意味は、ほぼないです。>そうじゃないです。>僕らが製品を作って、買ってもらえるのは、 社会に購買力があるからです。>社会の購買力が失われたら、自動的に、企業の売り上げも下がります。 

 

そうですね。  

 

>では、社会の購買力とはなにか? >それは、社会の能力です。>社会を構成する個々人の能力です。>それを伸ばすことこそが、真の経済成長です。

 

有能な人が多ければ、購買力が増大するということですね。     

 

>しかし、僕の目から見て、現在の日本の教育は、日本人の能力を高めていると思えないのです。

 

それはどうしてですか。       

 

>むしろ、本来なら素晴らしい能力を発揮するはずの人を、 素直でまじめで勤勉で、暗記の量と正確さだけの、確実にロボットに負ける人にしています。  

 

それはありますね。暗記力の競争をさせて受け売りの専門家ばかりを増やしていることですね。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)  

 

> 自信を奪い、ひとめを忍ぶような生き方をする人にしてしまっています。  

 

そうですね。自主独立の精神が抜け落ちていますね。   

 

>その教育を受けてきた保護者が、それを子ども達に、「よかれと思って」強要します。  

 

心ここにあらざれば、視れども見えず’ ですね。   

 

>かつてから、様々な戦争で、どんなすごい武器も、運用する人間によっては、 性能を発揮しないことが証明されています。>だから、どんなに素晴らしい機械を設備投資したところで、 運用する人間の能力を高めないと、無駄な投資になるということです。 

 

そうですね。’猫に小判’ ですね。 

 

> 産業への投資と、教育への投資は、同じ重要性で行われるべきなのですが、 日本の教育への投資は、先進国では珍しいほど少ないです。

 

日本の教育目的は人間序列を定めることですからね。どんなにつまらない仕掛けでも序列判定に役立てば、それはそれで存在価値があるのです。ですから、先進国の教育目的とは根本的な違いがありますね。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な上下判断が日常会話にも必要です。ですから、日本人は堅苦しい生活を送っています。  

‘上と見るか・下と見るか’ の判断には、通常勝負の成績が用いられています。現在では、偏差値なども都合の良い資料となっています。批判精神の欠如した日本人の身から出たさびのようなものですね。  

 

>もちろん、金をかければ、教育が改善されるか・・・ったら、そんなわけないです。>なぜなら、現在の受験対策教育は、思考力の真反対にあるからです。

 

そうですね。思考を停止の人達に適した教育ですね。 学問と関係の無い社会で教育が盛んになるのを教育者は座視できないでしょうね。     

 

 

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